一時休憩

「……まったく。貴女は私の邪魔ばかりしてくれますね」

 忌々しげな声に彼女が振り向くと、ザインが二人をねめつけていた。

 彼女がアッシュと話してから、再び世界は変異を遂げている。

 周囲を満たしていた液は潮が引くようにその水位を下げ始め、文字は空中で解けて霧散していく。

 それは元あったところへ――アッシュの中へと還っていく。

 文字が身体を貫き、液は吸い込まれるように彼を中心にして渦を巻いた。

「ぐっ……!つ、ぅ……」

 呻き声を漏らし、蹲るアッシュをザインは冷たい目で見やった。その瞳に宿る光は物理的なもの以上に、軽蔑の念をもって青年を見下ろす。

「無様ですね」

 何の感情も籠っていない言葉が崩れかけた世界に反響し、消えていく。

「私たちと共に来れば、最期には楽になれたというのに」

 まるで八つ当たりのようにザインはねちっこくアッシュへと絡み続けた。

「あなたが守りたいと思うほど、この世界に価値を見いだせること自体が驚きですよ。この世界が、かの国があなたに何をしてくれました?」

 苦悶の表情を浮かべ、脂汗を流しながらもアッシュは顔を上げる。

 その口が微かに動くが、限界まで痛めつけられた肉体はすでに音すら紡げず、ただ掠れた吐息となるだけだ。

「最も終焉を求めて然るべき者が、その運命に抗う。哀れなほど、惨めで皮肉ですね」

 せせら笑いでアッシュを打ち据えた彼は、ついでクロスへと顔を向けた。

「今回は貴女にそれをお譲りしますよ。けれど私は諦めたわけではありません。機会はいくらでも作れますからね」

 言葉通りあっさりと踵を返した彼は、ひらひらと手を振る。

「それと、貴女のことも覚えておきますよ。真名を掴んでもいない状態で『終焉』に飲み込まれないなんて稀有な存在ですから」

 油断なくその後ろ姿を見送る彼女の前で、ザインはぐちゃぐちゃに混ざり合う世界の狭間に消えていた。


 そして世界が白く染まる。


「っ…」

 思わずクロスは腕で目をかばった。

 どれくらいがたっただろうか。

 爆発的なその輝きが収まったのを薄目に確認し、ゆっくりと腕を下ろす。

 そして目に飛び込んできた景色は、彼女の予想をはるかに超えた光景だった。

 なにもない。

 彼女達がさっきまでいたはずの小屋はもとより、周囲に茂っていたはずの木々も、それどころか地面すらなかった。

 まるで巨大な魔物に丸のみにされてしまったかのような、巨大なクレーターが彼女を――いや、彼を中心に出来上がっていた。

「言って、くれるぜ…」

 絶句していた彼女は、下から聞こえてきた悪態に我に返った。

 アッシュは身体を起こそうとし、しかし果たせずに再び地面に崩れ落ちる。

 その傍にかがみ、クロスは手を伸ばした。

「その腕だと無理だろう……少し、痛むぞ」

「……っ!」

 返事を待たずに彼の右腕を掴むと、己の頭をその下にくぐらす。

 ちょうど肩を貸すような恰好になりながら、二人は立ち上がった。

「さて、ゼフィラトに戻るのは論外だがどうするか」

 彼女が独りごちた時、ポツ、と冷たいものがその額に当たった。

 見上げると、空は分厚い雲に覆われて星の光も見えない。そこからとめどなく銀色の雫が降ってくる。

「雨か。厄介だな」

 しかも、空模様を見る限りかなり荒れそうだ。みるみる雨足は強くなっていき、地面に黒い染みを残す。

「どこか落ち着ける場所を探すしかなさそうだな。歩けるか?」

 もっとも、歩けないとしても引き摺っていくだけだが。

 頷いたアッシュが、顔を上げた。焦点のあっていない目が、何度か瞬きを繰り返す。

「北……いや、まっすぐ行けば……岩壁がある、はず」

 雨脚はなおも強くなってくる。

 まるで滝の中のような豪雨だというのに、本当によく方向がわかるものだ。

「わかった。洞穴くらいはあるかもしれないな。…先客がいなければ良いんだが」

 これだけ血の匂いをさせているのだ。いくら雨で洗われるとはいっても、獣に嗅ぎつけられないとも限らない。

 だが、クロスの懸念をアッシュは軽く笑った。

「あっちが逃げるさ……獣の方が、賢い」

 彼の持つものが、自分たちの死に直結するのを本能的に察するのだろう。

「欲望で本能を曇らせるのは人間だけ、か。つくづく愚かだな」

 しみじみ言ったものだが、彼について何も感じない自分も、本能が死んでいるという点で言えば変わりはないのかもしれない。

 あとは無言だった。

 時間の感覚もあいまいになるような深夜の雨嵐を、二人はひたすら歩き続ける。

 足元のぬかるみが水溜まりをたたえるほどになる頃、ようやくアッシュの言っていた岩壁が見えてきた。壁面に沿ってさらに歩くと、運よく割れ目のような横穴がある。

 確認はいらなかった。

 強い雨音のせいで互いの声すら聞き取れないということもあったが、二人はやはり無言でそこを目指す。

 そうして、一息つけたのは中に入ってほぼへたり込むようにして座り込んでからだった。

 雨の音が遠くなり、互いの荒い呼吸音だけが響く。

「ちょうど良いところがあって助かったな。無事か?」

「…死んではない」

「そういう判断基準は止めろ。生きてたら良いというものではないぞ」

 顔をしかめ、クロスは火を灯した。蝋燭ほどの明るさだが、とりあえずの灯りとしては十分だろう。

 小さい灯りの中で、彼女は持ってきていた荷をあさる。中はどうせ濡れているだろうが、衣類などは乾かせば使えるのだ。絞れそうに濡れた鞄から、クロスは巻かれた麻布の塊を取り出した。

「少し時間はかかるが、材料はあるから包帯くらいは作れる。乾かすから、手当しよう」

 壁にもたれかかったアッシュは、ゆるゆると首を振った。

「無駄遣いは…やめとけよ」

 どうせ治るからと、そういうことだろう。その言い方にクロスはカッとした。

 思わず声を上げかける彼女に、アッシュは腕を軽く上げた。

「…いいって」

 彼女を制し、アッシュは薄く笑んだ。

「これは、気にしなくても良い」

 ぎこちなくはあったが、さっきまで砕けていた右腕は動くようになっていた。

 それに複雑そうな表情をする彼女の前で、アッシュは目を閉じる。

「俺は少し休む、から……その間に着替えろよ。大丈夫、目開けたりは……しない、から」

 言うやいなや、その頭が力を失ったようにガクリとうなだれる。

 死んだのではないにしても、随分とヒヤリとする寝方だ。

「私は気にするんだがな…」

 届かないと知りながら、残されたクロスは憮然として呟いたものである。

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