第112話「育児の巧拙」
ネイギアスの密偵の後ろに続くシグ一行は、港湾区域を離れて旧市街へやってきた。
よく整備されている新市街と違い、旧市街は外国人にとって雑然とした印象だ。
迷路のような小道が複雑に入り組む。
その迷路を迷わず進み、辿り着いたのは一軒の酒場だった。
入口上部の看板には『マルジオの酒場』とある。
中に入ると、
「いらっしゃい!」
太く元気な声が飛んできた。
声量の大きさといかにも酒場の親父然とした風貌。
彼が店主のマルジオらしい。
「やあ、親父」
密偵と親父は親しいようだ。
だから彼が連れてきたシグたち一〇人にも、
「おや、珍しいね! 帝国人かい!」
と歓迎してくれた。
酒場の親父らしく全員をテーブル席へと促すが、昼間から一杯ひっかけに来たのではない。
シグは本題を切り出した。
「我が国の大使に会いたい」
ところが、
「大使? どうしてウチに?」
しらばっくれようとするが、親父もウェンドア市民なら帝国大使館がいまどんな状態か知っているはずだ。
にもかかわらず、大使館へ行けとは嘘が下手すぎる。
密偵も苦笑いする。
「親父、この人たちは大丈夫だ」
と宥められるが、親父の視線が密偵と帝国人たちを往復するばかり。
何往復目だっただろうか。
大きな溜め息を吐きながら首を横に振った。
「やめだ、やめだ、怪しいかどうかなんて見たってわからねぇ」
親父はリーベル人だが、魔法の心得はなかった。
ただの酒場の親父だ。
化けの皮の内側、ダークエルフを看破するなど無理な芸当だった。
ただの帝国人一行にしか見えない。
「国は国、俺たちは俺たちだ。あんたたちを信じよう!」
——国、か……
親父は何気なく発した言葉だったが、シグは聞き逃さなかった。
ウェンドア市民たちも敏感に感じ取っているようだ。
帝国に対する仕打ちの異常さを。
重要なヒントを話したとは気付いていない親父は「こっちだ」と、元気に店の奥へと入っていった。
トン、トン、という板を踏む音がする。
大使は二階らしい。
「どうした? 早く来いよ」
一行が続いていないことに気付き、下りてきた。
「ああ、いま行く」
シグは部下たちに一階で待っているよう告げると、親父に付いて行った。
***
シグは親父に遅れて階段を上っていった。
二階に着くと廊下が伸び、その末端で親父が一室の扉を開いて待っていた。
室内には、乳児を抱き抱えている初老の男性が腰掛けていた。
彼が帝国大使だ。
だが、乳児は一体?
「大使? その子は……」
シグが尋ねようとしたときだった。
「ああ、すまねぇ旦那! いつも子守りを押し付けちまって」
親父が割って入り、男性から乳児を受け取った。
ところが受け取った途端、
「えっえっ、えーん! ほぎゃ、ほぎゃあああっ!」
乳児は静かに眠っていたのに、抱き方が乱暴だったので泣き出してしまった。
「どうしておまえは俺が抱くと泣くんだ⁉ ご、ごゆっくり!」
と、逃げるように扉を閉めて退室した。
乳児の泣き叫ぶ声と女性の名を泣き叫ぶ親父の声が遠ざかっていく。
女性の名……
奥さんに助けてもらうつもりか。
扉越しに騒ぎ声が部屋まで届いていたが、しばらくするとピタッと治まった。
無事、奥さんの下へ辿り着けたようだ。
「……お孫さんかと思いました」
静けさが戻り、シグは扉から大使へ向き直った。
「そう思われてもおかしくない組み合わせだったな……あの子は次のマルジオだよ」
「次?」
『マルジオ』の名は代々引き継がれていくらしい。
あの子はいま別の名だが、いつか酒場と共にマルジオの名も引き継ぐ。
「なるほど」
何となく、大使が置かれている状況がわかってきた。
大使館は危険だが、この国を去るわけにはいかない。
そこでこの酒場に避難しているらしい。
いまは子守りだ。
——そういえば……
部屋に入るなりドタバタして忘れていたが、シグは自己紹介がまだだったことを思い出した。
以前、封鎖網を解除してもらうべく、担当部の一人として何度かウェンドアへ渡った。
大使とはその度に会っていたが、担当部部長としては初対面だった。
「申し遅れました。此度、新たなリーベル担当部部長を拝命しました」
「新たな、というより〈いまのところは〉であろう? 和平交渉団団長シグ殿」
「!」
さすがはリーベル王国における外交の長というべきか。
大使はそう遠くない日、封鎖網を解除してもらう話が和平交渉の話に変わることを理解していた。
シグが海を渡ってきた理由を説明する必要はなさそうだ。
しかし大使については説明が必要だ。
なぜ大使館が廃墟に?
なぜマルジオの酒場に?
