第10章 北へ

始まる前のエピローグ

『怖くないよ。だって、あなたはまるで―――』


 最初にそう言ったのは、彼女だった。

 同情、憐憫、あるいは同族意識? どれも違う。あの時の自分にそんな気持ちはなかった。

 ただ、彼女は世界の底の掃き溜めで希望を見ていたから。絶望しなかったから。それが眩しかった。

『あなたは知っている? 私達は、きっとどこへだって行けるんだよ』

 彼女は語ったから。

 青い空の深さを。雨の冷たさを。眩い流れ星の輝きを。

 その世界の優しさは、きっといつか自分達にも向けられると。そう信じて疑っていなかったから。そのひたむきさを笑うことは出来なかった。

 泣いてばかりの小さい女の子。

 華奢でひ弱で、いつか闇に呑みまれてしまいそうなちっぽけな存在。

 死を恐れていた、ごく普通の女の子。

 それでも彼女は『いつか』を信じた。

 終わらない夜に光を導いた。まるで眩い月のように。だから――。


『私、行くね。怖いけれど』


 だから、自分も決めたのだ。


 ――いつか彼女が心の底から笑えるなら。

 もし、もしもそんな世界が本当にあるのなら。

 万分の一の可能性でも良い。

 本当にそんなものがあるのなら、叶えたくなった。


 夢を見たくなったのだ。

 たとえそこに自分がいなくても――



 世界なんて大嫌いだった。いや、正確には違う。

 いっそ、『滅べ』と思うくらい憎めれば良かったのに、自分はそこまでの興味を持てなかったのだ。

 世界にも、自分にも。生きることにも。何もかもにも。


 けれど、どこかで彼女が生きているなら。

 それだけで少しだけ好きになれそうな気がしたから。


 護ってみる価値があるのかもしれないと。


 そう思えたから。だから。



『呼ばれたのは俺だ。連れて行ってよ』



 *

 *



 波の音で目を覚ました。

 微かに揺れているから、多分船だろう。狭い部屋だ。

 壁際には、縦に寝台が3台ほど連なっている。脱ぎちらかった衣服が柵のあちこちからはみ出していた。

 自分が寝ているのも、それらと同じ造りの物のようだった。おそらく、その最下段に自分は寝ている。

 圧迫感のある上段の寝台を見上げて、アッシュはぼんやりと考える。

 今はいつだろうか? と。

 あの時の声は止んでいる。多分クロスが黙らせたのだろう。

 それが証拠に――自分は正気だ。少なくとも、そう思いたい。

 狭苦しい寝台の上で身を起こして見回すも、自分以外の人影は見当たらなかった。ということは、少なくとも夜や早朝ではないのだろう。

 そう見当をつけて、簡素な寝台から降りる。

 頭がひどく傷む以外は、特にこれといった異常はなさそうだ。散らかった服や酒瓶を避けながら、部屋を横切る。

 形が微妙に曲がった扉を開けると、予想通りの幅狭の通路。とりあえず誰かが通りかかるのを待つかと、そう考えた時。

「起きたのか?」

 驚いたような声と視界をよぎる白。顔を向けると、湖水色の瞳もこちらを見つめていた。

 立ち尽くすクロスに、アッシュは軽く肩をすくめる。

「そのようで。――あれからどうなったんだ?」

「お前が倒れてから3日が経っている。ここはバド船長の船だ。7日ほどで、とりあえずスカイウスに着く」

 手短に事情を説明したクロスは、不意に顔をしかめた。

「ところでお前……大丈夫か?」

「何が?」

「何、じゃない。ずいぶんと苦しんでいたぞ」

 言って、彼女はアッシュの左胸に軽く手を伸ばした。彼女の繊手がアッシュに触れ――だが、その温かさを彼は感じることが出来なかった。

「……」

 己の胸にある彼女の手首をそっと掴み、アッシュはまじまじと見下ろす。それから、自分の手を握ったり開いたりする。

 まるで、握りこんだ彼女の手首の感触を確かめるかのように。

「……どうした?」

 さすがに不審に思ったクロスが怪訝そうな顔をする。だが、それに対するアッシュの答えはなかった。

 彼女の手を放した後は、今度はしばらく自分の手で握りこぶしを作ったり、開いたりしている。ついにはその掌をつねりだすに至って、クロスは苛立たし気に再度問いかけたのだった。

「何をしてるんだお前は?」

「――わからないんだ」

 今度は答えがあった。だが、どういう意味を持つのかわからなければ答えの意味はない。

「なに?」

「触覚が消えた」

 淡々と言って彼は顔をあげた。驚いたのはクロスだけで、当人はいつものように苦笑をしてこう言った。

「やっぱり」と。

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