黒へ
解放されて改めて見た世界は、どうして疑問を感じなかったのかというほど異様なものに変貌していた。
足元を侵す黒い粘性の液体。そこからぞろぞろと涌き出すのは、血液を凝固させたような紅い文字。
それらはまるで生きているかのように、おぞましい蟲のごとく蠢いては世界を侵食していく。すでに家屋は原型をとどめておらず、小屋を喰らった文字と液体は外の空間へと染み出していた。
あるいは、単にクロスが流されただけなのか。何にしても、目の届く範囲には壁も床も天井も無くなっている。
ただただ、黒と紅に彩られた世界が空を食み、森を削っていた。何かはわからないが、『これ』を止めないと取り返しのつかないことになる。
それだけはクロスにもわかった。
黒い海は今もその嵩を増やしている。さっきまでは足元を濡らす程度だったが、今やその液体は膝の高さにまで到達していた。
さらに、水面から次々と現れる文字が邪魔だ。気のせいか、その速度がどんどんと増しているようにも感じる。それらを手で払っていたクロスは、視界の隅でキラリと光るものを見つけて足をとめた。
それは、弾き飛ばされたアッシュの剣だった。
薄蒼い光を放つ刀身が、まるで彼女を呼ぶように静かに輝いている。
「ふむ」
ざぶざぶと波をかきわけ、彼女は進路を変えてその剣の前に立った。
「お前、主人のところに連れて行って欲しいのか?」
当然だが、剣は答えない。しかし、まるでクロスの言葉を肯定するように、その表面を紅い文字がツ、と伝った。
「そうか。なら、連れて行ってやろう」
あっさり言うと、クロスはその柄を掴む。
剣はまるで彼女の手に吸い付けられるように、さしたる抵抗もなく大地から抜けた。
一連のやり取りを見ていたザインの目が、大きく見開かれる。
「まさか、そんな……。あの剣を、持てるのか? それに、なぜ。なぜ、ここで正気を保っていられる……」
ザインの驚きなどまるで気にも止めず、剣を手にした彼女はその前を通り過ぎる。
そうして、ピタリと立ち止まった。
腰のあたりまできている液体が、唐突になくなったのだ。
まるで結界のように球状にぽっかりと空いた空間には、この現象の原因となっている青年が倒れている。
前髪が邪魔をして、その顔は見えない。
クロスは彼を見下ろし、ふんと鼻息を一つ吐いた。そして、おもむろにその胸ぐらを掴みあげる。
「起きろ。迷惑だぞ」
力を失った首が、壊れた人形のようにガクンとのけぞった。
光を失った瞳が、濁ったガラス玉のようにクロスの姿をおぼろに映す。
《解放…》
《約束の地ではない》
《まつろわぬ番人はいらぬ》
また聞こえた。
クロスが
声は同一人物が囁いてるようにも、複数の人間が口々に囁いているようにも聞こえた。男のようにも、女のようにも、少女のようにも老人のようにも聞こえる。
「うるさいぞ」
苛立たしげに息を吐き出しながら彼女は呟いた。
声が聞こえてるのはクロスだけのようで、その言葉にザインは訝しげな顔になる。
「私をあそこから出したのはお前だろう。このうるさいのは、お前の仲間か?」
あの異常な世界から彼女を放り出した声。
最後に叫んだ声だけは、アッシュのものだと彼女には自信があった。
問いかけられた相手は答えない。
普通ならすでに事切れていると諦めるところだが、彼女は尚も問いかけた。
「逃げろ、とでも言うつもりか? 悪いが私は小心者でな。こんな状態で逃げたら、恐ろしくて夜も寝れないんだよ。だから、逃げない」
微動だにしなかったアッシュの指先がぴくり、と動いた。
拡大していた瞳孔がゆっくりと縮小し、光を灯す。
その瞳がクロスを捉えた。「どうしてまだいるんだ」とでも言いたげな顔を見据え、彼女はもう一度繰り返す。
「私はもう逃げない。これ以上、目を逸らして後味が悪くなるのはごめんだ」
彼女の言葉に驚いたようにアッシュは目を見開く。
液体は、すでに胸のあたりまできていた。
不思議と濡れている感じはしなかったが、気持ちの良いものではない。
憤然とアッシュを睨みつける彼女の肩が、後ろから掴まれる。
「彼との約束は、私が先ですよ。お嬢さん」
「何、をっ……?!」
振り返ろうとしたが、ぐいと後ろに肩を引かれてクロスは背中から倒れ込んだ。
液体が足を取り、崩れたバランスを立て直せない。
水面に沈む直前。
歪んだ笑みを浮かべたザインがアッシュの首を締め上げているのが、彼女の瞳に灼きつく。
「やってくれたな。――さっさと書き換えた≪予言≫の真名を教えろ」
毒を含んだような声を最後に、彼女は世界を塗り潰す黒に飲み込まれる。
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