そして……
「なぜ、ブレシア人排斥運動がないのか、だな?」
それだ。
話が早くて助かる。
ワッハーブの船を降りてからここまで、一行は無事に来ることができてしまった。
ウェンドア市民から一個も石礫を投げつけられることなく。
「君たち担当部が来なくなってから……」
大使は今日までのことを語り始めた。
***
担当部の来航が減り始めた頃、大使はリーベル在住の帝国人に帰国するよう促した。
突然、解雇や離婚を申し渡されたという帝国人の相談が増えるにつれ、いまにイスルード島から帝国へ向かうことができなくなるのでは、と予測したためだ。
予測は正しかった。
ワッハーブの船だったから、どうにか通れたのだ。
帝国船だったら臨検はない。
問答無用で砲撃を受けただろう。
こうしてリーベルから帝国人がいなくなった。
まだ島内に隠れ住んでいる者はいるかもしれないが、大使がそいつらを残らず見つけて帝国へ送るのは無理だ。
職務はほぼ全うされたといって良いだろう。
ルキシオ行きの定期船に家族と帝国人職員を乗せた日、ウェンドア港で彼は一人で見送った。
「ワシまで帰国するわけにはいかんからな」
その通りだ。
誰の目にも戦になるのが確実ではあるが、「戦になりそうだ」という懸念だけで帰国すれば、リーベルに口実を与えてしまう。
「その後はこの酒場へ?」
「いや、まだだ」
帝国人職員は帰ったが、まだリーベル人職員が残っていた。
大使はしばらくの間、彼らと大使館で暮らしながら活動を続けた。
主な活動は二つ。
一つは情報収集、もう一つは、
「〈誤解〉を解く、ですか?」
「そうじゃ。だが……」
〈庭〉への野心など、全く身に覚えのない誤解だ。
大使は粘り強く誤解を解こうとしたのだが、今日まで何の成果も上げられなかった。
外務省へ足繫く通ったが……
かつてシグがリーベル王国側の担当官と繰り返してきたやり取りを、今度は大使がすることになっただけだった。
海上封鎖は濡れ衣だ、と。
しつこく食い下がると、帝国の被害妄想だとも言われた。
全く同じだ。
情報収集も思わしくない。
とにかくこの街には何もないのだ。
「せっかくウェンドアにいるのに、何が何だか……」
大使は首を横に振りながら溜息をついた。
「…………」
シグには彼の苦悩がよくわかる。
何が何だかさっぱりわからないだろう。
だが、いまならわかる。
〈集い〉の一員となったからわかった。
リーベルが帝国を攻撃する理由——
その答えは島の外から仕入れている〈原料〉だ。
ゆえにいくらこの島で探しても、何も掴めるはずがなかったのだ。
答えは海の向こうにある。
そうとは知らず、無駄な日々だった……
大使が味わった徒労は同じものだった。
だが担当官だった頃のシグとの違いは、一つの仮説が立っていることだ。
彼が考えるリーベル王国が戦いたがる理由。
それは、
「帝国への憎しみや領土欲ではない気がする」
加えて、この国で暮らす者たちの思いが一つに纏まってはいないようだ。
まずはリーベル王国外務省。
帝国への恨み言をぶつけてくれれば、解決のヒントになるのだが……
先述の通り、奴らは「皆のセルーリアス海を帝国の領海とするのは許されない」と主張するばかり。
いくら野心はないと弁明しても「周知の事実だ」と突っ撥ねてくる。
周知とは、具体的に誰のことを言っているのか。
次に、帝国軍と実際に戦うことになる海軍だが……
消極的とまではいかないが、積極的とは言い難い。
士官が集まると「なぜ海の大国と陸の大国が?」と首を傾げているらしい。
とはいえ、戦うのが嫌だということではない。
自分から戦を挑みはしないが、御命令が下れば敵に勝利してくる、という姿勢だ。
そして、リーベル国民。
彼らは戦いを望んでいない。
逆に、全くやってこない帝国船と日々減っていく帝国人を心配しているくらいだ。
時々、「帝国海軍が〈庭〉を狙っている!」という噂が立ちかけるが……
大らかな国民性ゆえにか、魔法艦隊への信頼の高さからか、市民たちは「酔っ払いの法螺話だろう」と笑うだけで終わってしまう。
よってブレシア人排斥運動も起きていない。
「それならどうして大使が——」
話の途中だが、シグは尋ねずにいられなかった。
市民たちの敵対心はないのだろう?
にもかかわらず、帝国大使がなぜマルジオの酒場に避難しているのか?
すると、そう質問されることを読んでいたのか、大使はシグの顔の前に四本指を立てて見せた。
「王国……海軍……市民……」
と小指から順に立てていた指を折っていき、人差し指が一本だけ残った。
「研究所……ワシは海軍研究所に戦の口実を与えないよう逃げたのだ」
「研究所……」
呻くシグに、大使は「確かに妙な話なのだが……」と前置きした上で、
「いつも建物に引き籠り、戦や世俗から遠い研究所の魔法使いが、最も戦を望んでいるようなのだ」
大使館も奴らの仕業だという。
夜、小さな火球を撃ち込まれ、消火に出てきた人間を氷の矢が襲う。
しかも大使に風貌が似ている者から順に……
もちろん魔法攻撃の発射元に急行したが、毎回すでに脱出した後で誰もいなかった。
「そんなことが……ん?」
お気の毒に、と思いながら話を聞いていたシグだったが、おかしな点に気付いた。
火球や氷の矢というのだから、魔法使いかその心得がある者の犯行だ。
しかしここはリーベル王国だ。
市井にも魔法使いが大勢いる。
どうして研究所の仕業だと断言できるのだ?
