第120話「嵐の海」
巣箱艦隊は明日にはアレータ島を視認できるという地点で、トライシオスから台風接近の報を受けた。
直ちに進路を東から南東に変更。
いまはアレータ島南の洋上で待機中だ。
危ないところだった。
さっきまで北の水平線上に薄っすらと見えていたアレータ島が、いまはもう見えない。
島上空を東からやってきた黒雲が覆い、島影を豪雨で塗りつぶしてしまった。
あのまま島近海へ向かっていたら、暴風雨に巻き込まれてしまったことだろう。
乗員は作戦のために頑張って耐えるが、小竜には通用しない。
小竜たちにとって、この出撃は遠出の〈漁〉に過ぎない。
苦しみに耐えて成し遂げなければならない作戦行動ではない。
いままでのリーベル派を狩る訓練において、〈漁場〉に時化はなかった。
だから「初めて味わう時化の苦しみに耐えられないのでは?」というトライシオスの懸念は尤もだった。
訓練によって我慢することを覚え、野生竜から軍竜に育ったがそれでも限度はある。
居心地が悪過ぎれば逃げ出してしまうだろう。
小竜の逃走という最悪の事態を未然に防ぐことができて良かった。
一行は、トライシオスとイスルード島の密偵に感謝した。
ここで安全に台風をやり過ごす。
台風を避けて一日目——
岩島はとんでもないことになっているが、黒雲の外は穏やかだ。
巣箱艦隊は現在地にて待機。
昼間、小竜のストレスを軽減させるため、魚を獲る〈漁〉を行った。
……本来、魚を獲ることを漁というのだが、この艦隊にいるとややこしい。
二日目——
遠目に見て、昨日より豪雨が酷い。
予報通り、台風はアレータ島で真北へ進路を変更するようだ。
西への動きを北へ変更する様は、島上空に留まっているように見える。
今日も小竜たちは魚を獲る漁が捗りそうだ。
三日目——
雲の向こうで北風でも吹いているのか、台風が動かない。
アレータ島一帯に暴風雨が続く。
四日目——
北風が止んだのか、夜が明けると台風は北へ去っていた。
いまはアレータ島の遥か北だ。
天気は快晴。
水平線に再び島影が現れた。
台風にも予定があるのか、足踏みした遅れを取り戻すかのように速度を上げて遠ざかった。
もう大丈夫だろう。
巣箱艦隊は移動し、本来の目的地だったアレータ島の南側に到着できた。
予定より四日遅れて到着したが、無敵艦隊はどの辺りまで来ているだろうか?
艦隊内唯一の魔法使いとして、リーベルの魔法艦を感知できるのはラーダだけだ。
ソヒアムが停船するのを待たずに駆け出した。
より北へ。
敵艦隊に近い艦首へ。
元々、先にやってきて岩島の南側で待ち伏せる作戦だった。
一日か二日位は待つと想定していたが、四日は長過ぎだったかもしれない。
もう、かなり近くまで来ているのではないか?
だとしたら、すぐに出撃ということもあり得る。
皆、作業の手を止めて静かにしていた。
感知の邪魔にならないように。
果たして……
「……えっ!?」
ラーダが何かに驚いている。
無敵艦隊か!?
すぐそこまで来ているのか?
咄嗟に数人の乗員たちが望遠鏡を向けるが、残念ながらラーダと同じものを見ることはできなかった。
彼が感知したものは水平線の向こうだ。
大規模な魔法艦隊の気配を水平線の向こうに感知したのだろう?
だったら何をそんなに驚いている?
早く知りたくて、乗員たちは少しばかりの苛立ちを覚える。
しかし、ラーダは決して焦らしているわけではなかった。
ただ、自分が感知したことの意味がわからなくて困惑していただけだ。
とにかく皆にも感知したことを知らせよう。
たとえ意味がわからなくても。
意を決すると振り返り、艦尾まで届くほどの大きな声で叫んだ。
「無敵艦隊がいない!」
***
無敵艦隊がいない……
通常、魔法艦は探知魔法を円形や球形に張り巡らしながら航行する。
だからラーダのような魔法使いなら、その気配を感知することができる。
ところが、その気配が見つからなかった。
これまでの訓練で、ラーダの感知能力は陸軍魔法兵時代を大きく超えている。
いまなら、かなり遠くの魔法艦でも感知することができる。
それでも見つからないとしたら考えられる原因は二つだ。
一つ目は、遠征軍総司令官が帝都へ向かっていた場合だ。
この場合、ウェンドア沖から西進し続けるので、アレータ島から気配を感知するのは無理だ。
二つ目は、何らかの理由で探知円の展開をやめた場合だ。
ない気配は感知しようがない。
この場合は最悪だ。
帝都侵攻とアレータ島占領、どちらもあり得る。
もしアレータ島に奴らが来たら……
第一撃で巣箱は全滅させられる。
そのとき、発艦が間に合わなかった小竜隊も道連れになる。
何とか発艦が間に合った隊も帰る場所がない以上、全騎墜落の道しか残っていない。
無敵艦隊に勝っても、負けても。
ザルハンスたち四人の艦長とレッシバルたち隊長四人は緊急会議となった。
一大事だ。
ここまで来ておきながら口惜しいが、アレータ島を放棄して帝都沖へ向かわなければならないかもしれない。
ソヒアムの艦長室からはいろんな意見が漏れ聞こえてくる。
だが、これといった名案はないようだ。
ラーダは……
彼は会議に加わっていない。
艦首に残り、青空と海を睨んでいた。
***
戦というものは、やってみなければわからないものだ。
戦史を見れば、名軍師の緻密な作戦が気まぐれによって破られた例がいくつも出てくる。
勘や偶然というものは侮れない。
〈集い〉側の名軍師といえば、まずはトライシオスが挙げられる。
レッシバル対リーベル派の一騎討ちから空対艦の戦法を考案し、ウェンドア会談では単身、頭脳と度胸で〈漁場〉を守った。
その名軍師が、無敵艦隊の第一攻撃目標はアレータ島であると予測していたのだが……
残念ながらハズレだった。
原因は台風による予定変更だ。
当初、艦隊は中部セルーリアス海で二つに分かれる予定だった。
本艦隊は速度を抑えながら西を目指し、前衛艦隊は南西に転針し、アレータ島占領に向かう。
無人の岩島に魔法艦二〇隻とは大袈裟な気もするが、ネイギアス艦隊の待ち伏せを警戒してのことだった。
ウェンドア会談において、執政は最後までアレータ泊地を認めなかったという。
連邦は信用できない。
リーベルを牽制しておきながら、自分たちの艦隊を派遣しておく位のことはする連中だ。
その場で海戦になる可能性も考えると、二〇艦は大袈裟ではなかった。
行って無人の岩島であれば良し。
ネイギアス艦隊がいたら、撃破してから岩島にリーベル旗を立てる。
そうして岩島を確保後、警備艦として魔法艦を数隻残し、北で待つ本艦隊と合流するはずだった。
そこへ本国から長距離伝声筒に報せが入った。
南から台風が来る、と。
現在地で全艦停船してやり過ごすか?
それとも暴風雨の外側を迂回するように南下し、台風が通り過ぎた後を西進し続けるか?
作戦会議の後、全艦で帝都を目指すと決まった。
こうして、トライシオスの「リーベル軍はまずアレータ島を取りに来る」という予測は完全にハズレてしまった。
この時点では。
***
無敵艦隊は台風を迂回しつつ西を目指すのだが、その迂回路に問題があった。
予定よりかなり南下することになる。
南……
南にはアレータ島がある。
ウェンドア会談で争いになった島だ。
見張りのネイギアス艦隊が岩島の北に展開しているかもしれない。
南下し過ぎれば、その艦隊と遭遇する虞がある。
帝都は西、アレータ島は南。
宣戦布告状の通りに事を進めるなら、出会うはずがない艦隊同士だ。
台風が過ぎ去った後を通りたいだけなのだが、位置が悪い。
見つかったら、同盟違反を疑われても言い訳できない。
台風のせいで南下はするが、アレータ島へ立ち寄る時間はなくなってしまったというのに……
だったらその旨、連邦に通知すれば良いのにと思うかもしれないが、聞くまでもなく返事はわかっている。
「現在地で台風が過ぎ去るのを待っていれば良い」だ。
これではダメだ。
洋上待機などしていたら、征東軍の帝都攻略戦にリーベル軍が間に合わなくなる。
ブレシア騎兵とミスリル歩兵は互角……地理に明るい帝国軍がやや有利か。
征東軍の劣勢を覆し、優勢に陸戦を進めるためにはやはり艦砲支援が必要だ。
両軍が激突するまでに、リーベル軍も帝都沖へ到着している必要がある。
台風のせいで面倒なことになってしまった。
同盟を無視して南下すれば、連邦から同盟違反だと咎められる。
同盟を守って待機していたら、帝都攻略戦に間に合わない。
すると、作戦会議に参加していた参謀が一つの策を示した。
「南下中、全艦の魔法を止めさせましょう」
参謀というには若すぎる青年。
名はミルアベルト。
かつてラーダを〈三賢者の霊廟〉へ参拝に連れて行ってくれた学友たちの一人だ。
彼は魔法艦乗りではあるが、海軍魔法兵ではない。
魔法艦は魔法使いだけで航行しているのではない。
通常の船乗りたちも乗務している。
卒業後、彼は海軍軍人になり魔法艦に乗務していた。
そしていまは若いのに参謀の一人だ。
ラーダも優秀だったが、ミルアベルトも優秀だった。
その彼が提案した策は、ネイギアス艦隊に感知されないよう、魔法の気配を消して通過しようというものだった。
もちろん他の参謀たちから危険を指摘された。
探知円が消えれば、大頭足に接近されてもわからない。
またネイギアス艦隊が意表を突いて襲い掛かってきたらどうする?
心配はご尤もだ。
立案者のミルアベルトは丁寧に補足を述べた。
探知魔法を突然やめるのではなく、探知可能距離が長い〈線型〉に展開して大頭足や敵がいないことを確認する。
〈線型〉の探知範囲は狭いが、艦隊中の魔法兵が一斉に展開すれば広範囲を探知できる、と。
彼の補足は総司令官や他の出席者たちに受け入れられ、艦隊の方針は南下と決まった。
台風の前で各艦が逐次取舵を切っていく。
艦首の前に聳えていた豪雨の壁が右舷に移動していく。
大きな台風だ。
右舷にいる者が望遠鏡を向けているが、何も見えやしない。
ここは魔法兵の出番だ。
探知円ではなく、探知線で豪雨の中も向こう側も調べる。
結果は……
妙な表現だが、豪雨の中は水だらけだった。
敵艦や大頭足は見つからなかった。
周囲に敵影なし。
最後尾の魔法艦が転舵を完了した。
艦隊はこれより南下を始める。
いままで当たり前のように展開していた探知円を解除するのは不安だが……
予定通り、艦隊の魔法兵たちは探知円の展開をやめていった。
「…………」
透明なので、魔法の心得がない者には変化を感じにくい。
しかし、これで感知されない状態になれたはずだ。
岩島の北に展開しているかもしれないネイギアス艦隊にも見つからずに済む。
探知円なしの航海が一日、また一日……
南下を続ける艦隊の右舷前方、台風の終わりが見えてきた。
「総司令、そろそろ転舵予定地点です」
「うむ、各艦隊列を維持しつつ、針路を西へ変更せよ!」
ミルアベルトの策がうまくいって良かった。
おかげで南下中、連邦にも見つからずに済んだ。
見つかったらネイギアス大使に厳重抗議され、ウェンドアからは長距離伝声筒で「もっとうまくやれ!」と叱られるところだった。
台風の後ろを通り過ぎたら帝都沖へ直行する。
本当はアレータ島を先に片付けたかったが、戦は予定通りにいかないときがある。
今回がそうだったのだ。
何事も臨機応変に対応していかなければ。
帝都攻略戦が終われば、後の陸戦は征東軍と我が魔法剣士隊に任せておいても大丈夫だろう。
その間に艦隊は……
アレータ島に注意を奪われているロミンガンを急襲しようか?
総司令の冗談に周囲の者たちが楽しそうに笑う。
そのときだった。
カンカンカンッ——!
気が狂ったように打ち鳴らされる警鐘が和やかな空気を木端微塵にする。
甲板中が音の出処、見張り台を見上げた。
見張り台には甲板に繋がる伝声筒があり、総司令官の近くにあった伝声筒に見張り員の叫びが届く。
「右舷、敵艦隊!」
上に気を取られていた者たちが、一斉に右を振り返る。
そこには、豪雨を割って躍り出た一つの艦隊の姿があった。
***
嵐を割って現れた艦隊は、帝国第二艦隊。
世界中から「海軍ごっこ」と嗤われている弱小艦隊だ。
提督は指揮刀を抜き放った。
「全艦突撃っ! 一隻でも多く敵艦に食らい付けっ!」
「オオオォォォッ!」
風力が比較的弱い外縁部を通ってきたが、それでもきつい嵐だった。
でも、頑張った甲斐はあった。
嵐の海を頑張って乗り越えた先には、無敵艦隊が目の前にいた。
「かかれぇぇぇっ!」
〈海の魔法〉の懐近く、指揮刀は振り下ろされた。
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