第102話「大真珠」
ウェンドア会談四日目、馬車襲撃後——
ネイギアス大使館に馬車が帰ってきた。
馬車は正門を通り、職員たちが整列している玄関前へ。
馬車の扉が開くと、中から身なりの良い青年が下りてきた。
トライシオスだ。
後に文官が続き、足早に建物の中へ入っていった。
その様子を正門近くの暗がりから見ている者がいた。
賢者たちが差し向けた海軍魔法剣士だ。
海軍魔法剣士の役目は強襲上陸だけではない。
魔法艦隊の到着に先んじて敵拠点へ潜入し、破壊工作や敵将の暗殺を行うこともある。
正門の魔法剣士は懐から伝声筒を取り出した。
「赤月より凶星へ」
彼は自らを〈赤月〉と呼称し、裏門の仲間を〈凶星〉と呼んだ。
赤月と凶星……
任務にちなんでいる不吉な名だ。
「こちら凶星」
「大真珠が宝箱に戻った」
真珠は温暖な海に棲む二枚貝から採れる宝石だ。
貝は水深三エールトほどの浅い海で岩などに固着して暮らしている。
つまり、ネイギアス海のような南海が生息地だった。
真珠はネイギアス製呪物と並ぶ連邦の主力交易品だ。
特に、大きく育った真珠は「大真珠」と珍重され、信じられないほどの高値で取引されている。
ネイギアス産の大真珠に喩えられる大物……
執政トライシオスだ。
ならば大使館は、大切な大真珠をしまっておく宝箱ということか。
赤月から報告を受けた凶星は、
「了解、これより採取する」
とだけ短く返した。
不吉な赤月と凶星が大真珠を採取する……
「採取する」というと難しいので「取る」と言い換えよう。
そこへ大真珠に込められた意味も加えて解釈する。
すると、赤月と凶星のやり取りは次のようになる。
「赤月から凶星へ。執政トライシオスが大使館へ戻った」
「了解、これより奴の命を取る」
***
大使館へ戻ったトライシオスは、まだ早いが休むことにした。
夕食は宮殿で済ませてきているので、使用人にもそう伝えて下がらせた。
部屋で一人、机に向かう。
フェイエルム大使が話を纏めたがっていた。
三国同盟締結という結論は決まっているのに、そこまでの道筋や条件で揉め続けてきた。
横で聞いていて飽きたのだろう。
大使には退屈させて申し訳なかったが、自由航行権など僅かでも認めるわけにはいかなかった。
リーベルは今日の話し合いで諦めるしかないと悟ったことだろう。
さもなくば、成るはずだった三国同盟が不成立となる。
だが明朝、最後の悪あがきを仕掛けてくる可能性はある。
リーベルの戯言を論破した後に調印式、という流れも想定しておくべきだろう。
***
トライシオスの客室は裏門側の二階にあった。
正門側にも客室はあったし、大通りに面しているので見晴らしが良かった。
港の様子も見ることができるし、正門側の部屋にすれば良かったのにと思う。
しかし見晴らしが良いということは、狙撃手からも彼の姿がよく見えてしまうということでもあった。
そこで、保安上の理由から裏門側の客室になったのだ。
おかげで彼が寛いでいる様子を外から拝見することは叶わない。
凶星が隠れている位置からも無理だった。
角度が悪く、標的の姿を直接目視することはできない。
それでも部屋から漏れる明かりなら確認することができる。
その明かりがいま消えた。
想定問答が終わり、お休みになられるようだ。
凶星は二階を見上げながら伝声筒を握りしめ、赤月へ合図を送った。
「始めてくれ」
作戦開始だ。
赤月は両掌を上に向け、何かを短く呟いた。
魔法の詠唱だ。
すぐに小さな白霧が二つ、それぞれの掌に湧き立った。
〈眠りの霧〉という。
その白霧を僅かでも吸い込んだ者は瞬時に深い眠りに落ちる。
白霧が完成すると綿のように握りしめ、物陰から出た。
向かう先は正門。
正門の左右に立つ門番も人影に気付いてはいたのだが、何度も振り返って後ろを気にしながら接近し、数歩前で軽く会釈してきたので〈善良な〉ウェンドア市民だと勘違いしてしまった。
いや、市民が夜に大使館を訪問するのはおかしいだろうと突っ込まれそうだが、それは〈普通の〉市民の場合だ。
ネイギアスにとって有益な情報を齎してくれる〈善良な〉市民は人目を憚って夜に訪れる。
リーベルの国民が自国の情報を連邦に売ろうというのだ。
フードを目深に被り、キョロキョロ、コソコソと挙動不審になってしまうのは致し方ないことだった。
だから今日も、善良な市民が情報を売りにきたのだと思ってしまった。
門番から誰何されずに接近できた赤月は、握りしめていた両拳を彼らの顔に向かって優しく開いた。
圧縮されていた白霧は勢いよく解放され、門番たちの頭部を覆う。
「っ!?」
「て……!」
敵襲と叫びたかったようだが、気付くのが遅かった。
白霧を吸い込んでしまった二人を強烈な睡魔が襲う。
魔法の心得がない一介の歩兵に逆らえる睡魔ではない。
糸が切れた操り人形のように、その場に崩れた。