「……そ、それは……」
シグの突っ込みに大使は言葉を濁し、目が泳ぐ。
助けたのは、様子を見に二階へ上がってきた密偵だった。
「我々が襲撃犯を追跡し、大使にお報せしたのです」
***
ネイギアスの密偵とは言うが、例えばロミンガン人の密偵がウェンドアで諜報活動に勤しんでいたら目立ってしまう。
そこで連邦はネイギアス人の密偵を派遣するが、現地人も多く用いる。
リーベル人の中に潜入するには、ネイギアス人よりリーベル人が適しているということだ。
彼らは本国の命令により、研究所をずっと見張っていた。
出入りする人間や街での行動予定、搬出入される物品を把握している。
だからすぐにわかった。
見慣れない人物が出入りすると、直後に帝国大使館で事件が起きることを。
この流れを掴んだ密偵は以後、研究所で〈人の出入り〉があると間を置かず帝国大使に報せた。
今日まで無事なのは、この情報提供のおかげだった。
しかし段々と増していく被害の前に、大使はついに大使館から避難することを決意した。
自らの死をリーベルの都合に利用されないためだ。
そこで避難場所として連れてきたのが、マルジオの酒場だった。
当代のマルジオは、どこの国の人間だろうと分け隔てがない人情親父だ。
彼は、帝国人の馴染み客がポツポツと減っていくのを見てきた。
ある者は解雇されたため。
ある者は離婚されたため。
理由は、帝国人だから……
まるで国外追放ではないか。
帝国人だけでなく、リーベル人のマルジオも王国政府の仕打ちに反対だった。
なので、大使を匿うことを快く引き受けてくれた。
今日まで大使の身に何もなかったことは素直に喜ばしい。
だが、
「これでは大使の生死が、リーベルにわからないのではないか?」
心配はご尤もだ。
現状において、大使は居ないのも同然だ。
人間として生きているだけでは不十分。
ウェンドアに居ることが明らかでなければ、帰ったことにされてしまう。
せめて、居ないとは断言できない状態でなければ。
「その通りです、シグ卿。ですから我々は——」
返答に詰まっている大使に成り代わり、ここからは密偵が説明を引き継いだ。
大使を救ったのは執政閣下の御指示だ。
もし大使が殺害されたら、激怒した帝都の騎士団がリーベルより先に宣戦布告しかねない。
正騎士たちに予定外のことをされては困る、との仰せだった。
けれどもこれではシグの言葉通り、大使が居ないのも同然。
そこで、ウェンドアでの最近の出来事について、大きな紙いっぱいに大使の意見を記してもらった。
もちろん文の最後には署名を忘れずに。
内容は、別に大使らしくなくて構わない。
『大使館の近所で飼い犬がいなくなってしまったが、誰か知らないか?』
この程度の庶民的な話題で構わない。
要は〈いま〉大使が市内に〈居る〉ことがわかれば良いのだ。
掲示物作成にとって、酒場はとても良い場所だった。
酒場なら、市内や海外の話が二階まで聞こえてくる。
大使が注意すべきは、旧市街についての話題ばかりに偏らないようにすることだった。
出来上がったら、密偵が人目に触れる場所へ貼ってくる。
こうして、帝国大使の所在は不明だがウェンドアのどこかにいるのは間違いない、という不思議な状況が出来上がったのだ。
「なるほど」
シグは何度も頷いた。
きっと大使と密偵には、いまの話に納得しての頷きに見えるだろう。
本当は、舌を巻いての頷きなのだが。
何に対して舌を?
トライシオスに対してだ。
やはりあいつはすごい奴だった。
群島の友は〈集い〉の役目を十二分に果たしてくれた。
ここからはシグが役目を果たす番だ。
気を引き締め直す。
「…………」
和平交渉の前にやらなければならないことができた。
掲示物を引き継ぎ、明日からはシグと署名する。
大使は帰国してもらう。
ワッハーブは明日の昼にウェンドアを発つ予定だから、その船で。
三国同盟が締結されてしまい、これから必ず戦になる。
襲撃に怯えながら旧市街に潜伏し続ける意義が失われたのだ。
部外者には退場してもらう。
さっき入室したときに、そう決めた。
ウェンドアには戦える者だけが居れば良い。
……大使は、赤子の扱いが上手だった。
実父マルジオよりも。
大使にも同じ年頃の孫がいて、平時は良いじいちゃんなのだろう。
模神討伐に巻き込まれて死ぬべき人ではない。
シグは心の中で呟いた。
これから宮殿で血の雨が降る予定だ。
ウェンドア市内にも降るかもしれない。
だからいまのうちに孫のところへ帰れ。
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