神の言葉
路地の最奥にいる神官が、持っていた紙から顔を上げた。
「アッシュ・ノーザンナイト。間違いないな」
抑揚のない声は寒々としたこの空間に何とふさわしいものだろう。浮かんだ皮肉な感想に、アッシュは唇を吊り上げた。
ふてぶてしいその表情に、神官の眉がぴくりと動く。
「質問に答えなさい。滅びの心臓を宿す者よ」
まるで聖書でも読んでいるかのような、無機質な神官の声。実際は彼の手にあるのは聖書ではなく手配書なのだろうが。
まったく愉快な話ではないか。『中立』という言葉が、これほど可笑しく感じたことは今までにない。
「はは…なるほどな。悪い冗談だよ、まったく」
低い笑い声を響かせるアッシュに、路地の空気がいっそう冷える。
「質問に――」
「はいはい、わかった。わかりましたよ」
再び質問を繰り返そうとする神官を遮ってアッシュは両手を上げた。
「確かにそれは俺の名前だ。そして、あんたらの探してる≪予言≫はここにある」
トン、と己の胸を軽く叩いてアッシュはにやりと笑った。
元より人間離れした顔立ちをした青年である。そうするだけで、特異な美貌に凄味が増す。
迫力に押された神官達は思わず唾を飲み込んだ。その反応を冷たく見据えたアッシュは口を開いた。
「どっちだ?」
「な、何がだ?」
逆に問いかけられ、狼狽えながらも神官はようやくそれだけ口にした。
「サザンダイズかイストムーン。どっちから聞いた?」
闇がこごったかのような漆黒の瞳に射竦められた神官は、それでもブンブンと首を横に振った。どころか、心外だと言わんばかりに瞳を険しくしたのである。
「サザンダイズにイストムーンだと? 愚かな。我らはただ神の意思にのみ従い、神の声のみを聴く。他国に指図されることなどありえんと知れ!」
堂々と胸を張られ、今度はアッシュが訝しげな顔をする番だった。
「何だと…?」
「法王様からの託宣である」
男の言葉に、アッシュの顔から表情が消える。
ソレア教の法王に選ばれるのは、唯一神の声を聴ける者だという。
法王による託宣。それは神の声。
「神は言った。『≪予言≫をいたずらに用い、世界を喰らう悪魔を滅せよ』と」
朗々と己の正当性を主張する神官達の目には、疑いの色など一欠片もなかった。
反論しかけ、しかし神官達の目にアッシュは口をつぐむ。
彼は知っている。あの目は、何も受け付けないことを。
自らが信じ、植えつけられた「絶対」にのみ耳を傾けることを。
――我らが王のため勝利を捧げよ
それはかつて彼が所属していた国の仲間と、よく似た目をしていた。
歪な「正義」と「大義」を刷り込まれ、それ以外に生きる意味をなくした哀れな亡者達。
彼らはかつての自分と同じだ。ただ、信じている者が違うだけで。
国と王を信じて剣をとった自分達は、戦争のための道具だった。
では、神を信じて祈る彼らは何と呼ばれるのだろうか――?
ジリ、と一歩足を引いたアッシュは素早く視線を走らせる。
前方にいる神官達との距離は、完全に剣の間合い外だ。どれだけ速く動こうとも、1人に剣が届けば良い方だろう。そして、その間にきっと他の神官の魔術が発動する。
「逃げるのか、悪魔よ?」
神官が厳しい声で詰問する。
――もし逃げるのが罪だというならば、確かに自分は大罪人と罵られても仕方ないのかもしれない。
ふと、そんな考えがアッシュの頭に浮かぶ。
後ろの神官達との距離も、やや遠い。おそらく、彼らもアッシュの剣を警戒してのことだろう。
だが、それが仇となる。
「逃げるさ」
神官の問いにアッシュは臆することなく答えた。その足がじりじりと後ろに下がる。
気づかれないようにゆっくりと。だが、確実に距離が開く。
「どこへ逃げようというのだ?」
神官の疑問はもっともと言えた。
横道はおろか、わずかな隙間もないこの狭い路地裏で彼は前後を挟まれているのだ。
奇術でも使わない限り、脱出は不可能である。普通なら。
「さて、どこだろ………なぁ!」
ギリギリまで下がっていたアッシュは真っ直ぐに走り出す。
目指すは咄嗟に身構える神官達の真上。
踏み切られた体が宙を舞い、口を開けて見上げた神官達の顔に黒い影を落とす。
「ま、待て!」
我に返った神官が慌てて叫ぶ。だが、その時には既に彼らの頭上の屋根で、黒衣の青年は素早く身をひるがえしている。
「どこに逃げようと同じだぞ! お前に神の安らぎは与えられない! 生きている限りな!」
皮肉なほどに澄み渡った空にその声は大きく響いた。
だが、その問いに答える者はすでに彼らの視界から消えている。
「うるせぇ」
屋根の影で、呪詛にも似た言葉を聞いたアッシュは小さく呟いた。
「知ってるんだよ。そんなこと」
吐き捨てるように毒づくと、アッシュは隣の路地に身を躍らせた。
逃走は、まだ始まったばかりだ。
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