契約

 黒い海の中は水のようなものを想像していたが、もっと粘性の高いものだった。

 慌てて起き上がろうとするが、そこで彼女はギョッとした。

 すぐ近くにあると思っていた水面が、遥か遠くにあるのだ。それに、足も地面を踏みしめていない。

 バランスを崩したとはいえ、さっきまでは確かに立っていたはずの床がないのだ。

 頼りなく浮く彼女の前を幾十、幾百、幾千もの赤い文字が走り抜けて行く。

 この液体の中には、バラバラに解体された世界が広がっていた。

 ただしそれは彼女の知っている世界の形をしていない。文字として分解された情報の羅列が、ただ無秩序に駆け回っている。

『息はできるんだな』

 思わず出した彼女の声もまた、赤い文字となって世界に溶けていく。

 暗すぎて見えないが、自分もあのようになっているのかと考えると正直ぞっとする。

『しかしどうやって出たものか…』

 腕を組み(もしくは組んだつもりになって)、クロスは上を見上げる。

 普通の世界があんなにも遠いとは思わなかった。

 そんなことを考えていると。


『なんっで、さっさと逃げないかな。あんたは……!』


 呆れと、怒りと、嘆きと、少しの安堵を滲ませた声が唐突に響く。

 くるりと身体を反転させると、ちゃんと人の形をした青年が苦り切った顔をして立っていた。

『だから、言ったろう。あの惨状を見て、私だけ『はいサヨウナラ』というわけにはいかないだろう』

『せっかくから出したってのに、どうしてあんたは進んで棺桶に突っ込んでくるんだ! そんなに死にたいのか!』

 初めて見せる青年の怒りに、クロスはきょとんとして問い返す。

『お前、さっき上の世界にいなかったか?』

『あんたがまたこっちに落とされたから、戻ってきたんだよ。上は今抜け殻だ』

 吐き捨てると、彼はクロスの手首を掴んだ。

『良いか、これが最後のチャンスだ。奴らに見つからないように上の世界に返せるのは』

『奴ら…? あの、私に語りかけてきた者たちか?』

 何気ない一言だったが、たちまちアッシュの顔が険しくなる。

『聞こえたのか?』

『ああ。番人がどうやら、約束の地がどうのと言っていたぞ』

『くそ……まぁ、あんたほど魔術の素養がありゃ当然か』

 吐き捨てると、彼は恐ろしいほど真剣な顔と声で忠告した。

『良いか、もうその声には答えるな。特にここを出るまでは。

 出たら、すぐにここから逃げろ。見えなくなるまで、絶対に振り向くな。声も、聞こえないふりをするんだ。そのうち消える。それから』

『待て。それじゃあ、お前はどうなる?』

『俺…?』

『さっきの男が言っていたぞ。真名を教えろと、お前が書き換えたと――それをあの男が握ると、困ったことになるんじゃないか? だから変えたんだろう』

 畳み掛けると、アッシュは顔を引きつらせる。指摘は図星だったようだ。


 名は、魔術において特別な意味を持つ。

 魔術師の唱える「炎よ燃えろ」という言葉が呪文と成りえるのは、万人が炎というものについて共通の認識と、そして「炎」という名前があるからだ。

 名を聞けば、その形と事象を理解できる。あるいは、人がそのように世界を定めていると言い換えても良い。

 名は規定であり、呪いでもある。そのものの存在と本質を縛るものだ。

 さすがに本名を知られたくらいで他人を支配することは出来ないが、それは人が常に変化しているからである。

 だが、魔術的な力の宿ったものは別だ。

 いわゆる呪具や魔導具といったものには、力を保ち、器を定めるための核となるが必要となってくる。

 それが真名である。

 通常は製作者、あるいは使用者以外には厳重に秘匿される。知られると、支配権を奪われてしまうからだ。


『それに、もう一つ気になっていることがある。お前が身につけてた禁呪帯。あんなもの、普通は生き物に使わない』


 会った時から妙には思っていた。

 禁呪帯は、その名の通り呪い――すなわち、魔力を封じるためのものだ。通常は、術者の力では制御不可能な呪具を封印するために使われる。

 人を含むすべての生き物に魔力は存在する。だが、生まれた時に自然と呼吸することと同じように、自らの魔力を制御できない生物はいない。

 だから、生き物に使ってもさしたる意味はないはずなのだ。


 


『以上から考えれることは一つ。お前が国から奪い、名を変えた≪予言≫とやらは、すでにお前の身体の一部となっている。それが、不死の力の正体だ』

 ますますもって青年の顔が引きつった。その目が逸らされる前に、クロスはずい、と顔を近づけて囁いた。

『誤魔化すなよ。適当なことを言ってはぐらかすようなら、私はさっきお前が言った忠告なんて一つも守ってやらないからな。私が納得できる答えを貰おうか』

『あんたみたいな頭の良いお嬢さんは、非常に困るな』

 わざとらしく嘆くと、アッシュは苦笑した。

『あいつに教えるとどうなるかって? 別にあんたはどうもならない』

『じゃあお前は?』

 食い下がる彼女に、アッシュはようやく観念したようだった。

 あるいは、彼女がこの場に留まることでさっき言っていた《奴ら》に見つかることを懸念したのかもしれない。

『俺は元の生活に戻るだけだよ』

『元の生活?』

 青年の口元に、皮肉なものがひらめいた。

『死んでも生き返る人間なんて、実験するには便利だろう?』

 クロスは眉を寄せた。

 予想はしていたが、それでもいい気分はしなかったのだ。それに、彼の言い方には引っかかりを覚えた。

『お前、死ぬのか?』

≪予言≫これの真名を握ってる奴がそう願うならな』

 さらりと言って、アッシュは自分の左胸を指さした。そこに何の臓器があるのかなど、医学に疎いクロスでもわかる。

 心臓。

 身体の統括部にして、人の心が宿るとされている器官。愛と優しさ、情熱の象徴。

『死ぬっていうと、ちょっと語弊があるかもしれないな。一応、心臓が無事なら治りはするから。正確には、『死』って概念を上書きして、強制的に死んでるのと同じ状態にしてるってとこか』

