決着と逃走
「あなたは、彼女のことをどこまで知っているのですか?」
スッと目を細めたザインが、元の気取った口調で問いかける。
彼女、とはおそらくクロスのことだろう。何を言い出すのかと身構えながら、アッシュはあっさりと答えた。
「知らん。あいつ自身覚えてないらしいからな」
「真紅の空に漆黒の太陽を頂いた白銀の獅子」
唐突にザインが口にした言葉に、アッシュは目つきを険しくした。
「その紋章を知っていますか?」
――私には過去の記憶がない
暗い廃墟で寂しそうに笑った少女の顔が、アッシュの脳裏に浮かんだ。
あの時彼女が見せたペンダントの紋章は、確かに真紅のサザンダイズの紋章だった。
「お前は何か知ってるらしいな」
「知っていますよ。まぁ、私も先日とある方に偶然聞いただけなんですけどね」
焦らすような彼の真意はわかっている。こうやって話しながら、アッシュの隙を伺おうという作戦なのだろう。
この話が嘘か本当かはわからない。もしかしたら、ただのハッタリの可能性もある。だが、アッシュはこの誘いに乗ることにした。
時間を稼ぎたいのは彼も同じだ。
いつの間にか闇を生み出す魔術は効力を失っており、燃えるような夕日が周囲を真っ赤に照らし出していた。二人の間に濃い影法師が、くっきりと浮かび上がる。
「ある方、ね。それを言う気はないんだろうな。その紋章が何を意味するかも」
「ええ、言いませんよ。言ってしまったら面白くないでしょう」
『面白くない』。その言いぐさに、アッシュは吐き捨てた。
「お前らにとっちゃ、遊び半分か。他人の人生は」
「まさか。私は国のため、王のために、全身全霊をかけてこの任務を遂行していますよ。そうして全力であなたの人生を壊します。彼女のことは個人的な興味ですよ」
「趣味悪いな。黙ってこそこそ調べ回る男は嫌われるぜ」
太陽はいよいよ最後の輝きを放ち、山の向こうに消えようとしている。
その光を顔に受け、濃い陰影を顔に刻み付けたザインはどこか謎めいた微笑を浮かべた。
「あなたにだけは言われたくないですね。――それに、その紋章の意味ならば、何よりもあなたが知っているはずですよ」
「何だと?」
「忘れても仕方はありませんね。いや、単に知らないだけなのか」
ふ、と口の端だけで嗤ったザインが右手を上げる。
「そろそろお喋りは止めましょうか。――剣よ・我が手に」
ずるり、と虚空が割れる。
それを瞬きもせずに見ていたアッシュもまた時期がきたことに、にやりと口を歪めた。
「俺もな、そろそろ長話は飽きてきたところだよ」
その言葉が終わると同時に、日が沈んだ。
薄闇に包まれた中で、アッシュの動きに躊躇いはなかった。
一足飛びに間合いを詰めると、巨剣を構えるザインの懐に飛び込む。
「しゃらくさい!」
ブン、と振られた剣を身を屈めて避け、その勢いをころさずに片手をついて倒立の要領で跳ね上げる。
顎を打ちぬかんとする蹴りを、ザインは一歩下がることで回避した。
「この数で、この場所で勝ち目があると思ってるのですか?」
「思ってるさ」
崖から離れ、二人は再び茂みの近くまで後退することになった。
この場所なら、魔術での援護が可能である。迷わず、ザインは右手を上げた。
「今だ。放て!」
宵闇を切り裂いて紅蓮の弓矢が飛ぶ。
後はここで足を止めたアッシュを打ち倒せば良い。そう考えほくそ笑んだザインだったが、次の瞬間目を剥いた。
「な……?!」
アッシュは足を止めなかった。
身体の前で腕を交差させて、一直線に突っ込んでくる。
「正気か、貴様?!」
叫ぶザインに答える代りに、アッシュは一層速度を上げた。
矢はその身体をかすり、細かい傷を刻むが、炎が上がる頃には青年はすでに前へと進んでいる。
正面から迫る必要最低限の矢だけを避け、あっと言う間にその身体は深い茂みに消える。
こうなっては、闇と山道に慣れた彼を捉えることは非常に難しい。特に悪名高いジェイド山脈の森だ。本格的に日が暮れれば、危ないのは逆にこっちかもしれない。
今更ながら、アッシュの狙いを見誤ったことにザインは歯ぎしりをした。
最初から、彼に『勝つ』つもりはなかったのだ。
何も正面切って戦わずとも、今、この場での彼の勝利とは生き延びること。
だとすれば、暗闇と森を味方につけて逃げるということもまた、彼にとっての『勝利』に他ならないのだから。
剣を虚空にしまうと、憎々し気にザインは吐き捨てた。
「本当に、しぶといどぶ鼠です」
いっそのこと樹海の餌食になればとも思ったが、死なない身体を持つ彼のことだ。時間こそかかるだろうが、きっと無事に山を越すだろう。
「…入口が駄目ならば、出てきたところで待つべきでしょうね」
確か、山を抜ければヴァーユに出るはずだ。そう考え、ザインは踵を返した。
「戻りますよ。次の場所まで移動です」
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