呪いの解放

 ザインが反応するより、アッシュの方が早かった。

 背筋と腹筋だけで起き上がり、その勢いをのせた頭突きがザインの脛をえぐる。

「くっ…」

 たまらずバランスを崩した足元から逃れると、そのまま倒れこむようにしてアッシュはザインを組み敷いた。

 使えない両腕の代わりに、左足でその利き腕を踏みしだく。何かが壊れる鈍い音が響いた。

 苦しそうな呻き声がザインの口から漏れ、一瞬で攻防が逆転する。

「次は、その喉笛掻ききってやる」

「言うじゃないか化け物が」

 ぎらぎらと光る二対の瞳が、至近距離で火花を散らした。

 腕を使えないアッシュは致命打を放てない。

 一方のザインも、アッシュに身体を押さえつけられて身動きがとれない。

 迂闊な動きは相手へ好機を与えることになる。それがわかっているだけに、二人とも機会を伺っていた。

「ふっ……」

 じりじりとした緊張の糸を解いたのはザインだった。

 それは思わず漏れた、とでも言うような失笑。笑い声は低く、小さく続いた。

 訝しげな顔をするアッシュの前で、その笑声はついにこらえきれないとでもいうような哄笑となって闇を震わせる。

「ふふふ、ははははははは!」

 壊れたカラクリのような虚脱な笑いは、ひどくこの空間に似つかわしくない。だが、それがゆえに、ひどく聞いてる者の不快感を煽る。

「…何がおかしい」

 押し殺したアッシュの問いかけに、ようやくザインは笑うことをやめる。

 狂ったような嗤いは、始まった時と同じように唐突に止まった。

「わかりませんか?」

 さっきの攻防で口を切ったのか、まるで紅を差したかのように真っ赤に濡れた唇がぬらりと歪んだ。

 その笑みを見たアッシュの背筋を悪寒が駆け抜けた。

 なぜかはわかない。わからないがひどく悪い予感がする。

「では、これは何でしょう?」

 ザインの右手が、何かをつまんでいた。


 それは、包帯に似た白く細長い布で、表面には不気味な真紅の模様が――。


 そこまで考えたアッシュの顔から血の気が引く。

 彼の指先までを覆っていた布がほどけていた。ほどけた先は、言うまでもなくザインが握っている。

「禁呪帯………まったく、いじましい努力ですねぇ。己の魔力ごと封じるほどに、終焉は恐ろしいですか?」

「ばっ…お前、死ぬ気か?!」

 血相を変えるアッシュを殴り、拘束をといたザインは立ち上がる。

「死にませんよ。私なら、あなたよりもよほど上手く扱ってみせます」

 艶然と微笑んだザインは穏やかな顔のままアッシュを蹴りつける。吹き飛び、壁に叩きつけられた彼の腕から、さらに禁呪帯がほどけて空中に踊った。

「っの……!」

 尚も抵抗しようとするアッシュに、無事な方の右腕を差し出したザインは恍惚とした表情で囁く。


「目覚めなさい」


 彼の言葉は魔力も込もっていない、単なる呼びかけにすぎなかった。

 ゆえに、それは偶然のはずである。

 が、その瞬間。たしかに彼らを取り巻く空気が――世界が変わった。

「……ぁ………か…はっ……」


 ドクン、とアッシュの中で何かが跳ねた。


「目覚めなさい。≪解放の予言≫よ」






 キィン、と高い音が耳の横をかすめた。

 壁をこすった剣を引き戻し、黒装束の男達が再びクロスを見据える。

「ちっ…」

 舌打ちし、クロスは別の男が振るった剣を横っ飛びに飛んでかわす。

 はっきり言って、彼女は追い詰められていた。

 黒装束の男達は強いだろうと予想はしていたが、まさかこれほどとは。自分の予想の甘さに彼女は内心で歯ぎしりする。

 迂闊に攻撃を仕掛けるとその隙にやられる? 冗談ではない。


 クロスは、彼らに対してのだ。


 攻撃に十分な魔霊子を集めるどころか、式を編むことすらできない。

 もっと言うと、どんな攻撃を行うかすら決められない。

 一瞬だけでも良い、時間が欲しい。攻勢に転じるには一瞬で十分なのに、その隙がない。

 わずかたりとも気を抜けば、次の瞬間に飛ぶのは彼女自身の首だ。

 クロスが相手にしているのはたった二人。だというのに、彼らから逃げ回るのに精一杯だった。

 改めて彼女は、こんな相手五人と魔術師相手に互角以上に渡り合っていたアッシュの技量を再認識した。

 だが、その彼も今は満足に動けない状態だ。

 彼を助けるには目の前の二人を何とかしないといけない。だというのに、自分は己の命すら危うい。

「まったく、情けなさすぎて涙が出てくるな!」

 吐き捨てながらも、彼女の身体は生きるために必死に動いていた。隙を作るために頭は動いていた。

 刃が顔の横をかすめ、彼女の髪をひと房切り落とす。

 はらはらと舞うその合間から迫る別の刃を屈んで避け、勢いを殺さずクロスは前転の要領で一回転して間合いから外れた。

 だが、すぐに反転した男は一足飛びであいた距離を詰める。

 地面を転がって避けた彼女の頭上すれすれを剣が通り過ぎる。またたきの間に流れる景色の中、彼女は地面にきらりと光るものを見つけた。

(あれは……)

 それは、先ほどザインが投げたナイフだった。

 反射的に彼女は腕を伸ばしそれを掴む。

 上から迫る剣をそのナイフで受け、力任せに弾く。

 男達とわずかながら距離があいた。だが、これしきの間合いは男達にとって隙にすらならない。


 今までなら。


「っのぉ!」

 気合とともに、彼女は腕を振り抜いた。その動きが最大現に高まったところで、指先の重みを放す。

 風を切って飛翔するナイフに、男達の動きが一瞬止まった。

 だが、それこそ彼女の狙い。

 その一瞬こそがチャンスへと変わる。

(やる…!)

