車中の取引

 揺れている、というのが最初に感じたことだ。


 次に、近くに人の気配。そこでクロスはようやく目を開けた。

 目を瞬かせるとやけに近い床が見えた。しかも揺れている。

 聞こえたのは、ガタゴトという低い振動音。

 それらの情報から、ここは馬車の中だと彼女は見当をつける。

 頭を回すと、車内には二人の人間がいるのが霞んだ視界に映った。

 そのうちの一人が、不意にこちらを向いて声を弾ませる。


「起きましたか?」


 まだ若い男の声だった。聞き覚えのある声に、クロスは目を細める。ちょうど窓から差し込む夕日が逆光になり、男の顔は見えない。

 太陽の感じから察するに、落ちてからそう時間は経っていないようだった。

 寝そべるほどの空間は馬車にはなく、彼女は座った格好で気絶していたようだ。

 身体は重かったが、なんとか右手を上げて日の光を遮るとようやく周囲が見えるようになった。

 男が二人、驚いたようにこちらを見ている。


 一人はやはり若く、もう一人は壮年の男だ。共通しているのは、純白と青の装束。そして壁際に立てかけられている太陽と翼を象った文様をあしらった聖杖。


「私のことわかります? どこか痛いところとかは………」

 心配そうに問いかけてきたのは、薄茶の髪に深緑の瞳。柔らかい面差しをした青年で――

「お前……!」

 思わず腰を浮かせかけた彼女を身振りで制して、エルは苦笑した。

「落ち着いて下さい。目立った外傷はありませんでしたが、ほぼ一日寝てたんですよ」

「一日?!」

 自分が落ちてからそう時間は経っていないと予想していただけに、その言葉は衝撃だった。

 落ち着け、と言われたのも忘れてクロスは身を乗り出してエルに迫った。

「ここはどこだ? まだサザンダイズなのか? この馬車はどこに向かっている? なぜお前は私を助けた?」

 掴みかからんばかりの彼女に両手を上げ、エルは一つずつ質問に答えていった。

「ここは、東ルータの――ええと、あなたが落ちてきたところから東に進んだ街道です。場所はサザンダイズの北西ですね。もうすぐオラル川に出ますよ。そうしてリガリア大橋を渡ってイストムーンへ入り、ヴァーユへ向かうところです」

 山越えの道は双方の国の兵士によって封鎖されているが、絶対中立を謳うソレアの神官だけは別だ。

 彼らは、望むなら大陸のどこへでも――たとえ王の居城であっても、入ることを許されている。

「あまり褒められることではありませんが、急いでいたのでジェイド山脈を抜けたんです。でも、良かった。だって、私達が走っていた前にあなたが落ちてきたんですから」

 エルの言葉をほとんどクロスは聞いていなかった。

「ヴァーユ、に……?」

 エルの言葉を繰り返し、彼女はぼんやりと思い出す。


 ――ヴァ-ユで待っててくれ。すぐ追いつく


「あいつは……アッシュはどうした?」

「いえ、落ちてきたのはあなただけです。寝る前に『ヴァーユに向かってくれ』と言ってきたので、ちょうど良いと馬車をそのまま走らせたのですが………もしや、覚えてない、とか?」

 困惑したようなエルに、クロスの額を冷や汗がツツと伝った。

「すまん、まったく覚えていない」

「そう、ですか。……それにしても、一体なにがあったんです?」


 優しそうな青年神官の顔には心配と、微かな疑問が浮かんでいる。

 心底、自分達のことを案じてくれているのだろう。クロスにもそれは理解できるが、正直に答えれるようなら苦労はしない。

 実は自分とアッシュはお尋ね者で、サザンダイズの兵士達に追われているうちにはぐれてしまった、など。


(い、言えるわけがない…………!)


 額の冷や汗はそのままにクロスが黙りこくっていると、今まで黙って成り行きを見守っていたもう一人の神官が口を開いた。

「私の方からもお願いしよう。一体なにがあったのか、ぜひ聞かせてほしいものだ」

 敵意はないが、さりとて友好的な雰囲気でもない声音だった。

「ファイ様」と遠慮がちに声を上げたエルの抗弁を、手を上げただけで制するあたり、彼の方が地位は上なのだろう。

 穏やかな表情をしているが、その奥にある瞳の色は不透明で、容易に感情を読ませない。注意深く観察しながら、クロスは慎重に口を開く。


「実は、山の中で賊に襲われました。私には連れが一人いるのですが、ヴァーユで合流するように約束して二手に分かれたのです。けれど逃げている最中で不覚にも足を滑らせ、私は崖から落ちてしまいました。