 解剖には死んでる状態じゃないといかんらしい、と青年は他人事のように言った。

 色々と言いたいことを飲み込み、クロスはさらに問う。

『それは――お前達の言う≪予言≫とはなんだ?』

『さて、それを話すには時間が足りないな』

 苦笑し、アッシュは肩をすくめた。

『ただ、別にサザンダイズは便利な実験動物を探すために百六十億を投じたわけじゃない。ここには』

 トン、と青年の白い指が胸の上で一度だけ跳ねた。

『魔法が詰まってるそうだ』

『魔法…?』

『そう。今の技術では、医学的にも魔術的にも到底不可能なありとあらゆる奇跡。人が魔法と謳う神の所業』

 例えば、同じ人間をそっくりそのまま生み出したり。

 淡々と告げられた言葉に、クロスは己の顔が強張るのを感じた。

 思い出されるのは、先ほど自分が相手にした、目の前の青年とそっくり同じ顔をした襲撃者だ。思わず吐き捨てた。

『控え目に言っても――最低だな』

『あんたなら、そう言ってくれると思ったよ』

 むしろ、それ以外に何と言えというのか。

 胸の内にこごった不快感を全て吐き出すように、クロスは大きく息を吐きだす。

『それで逃げたわけか』

『そ。真名さえ変えちまえば、あいつに支配されることはないからな』

『変えた名は、お前が持っているんだな。それをサザンダイズは握って、お前を…というか、お前の持つ≪予言≫を支配しようとしている、と』

 青年が頷く。

『だったら、変えた真名を、まったくの第三者に預けるというのはどうだ? サザンダイズも氏素性の知らない、まったくの通りすがりだ』

『良い手だとは思うぜ。まぁ、問題はそんな都合の良い相手が』

 言いかけた青年の言葉が止まった。

 ゆっくりと首を回す彼に、クロスはにっこりと微笑む。

『いるぞ』

『あのな…』

 今度こそアッシュは深い溜息をついた。年に似合わぬ、疲労の溜まりきった老人のような重いものだった。

『出来るわけがないだろう。あんたは、もう帰れ』

 言い終えた彼は、一拍してからハッと目を見開いた。

『帰れって、どこに?』

『………』

『言っただろう。私には、もう帰る場所なんて無いんだ』

『……親類とかも、いないのか?』

 クロスの顔に、ひやりとした笑みが浮かんだ。

『いないことはない。皆、私のことを薄気味悪く思っているがな』

 両親はクロスに対して驚きはしたが、それだけだ。

 自己の記憶すら覚束ない幼子が持つ、異様な魔術の才も。反転した禁色の国章も。

 関係ないと言ってくれた。

 それがどれだけ稀有なことだったのか。理解できたのは、随分と後になってからだった。

『お前は私に問うたな。化け物と呼ばないのか、と』

 虚を突かれたように、青年が目を瞬かせた。

『私も同じだ。お前は、私を不気味だとは思わないのか?』

『一体なんなんだ、くらいには思ってるぜ。でも、あんたが自分でもわからないなら仕方ない。そういうもんだと割り切るしか無いと諦めた。それだけだ』

 クロスは微笑した。

 彼は「それだけ」と言うが、果たしてそう言い切れる人間が世に何人いるか。

 ありのままの自分を受け入れてくれた。驚き、呆れることはあっても、恐れないで接してくれた。

 それが、それだけのことが。クロスにとっては、ひどく嬉しかったのだ。


 たとえ世界を敵に回してもかまわないと、思えるくらいには。


『私も、お前を化け物とは呼ばない。お前は私を助けてくれた。お人好しで、融通がきかなくて、死ねないだけの、ただの人だ。本当はな、それを言いたくてお前を探したんだ』

 青年の切れ長の目が微かに見開かれた。

『私は、私を認めてくれた人間がむざむざ殺されるのを見たくは無い。お前が死ぬより惨い目にあうとわかっているのに引き返すのも、同じだ』

 頭一つは高い青年の前に、クロスは手を突き出す。

『そんなことをすれば私は、一生自分自身を恥じて生きていくことになる――だから、私の手を取れ』

 今度はアッシュは拒否しなかった。

 差し出されたクロスの手を見下ろし、ぽつりと呟く。

『俺は、あんたに何も返せないぞ』

『構わない。それに、お前目的でノコノコとやってくるサザンダイズの奴らから、私の記憶の糸口が見つかるかもしれないからな。私にも益はある』

『死ぬかもしれないんだぞ』

『どのみち、あんなものを見てしまったんだ。ただで済むとは思っていない。だったら、自分が信じた者に着いて行きたいんだ』

 壊れものを触るように、青年の手が少女の指先を握った。


『良いんだな?』


 返事の代わりに、不敵に笑ったクロスはその手を握り返した。

『契約完了だ』




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