掴んだ名前
気が付けば、クロスは水面に顔を出していた。
元の景色に戻ってきたと思った途端、足の下には確かな感触が蘇る。いつの間にか、彼女はしっかりと地面に立っていた。
音で気がついたのか、ザインがゆっくりと振り返る。
その顔が完全に振り向く前に――。
「どけ」
クロスはその首に、ずっと持っていた剣をぴたりと突きつけていた。
「どういう、ことです?」
信じられないとでもいうように、ザインは大きく喘ぐ。
「どういうことです?! なぜ戻って来れたんですか?! あなたは一体…」
「私は言ったはずだぞ。どけ、と」
取り付くしまもない彼女に、すぅっとザインの目が細まる。
高まっていた感情は、再びあの笑顔の仮面へとって変わられる。
「その様子だと、あなたも知ってしまったのですね。『彼』が何であるかを」
「ああ、少しだけだがな。ついでに、お前たちが何をしていたかもな」
「でしたらどうすると言うんですか?」
「こうする、と言っている」
剣が、ザインの首の皮膚に食い込む。
赤い血が彼の白い肌の上を滑り落ちていき、水面に波紋を一つ刻んだ。
「本気ですね」
「ああ、本気だとも」
「良い返事です。あなたも欲しくなりそうですよ」
微笑んだザインの手が闇に滑り、そっと剣先をつまむ。力ある言葉が、質量すら伴いそうな存在感で響いた。
「剣よ・この手に」
「…っ」
気づいた時にはもう遅い。
なぜこの乱れた場で彼は魔術が使えるのかという疑問がかすめるが、そんなことを考える暇すら惜しい。
ずるりと剣が現れる。あの大剣だ。
やばい。
反射的にそう思った。
剣を引こうとするが、まるで彼の指に吸い付けられたかのように動かない。
あの剣を片手で振り回す膂力の主だ。油断した。
間に合わない。いや、間に合ったところで受け止めきれない。それはさっきアッシュが実証済だ。
片腕だけで持たれた剣が振りかぶられる。
そして、それが振り下ろされる。刹那。
まるで足を滑らせたかのように彼の身体がバランスを崩す。
狙いが狂った剣が、彼女の横にずぶりと沈み込んだ。
驚いたように後ろを向く彼の身体に、再び容赦なく足裏が叩きつけられた。
蹴ったのはアッシュだ。クロスの感覚では胸まできてる液も、彼の身長だとかろうじて腰のあたりなので出来た芸当である。
たたらを踏んだザインが、体勢を整えるために剣を消失させて後ろへと下がる。
彼は知っているのだ。
この下に沈めば、もう戻ってこれないことを。
彼が後ろへと下がったことで、かろうじて片足で立っていたアッシュの身体が傾ぐ。
慌ててクロスがその肩を支えると、吐息のような声で文句を言われた。
「おせぇ…」
「お前が捕まってるのが悪い」
ムッとして文句を言う彼女の耳元で低い笑い声がした。
「それは悪かった」
「まったくだ。さて、そんなことは良い。さっさと終わらせてしまうぞ」
彼女の言葉に、アッシュは目を閉じた。
しばしの黙考の末。彼はこつんとクロスの額に額を軽くぶつけ、再びその目を開く。
「良いか、よく聞け。俺の持つ名前は――」
彼が囁く名前がすとんとクロスの中に落ちてくる。
初めて聞く語だ。
人間に発音が可能なのかも不明なはずの音だ。
それなのに、なぜだろう。
ずっと昔から知っている気がするのは。
ずっと――ずっと前にも聞いたことがある気がするのは。
ひどく懐かしい感情すら覚えてしまうのは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます