流れ行く人生

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流れ行く人生

川の流れに沿って歩くと、様々な体験ができるというような話を、昔どこかで読んだことがある気がする。それは、何も良い体験ばかりができるということを意味しているとは限らない。俺は今、まさに川に沿って歩きながら、漫然とそう考えていた。



 今は大学四年の春休み。卒業式ももう終わり、学生の身分を剝奪されるまで後10日を切ったところである。この春休みが終わると、大学院に行くとか医薬系の学生だとか極僅かな場合を除いて、40年間の終わりなき労働へと足を踏み入れることになる。しかも近年の年金やらなんやらの話を聞くと、ひょっとしたら40年程度では終わらないとも言われているらしい。仮に40年で終わったとしても、その40年後が訪れるまで自分が生きている保証などどこにもない。つまり結構な確率で、これが最期のモラトリアムとなるのだ。


 普通の学生なら、こんな時期は大学でできた友人や内定式で出会った新しい同期と、旅行や飲み会に勤しんでいることだろう。だが今年は全世界的に流行したウイルスの影響もあって、感染拡大を助長させてしまうような旅行や飲み会といったものは控えるようにというお達しがあり、通常の年よりは自宅で過ごす学生の数が増えていたのだった。もっとも俺はサークルにも入っていなかったし、バイトも人と深く関わるようなものはしてこなかったし、飲み会に行くようなゼミの友人もいない。内定先の同期なんかとは会話すらしたこともなく、ウイルス流行がなかったとしても誰かと旅行を謳歌するようなことはなかったのだろうが。


 特にハマっている趣味もなく、このままでは貴重な最期の休みを無駄にしてしまう。何か行動を起こして、少しでも充実したものとしなければ。そんな焦りを抱きながらも、豪勢に金を使って遊びまくるような度胸はない。結局俺は、家の近くの川に沿って歩けるだけ歩いて、行けるところまで行ってみようという小学生でもできそうな、こじんまりとした冒険をしてみることにした。今日は3月にしてはかなり暖かく、春の陽気を感じさせる日だ。コートを着ていく必要もないし、出かけるのにはもってこいだろう。


 近所の川――迷流川めいるがわという名前だが――は、日本の何処でも見られるような普通の川だ。ここよりもう少し上流の山岳地帯を源流として、ここから数km離れた海へと流れ出る、ごく一般的な川。流れは澄んでいるとはいえ、取り立てて見るような名所もなければ、歴史的に有名な謂れもない。観光客など来る理由もなく、存在を知っているのも地元の人間くらいだろう。そんなわけで俺が歩きに来た時も、自分と同じように散歩をしようとしている人など誰もいなかった。まあ、人口もつい最近減少に転じた地方都市のこんな場所を、平日の真っ昼間から散歩する人間など珍しいということだろう。物語の始まりなんかだと、こういう場所には大体美少女や怪しげな老人がいて、主人公の人生を変えてくれるものだが、現実はそうはいかないらしい。一抹の悲しさと、何故かホッとするような感情を抱えながら、俺は川の流れに沿って歩き始めた。



 俺は産まれてから一度も、この町以外で暮らしたことがない。高校や大学は少し離れた場所まで通っていたが、それまではこの町の中で全てが完結していた。まだこの町だけが俺の世界の全てだった頃は、よくこの川の近くを友人たちと共に練り歩いたものだ。雑木林の中から手軽な枝を拾って戦ったり、川にいる釣り人にこっそり悪戯をしたり、わざわざ遠くまで遠征して見つけた池の中からヒキガエルの卵を掬って投げつけ合ったり。今思うと本当にくだらなくて危険な児戯ばかりだが、あの頃は本当に毎日が輝いていて、楽しかったような気がする。久々に川に沿って歩くとそんな思い出ばかりが浮かんで、ただただ悲しい気持ちにさせられる。


 あの頃歩いていた場所を、こうやってまた歩いてみると、色々なものに目が留まる。昔はあったはずの小売店は潰れ、家も空き家が目立つ。川の近くで遊んでいると近くの家の爺さん婆さんに注意されたものだが、今はもう叱ってくれる人すらいない。子供の頃は広く感じられた雑木林だって、今見ると広いどころか余った土地に雑に木が植えられているような、単なる荒地にしか見えない。既にあの頃の風景は、消え去っていた。


 そうやって歩いている内に、一際思い入れ深い場所へと辿り着く。今丁度俺がいる場所の、川を挟んだ向かい側にある家は、確かケンちゃんの家だったはずだ。俺たちの中で誰よりも頭の回転が速くて、毎度毎度信じられないような遊びを提案していたケンちゃん。小学校までは仲良くしていたのだが、中学に入ったあたりから向こうの受験勉強のせいで疎遠になっていき、高校で他県に進学してしまったことで完全に関係が途絶えてしまった。風の噂では東京の大学に受かったらしいから、もうこんなしみったれた場所には住んでいないのだろう。俺たちと遊んだことなんて、ましてや俺のことなんて、忘れてしまったに違いない。


 ケンちゃんに限った話ではない。あの頃遊んでいた友人たちとは、既に袂を分かってしまった。高卒で就職した奴もいるし、ケンちゃんみたいに他都道府県に進学してしまった奴もいる。消息不明の奴も。『我ら生まれた時は違えど、死す時は同じ日同じ時を願わん』。昔そこにあったはずのコンビニの駐車場でそう誓い合ったはずの友人たちはもういない。そのコンビニの駐車場も、とっくの昔に資材置き場になってしまっている。仮にまた集まる時があったとしても、それはもう、元の集まりではないのだ。


 人生はよく、色々なものに例えられる。やれ電車のようだの、寄せては返す波のようだの、箇条書きマジックでどうとでもこじつけられるが、殊『川』に関しては本当に似ているのではないかと、こうやって歩いていると納得できる気がする。人生は流れ、止まって欲しくても止まらない。人一人の意志ではどうにもできないように流れていき、いつのまにか護岸工事で流れを変えられ、分けられ、やがては海へと流れ込む。悲しい話だが、それが現実だ。


 川の流れに沿って歩くと様々な体験ができる、という話はどうやら本当だったらしい。そしてその体験は、自分にとっては極めて劣悪なものだった。変わってしまった風景も、流れ続ける川そのものも、嫌なことばかりを想起させる。


 こんな思いをするのなら、わざわざこんなことするんじゃなかった。そんな鬱屈とした考えばかりが、頭の中で反響する。その思いを振り払うように小走りで走り出すと、春の陽気のせいで汗が出て、ついでに息まで切れてしまう。暖かいから出かけようと考えていたはずなのに、今となってはその暖かさも妙に鬱陶しい。春の陽気なんて、いや、春なんて、出会いと別れの季節なんて、一生訪れなければいいのに。


 そんなことを考えながら走り続けていると、気付くと、少し遠くまで来てしまったようだった。変わってしまったが面影のあった風景は、いつの間にか見たことすらないものへと変わり、よく見ると川の舗装もさっきまでとは少し違うものとなっている。そんなに長い間走ったわけではないので離れていても精々最寄り駅から一駅二駅くらいのものだと思うが、子供の頃の活動範囲などたかが知れているので、きっとこんな所まで遊びに来たことなんてほとんどなかったのだろう。少しだけ、散歩をしてよかったなあという気持ちが湧いてくるが、目の前に広がる風景はいくら見慣れないものであるとは言っても、面白い風景であるわけではない。相も変わらず住宅街が立ち並び、店みたいなのは閉店していて、小さな公園があるだけだ。


――あれ?


 俺は、あの公園に見覚えがある。記憶が正しければあの公園は、小学校の頃に友人たちと一緒に何回か行ったことのある、体感で何時間も歩いてようやく辿り着ける冒険の終着点だったはず。もっと遠くにあった気がしていたのだが、こんな近くにあったのか。よく考えてみるとそれはそうで、結局子供の頃の大冒険なんてものは、大人になった後の散歩以下という話なのだろう。そのことに今日何度目かわからない悲しみを俺は覚えたが、同時に諦めがつくような、不思議な感覚に包まれた。きっとこの公園も変わってしまって、かつての面影なんてものは一つもないのだろう。あらゆるものは絶えず、そして必ず変化していき、俺も変わらなければならないのだろう。この公園を見ることで、俺はその考えをすんなり受け入れられるような感じがした。こんな場所まで変わってしまっていたら、変わるのが当然であるのだと。気が付けば俺は公園の中に、足を踏み入れようとしていた。



 その公園は、公園にしては比較的大きい方だ。勿論近所の人間のランニングコースに組み込まれるほど大きな公園でもないが、住宅街の中にあるような、滑り台やブランコなどの遊具が少し置かれただけの小さな公園というほどでもない。この公園の名前は、『迷流川親水公園』。名前から分かるようにいわゆる『親水公園』に分類されていて、隣を流れている迷流川の支流が流れ込み、子供が水や、そこに集まる生き物たちと親しめるような造りになっている。小さな木材で申し訳程度の護岸だけされた川の支流は、親水公園の通路と平行になるようにして流れ、公園の中心にある、窪んだ貯水池のような部分へと流れ込んでいる。手入れはほとんどされていないのか、通路には木の枝や泥が散乱している。


 変わっていることを期待して足を踏み入れたはずの公園だったのに、その風景は俺の記憶の中のものと、寸分違わぬものだった。片手で数えられるくらいしか来たことのない場所なため、記憶が曖昧であるというのが理由の大半であることくらいは分かっていたが、ここまで記憶の中の公園と何も変わっていないとなると、それでも驚いてしまう。そこの川には誰かが放したらしいウーパールーパーみたいなのが棲み着いていて、持って帰って育てていたら実はサンショウウオの幼生だったなんてこともあった。ヒキガエルの卵を掬って投げつけ合っていたのもこの辺りだったはずだ。もしやと思い、落ちていた枝を使って川の浅い部分をかき分けてみると、やっぱりそこには見覚えのある卵があった。様々なものが変わってしまったが、ここだけは全く変わっていない。池の方まで足を運ぶとそこにもやはり、記憶と大差ない光景が広がっている。緑色に濁って深さすら分からなくなった池の中で、黒いコイが数匹、口をパクパクさせながら泳いでいた。このコイに麩菓子や雑草を放り投げて、食べるかどうかを確かめて笑ったりしていたはずだ。


 こういう場所もあるんだなということに気が付けたのが無性に嬉しい。さっきまでは変わっていることを望み始めていたはずだったのに、この公園を見ているだけでそんな考えは簡単に消え去っていってしまった。変わらないものだってあるし、変わらなくたっていいのだと。


 この貯水池というのは同じ水なのに、川とは随分違う概念だ。川は流れていくが、貯水池は流れていかない。それ故に貯水池の水は澱み、濁り、多くの用途には不向きなものへとなっていってしまうが、そんなドブみたいな池の中で生きていく生き物だっている。人生が川のようだと言うのなら、どこかで堰き止められて停滞するという選択肢も、悪いものではないのだろう。


 そして俺は心から自覚する。俺は変化したくなかったのだ。どこまでも澄んだ流れで進んで行きたいわけではなく、濁りながらもできる限りで停滞していたいのだ。何もかもが変わってしまっても、俺だけはこの公園のように変わりたくないのだ。

俺の人生には自分を連れ回してくれる美少女も、不思議な力を授けてくれる怪しげな老人もいらない。むしろそんなものが現れなかったことで、俺はホッとしていたのだ。このままどこにも行かずに、無をやって消えていきたいのだ。そんなものが現れてたまるものか。


 『青春』という言葉は、古代中国の思想から来ているらしい。希望を持ち、元気に溢れている時代のことを、青春というのだと。それなら俺は、出会いと別れ、変化の季節としての春は嫌いかもしれないが、ずっと青い春の中にいたいと思う。いつまでも停滞し、しかし希望は捨てず、青春真っ盛りの中で春を否定して毎日楽しく生き続けたい。


もしかしなくても、そんなのは無理な話なのだろう。この貯水池だって、きっと見えないだけでどこかに排水溝がある。そうでなかったとしても、水はゆっくりと地面へと染みこみ、流れがなければやがては枯れ果てる。完全な停滞は不可能で、どこにも繋がることのない終わりが訪れるだろう。だが、そうだとしても別にいいじゃないか。見えていないのだから、最後までどうなるかはわからない。もしかしたらこっちの道の方が、正しい可能性だってある。


俺は駆け足で、家へと帰宅していた。さっきまでは気になっていた汗も、もう気になることはなかった。春休み終了まであと10日もないが、もっと気に掛けるべきことが何であるか分かったのだから。これからの思索の結果やるかもしれないことは、きっと親戚一同に反対されるだろうし、場合によっては親に勘当されるかもしれない。だがそれでいいのだ。俺の青春は、まだ始まったばかりなのだから。

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