北の夜
時間は少し遡る。
翡翠の名を頂いた山の中で、アッシュは剣を構えた。
「彼女に捨てられましたか?」
「いーや、俺が捨てたんだよ」
茂みを割って現れたザインに、アッシュは不敵に笑う。
ふてぶてしい態度に、ザインの眉が不快げに跳ね上がった。
「相変わらずですね。もう少し自分の立場を考えたらどうですか?」
「考えてるさ。お前らと違ってな」
「袋のどぶ鼠がいくら喚こうと、結末は変わりませんよ」
ザインの挑発をアッシュはせせら笑った。
「よく言うぜ。捕まえてた鼠に逃げられたから、今こうなってるんだろう?」
追い詰められているとは思えない彼に、ザインの頭を疑問がかすめる。
この余裕は、一体どこからくるものなのかと。
彼はここに追い詰められてきたはずだった。罠を仕掛ける暇などなかったはずである。だというのに、この余裕。ただのハッタリか、それとも何か策があるのか……。
考えるザインの横から、追いついてきた弓隊が矢を放つ。
矢は狙い違わず目の前の青年に向かってはしる。アッシュは焦らず、致命傷になる矢だけを冷静に叩き落とした。
外れた矢の幾本かは虚空へと消え、残りは地面に刺さって炎を上げる。
そう広い場所ではない崖は、それだけで不安定に大きく揺れた。
「…待ちなさい!」
慌てて制止するザインの声に、矢がぴたりと止まる。
にやりと笑うアッシュに、ザインは苛立たし気に舌打ちした。
「そういうことか。小賢しい」
この地形では、ヘタに魔術を使えば自分達も巻き添えになってしまう。最悪の場合は崖からまっさかまだ。
不死のアッシュはどうとでもなるだろうが、自分達はそうはいかない。
浮遊魔術を使うという手もあるが、崖の高さを知らない以上危険な賭けになるだろう。
かといって後退して茂みに入るスキを与えれば、身軽な彼のことだ。逃げることに全力を費やせば、見失う確率はぐんと上がる。
「命がけ、ということですか」
「俺はいつでも命がけだぜ。さて、どうする?」
じり、と間合いを詰める周りの複製に視線をやり、アッシュはことさら馬鹿にしたように煽る。
「それとも、そいつらで俺の相手するか? オリジナルとの差は散々教えてやったつもりだけどな?」
冗談ではない。アッシュがいる崖の先端は、二人ほどがやっと歩けるかといった幅しかない。
数で押し包むのならばともかく、少人数での戦いならばいみじくもアッシュの言う通り、複製達に勝ち目はない。慇懃無礼な仮面をかなぐり捨て、ザインは口元を歪めた。
「とことん人を虚仮にした男だな。北の夜」
「へぇ、俺の名前覚えててくれたんだ」
「ふざけた名だ。
吐き捨てたザインは嘲るように続けた。
「貴様に名はないだろうし、必要もないだろう」
「そうだな」
あっさりと肯定した彼からはしかし、卑屈なところは何もなかった。むしろ、どこか誇らし気に告げる。
「それでも、あの女が俺を呼んだ。必要な理由なんて、それで十分なんだよ」
吹っ切れたかのような言いぐさに、ますますザインは眉を寄せる。
「ずいぶんと饒舌だな。また舌を抜いてやろうか。あるいは喉を開けば静かになるか?」
ザインの知る青年は、夜のような男だった。
あるいは、そうなってしまったと言うべきか。
彼が≪予言≫に選ばれて、わかったことが幾つもあった。
これは、元より人間ではない。
痛みも苦しみも無視し、敵を殺すことだけを骨の髄まで叩き込まれた、殺戮人形。
人の
そうでなければどうして、幼い子供が四肢を折られて泣き声の一つもあげないものか。涙の一つも零さないのか。
それまでにザインが見た子供は、家に帰りたい、と泣く子供ばかりだった。
彼にはそれがなかった。
簡単なことだ、元からこの男には帰る場所などなかったのだろう。
それでも、最初は確かにその黒瞳には感情が宿っていた。
怒り、憎しみ、恨み。
――たまにそこに混じる苦痛の色が、ザインはひどく好きだった。
それで、少年の人間性を引き出せたつもりになっていたのだ。
だが、やがてそれも無くなった。
人間は適応する種族だ。
彼は人間ではなかったけれど、そこだけは同じだったのだろう。
いつしか、少年の目には怒りも憎しみも恨みも浮かばなくなった。
全てを押し込めた黒い瞳は、しいて言うならば無だった。
底の見えない穴のような、星一つない夜の空のような、そんなどろどろとした色が煮凝った漆黒。
少年から青年へ。≪予言≫は、律儀に少年を成長させた。心臓がすげ変わったその日から、その時の少年の身体を元にし、そこから導かれる肉体を忠実に理想的に描き続け、成長させた。
死ぬことも狂うことも出来なくなった、≪予言≫の力で生かされるだけの、不死の悪魔。
それが浮かべる笑顔が、ひどく不愉快だった。
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