 ―――幸い、私は魔術の心得があります。何とか浮遊の術を発動させたのですが、着地には間に合わずに、ご覧のような醜態をさらしております」

 言い終え、深く頭を下げたクロスの頭上からファイの声が答える。

「頭を上げなさい。醜態はお互い様だ。聞くところによると、あなた達もエルを助けてくれたらしいからな」

 言われた通りクロスが頭を上げると、ファイは何かを考えるように目を閉じていた。

「しかし――なぜ山越えをしようと考えたのかは教えてくれないか? 今、サザンダイズとイストムーン間の国境越えは厳しく規制されているはずだ」

 痛いところを突かれ、思わずクロスは言葉に詰まる。

「見たところ、金に困っての亡命というわけでも無さそうだ。落ちながら浮遊の術を発動させたということは、魔術を齧っただけの冒険者崩れというわけではあるまい。つまり、君が法を犯してまであの山を越える理由が見えてこないのだよ」

 パチリ、と片目だけ開いてファイは再び問いかけた。

「もう一度聞こう。――理由は?」

 決して彼は声を荒げているわけではない。

 だというのに、クロスの全身は緊張のためこわばっていた。

 ザインに感じるのとは別種の、しかし同じくらい強い圧力が馬車の中に充満する。

 人の上に立つのに慣れた者特有の、ぴりりとした空気感にクロスは大きく喘いだ。


 それでも、ここで屈するわけにはいかない。


「……言えません」

「ほう」

 ぎゅっと両の拳を握り、正面からファイを見据えてクロスはきっぱりと言った。

「言えません。けれど、私達はどうしても行かなければいけないんです」

「その口振りでは、ヴァーユが目的地ではなさそうだな」

「そうですね。確かに、ヴァーユは目的地ではありません」

「なら、一体どこを目指している?」

「それは言えません」


 きっぱりと言い切り胸を張るクロスに、ファイの片眉がぴくりと上がる。


「信じてほしい、とは言いません。けれど、どうか私を助けてはくれませんか?」

「助ける?」

「はい。私はあなたの連れを助けました。なので、今度はあなたに私を助けてほしいのです」

 にっこりと笑うクロスに、慌てたのはむしろエルの方だ。

 クロスとファイを交互に見やっては、あわあわと謎の言葉を口中で転がしている。

「ちょ、ちょっと待って下さい。それは私のせいであって、ファイ様は…」

「お前は黙っていろ」

 ぴしゃりと言われ、仕方なく口を閉ざすが、もじもじと指を組み合わせる様からはあまり落ち着いているとは言いがたい。

 エルの様子は委細気にせず、ファイはクロスを見据えた。

 見た目通りのか弱い女性なら、すぐに委縮してしまいそうな視線だったが、目の前の少女は相変わらずニコニコと笑っている。

 もしかしたら、先ほどまでの緊張していた様子すら演技だったのかもしれないと疑いたくなるような堂々とした態度だった。

「その意見は頂けないな。さっき、君を助けたことでその借りは返したはずだ」

「果たしてそうかな?」

 きらりとクロスの湖水色の瞳が光った。まるで、獲物を狙う猫の目だ。

「私達はエルを助けて、連絡のとれる町まで連れて行った。それでもお前は、命を助けただけで、夜中の山道に放っていくのと同じと言えるのか?」

 いつの間にか日は沈んでいた。ガタゴトという振動に合わせ、宵闇に浮かぶ彼女の銀糸がふうわりと踊る。

 差し込む月光に瞬く瞳は、まるで宝石のように強い輝きを放ってファイを縛る。

 それに、反論しかけていた彼は思わず口を閉じる。代わりに湧き出てきたのは、今まで抱いていたのとは全く別の感情。


(何だ、この女は……)


 まるで月の精霊が現れたかのような、圧倒的な存在感がそこにあった。それは何も見目の美しさだけではない。

 聞きようによってはひどく図々しい言い分のはずなのに、それが全く不快にならない。

 先までの丁寧な喋り方ではなく、どうもこちらが素のようだ。

 これまた、女性にしてはずいぶんと乱暴な喋り方だが、全く不自然に聞こえない。

 見たところまだ十代の娘であるはずだが、その瞳にか弱さは微塵もうかがえない。

(女王の品格だ…)

 思わずのまれてしまった。

 その気配に。

 さぁどうする、と言いたげにこちらを見据える湖面に、ファイは大きく息をついた。

「………わかった。そこまで言うなら君をヴァーユまで乗せていこう」

「ファイ様?!」

 驚いたようなエルに「してやったり」と、クロスは顔をにやりとさせた。

「ふふ、人助けはやはりするべきだな。ありがたい。恩に着る」

「ただし、そこから先は知らない。君の連れがいないとしても、私達に責はないぞ」

 念を押すファイに、クロスは「充分だ」と返した。

「あの男が約束を違えるはずがないからな」

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