 彼女の意思は流れるように淀みなく空気を奔り、魔霊子が歓喜に身を震わせる。

 神業のような早さで編まれた式が魔霊子にのった。

 まだ相手は、やっとナイフを避けたところだ。

 彼らの動きがまるでコマ送りのように感じる。

 遅い。

 どうして自分はこの隙をもっと早く見つけられなかったのか。

 すでに彼女の手には、荒れ狂う風が集っている。

 あとはそれを解き放てば良いだけだ。

 黒装束達が跳躍のために足の筋肉を収縮させる。

 ああ、その動きのなんと遅いことか。

 彼女が力を解き放とうとした、その時。


 世界が呼吸した。


「な、なんだ…?!」

 気持ちの悪い感覚に、思わずクロスは魔術を中断する。

 黒装束たちも動きを止め、息を潜めていた。

 世界が呼吸する、というのはもちろん比喩だ。しかし、そうとしか言い表せない異様な感覚が、ある一点を起点として広がっていた。

 脈動するような不気味で規則的な響きと共に、世界が揺らぐ。

 その中心にいるのは――。

「アッシュ?」

 壁際でうずくまる青年から鼓動は響いている。

 クロスも、男達も動けなかった。

 ただ一人、この異様な空間で平然と佇んでいたザインが黒装束達に向き直る。

「ご苦労、君たちはもう戻っていいよ」

 どういうことかと、クロスは耳を疑う。

 警戒心をあらわにする彼女に、ザインが目を細めた。その唇が、暗い喜悦に歪む。

「ああ、そうそう。せっかくだから、お嬢さんに君たちの顔を見せてあげなさい」

 機械的に頷き、男達が覆面をとる。現れた顔に、クロスは息をのんだ。


 黒がかった紺色の髪。漆黒の瞳。

 人間離れして整った神秘的な目鼻立ち。

 双子どころではない。

 男達の顔は、アッシュとまったく同じものだった。


「どういう……ことだ?」

「さて、どういうことでしょうねぇ?」


 道化師のように大げさに肩をすくめたザインの後ろで、再び世界が鳴動した。


身体が、いや、魂そのものを揺さぶられるような不快な感覚。

 地面も空も、どこも動いてなどいないのに足元がおぼつかない。立っていられない。

 まるで巨大な怪物に飲み込まれてしまったような息苦しさと閉塞感に、無意識にクロスの息が荒くなる。

 見かけ上は何も変わっていないはずなのに、現実世界と薄皮一枚隔てたところで、確かに世界は変容していっているのだ。

 その異変の原因がアッシュなのは間違いないが、彼も今の世界と同じだ。

 見かけは何も変わっておらず、ぐったりとうずくまっている。その顔は夜ということを差し引いても青白く、まったく生気が感じられない。

 彼女にとっては恐怖を感じるには十分な世界だったが、ザインにはまだ不服だったらしい。こちらは興奮のためか息を荒くしながらも、忌々しげに舌打ちした。

「まったく、禁呪帯を外せば今度は己の力を持って封じにかかるか。本当に、往生際の悪い男だ。それに」

 ザインの端正な顔が歪んだ。

「貴様、≪予言≫の名を変えたな」

 今までのような丁寧な喋りではない。ぞっとするような狂気をはらんだ声だった。

 彼の言葉で、クロスにも理解できてしまった。


 この世界はまだ正常なのだと。


 ギリギリのバランスでまだ形を保っているのだと。

 そして、ザインはその均衡を崩そうとしている。

「往生際の悪い男は嫌われます、よ!」

 激しく打擲されたアッシュが、えずくかのように身体を波打たせた。

 頭では止めようと思っているのに、彼女の身体はぴくりとも動かない。

 脳からうるさいほど送られる警鐘と命令は、空しく神経を素通りしていく。

 相反する思考と行動が激しい耳鳴りとなって、いっそう彼女をがんじがらめに縛り付けていた。

 視界が揺れる。

 いや、揺れているのは地面だろうか。

 音のない世界でアッシュが吐血した。

 違う。

 彼の身体から出てきたのは最初は確かに血液だった。しかし、激しく咳き込む彼の口からは、やがて紅ではなく黒い粘性の液体が溢れてくる。

 まるで出来の悪い芝居を見ているようだった。

 無音の舞台では、天の使いのごとく微笑わらう美しい金髪の青年が、傷だらけの綺麗な悪魔を見下ろす。

 悪魔の身体から吐き出された黒い液体は床を侵し、彼女の足をも濡らす。

 ひたひたと黒い海が波立った。

 彼女は動いていない。天使は彫像のように、悪魔は死体のように動きを止めている。

 波立たせているのは、海から生まれた文字だった。

 黒い液体は生き物のように蠢き、そこから次々と紅く濡れる文字を産み落とす。

 見たことも聞いたこともない形だったが、彼女はそれを文字だと感じた。

 その文字は世界のすべてだった。

 音、月、光、色、温度、匂い、床、壁、人、ひと、ヒト。

 それは聖であり、生であり世でもあり静でもある。

彼を中心として文字が世界を侵食していく。世界を書き換えていくさまが見える。

 全能感にも似た何か。大いなる世界と共に溶けていく感覚。

 不快感はない。感覚そのものがない。いや、そもそも感覚とはなんだったのか。

 すべてを奪われていく中で、天使ザインがゆっくりと口を開いた。


《ダメだよ》

 彼の動きを見た途端、クロスの中で何かが囁いた。

《駄目だ駄目だ駄目だめだめだめだめ……》

 囁きはやがて狂ったような音の連鎖へ。そうして。


『駄目だ!』


 一際大きな叫びが脳内で弾ける。

 その瞬間、クロスはその狂った世界から吐き出されていた。


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