魔法使いが解除しない限り、明日の昼まで起きない。
大使館は繁華街から離れているし、夕方で業務終了となるので夜になると人通りが殆どなくなる。
とはいえ、全くの無人になるわけではないので、門番をこのまま放置しておくわけにはいかない。
一人ずつ運んで、正門の内側にあった植え込みに放り込んでおく。
各国大使館の門番は夕方の閉館前後に交代する。
夕暮れ時から見ていたが、ネイギアス大使館の場合は閉館後に午後番と夜番が交代していた。
その夜番がいま植え込みで眠っている二人だ。
よってまだ交代したばかりなので、深夜の交代時まで正門には誰も来ない。
これで落ち着いて——
赤月は魔法剣を抜いた。
これで落ち着いて、一階を制圧できる……
本作戦において彼は陽動だった。
侵入に気付かれるまでは一階にいるネイギアス人たちを虱潰しにする。
気の毒だが大使館に雇われているリーベル人たちも。
見つからずに全滅させられればそれが一番だが、見つかっても構わない。
陽動らしく、群がってくる衛兵共を手当たり次第に斬り捨てるだけだ。
さすれば、裏門の凶星がやりやすくなる。
***
赤月が陽動なら、凶星は標的を討ち取る係だった。
衛兵たちが侵入者に対応している間に、執政は裏門から脱出を図ろうとするだろう。
そこで凶星が裏門で待ち構え、現れたところを討ち取る。
あるいは事が済むまで二階で籠城という展開もあり得るので、そのときは館中の注意が正面に集中している隙に、二階へ討ち取りに行く。
どちらであっても正門側の騒ぎが合図となるが、思いの外に虱潰しが順調だった場合、騒ぎは起きない、
なので騒ぎが起きなくても、少し時間をずらして裏口から侵入する。
大勢を引き受けることになる赤月は大変だが、侵入するタイミングを間違えてはならない凶星も大変だ。
騒ぎはまだか、と耳をそばだてる。
…………
何の音もしない。
静かに制圧が進んでいるようだ。
…………
……そろそろ行くか。
騒ぎが起きないので、凶星は予定通り、時間差で侵入を開始することにした。
物陰から出ると、忍び足で大使館裏口の扉の前へ。
探知魔法で扉を調べる。
「…………」
罠や呪いは掛かっていないようだ。
安心して扉に耳を当て、付近に人の気配がないことを確かめる。
「…………」
誰もいない。
ドアノブを静かに回す。
カチャ……
微かな音と共に、小さな手応えが掌に返ってきた。
鍵は掛かっていなかった。
まだ戸締り前だったようだ。
ということはまだ起きている使用人がいて、これから戸締りをしに裏口へやってくるということだった。
凶星はそっと魔法剣を抜いた。
作戦開始から時間はあまり経っていない。
いま頃、赤月は一部屋ずつ丁寧に潰して回っている最中だと思うが、この短時間で全滅させるのはさすがに無理だ。
よって、まだ侵入に気付いていない使用人と凶星が鉢合わせる虞があった。
二階までの道中、誰かと遭遇したらこの魔法剣で〈沈黙〉させる。
気の毒だが、リーベル人であっても同じく沈黙してもらう。
二階へ上がる階段を求めて、ヒタヒタと廊下を進む。
突き当りまで進み、角を曲がり……
目指す階段はすぐに見つかった。
この先だ。
上った先に執政の部屋がある。
上る前に念のため、もう一度後方を振り返った。
「…………」
大丈夫だ。
赤月のおかげで、誰もいない。
一段、二段、三段……
一階はいくつかの部屋から明かりが漏れていたが、二階はどの部屋も消灯しているようだ。
階段を上っていくほどに暗くなっていく。
凶星は一旦立ち止り、自らの目に〈暗視〉の魔法をかけた。
この先は暗がりでも見通せる目が必要だ。
魔法が完成すると視界が明るくなった。
あとは執政の部屋に辿り着くだけだ。
二階まであと七段。
彼は残りの階段を上っていった。
作戦は順調だ。
誰にも出くわさずにここまで来ることができた。
すべて予定通りだ。
なのに……
——妙だ。
二階まであと三段というところで足が止まった。
胸騒ぎがする。
執政や大使は部屋で休んでいるかもしれないが、使用人たちは夜も仕事がある。
無音ということはない。
いままで二階へ辿り着きたい一心だったので気にならなかったのだが、無音どころか館全体から人の気配がしないことに気付いた。
さっきまで、誰とも出くわさなかったのは赤月の手際が良いおかげだと思っていたのだが……
一階を振り返る。
——予定外ではあるが、赤月と合流しようか?
不安というものは一つ生まれると、夕立の雲のように急速に増え広がっていくものだ。
赤月は本当に順調なのか?
こうして耳を澄ませていても、仕留める音が全くしないのだが。
背後から一瞬で仕留めているので、悲鳴が上がらないのかもしれない。
それでも「わっ」とか「え?」という短い驚きや「ドサッ」という倒れる音はするものだ。
しかもここにいるのは使用人ばかりではない。
各国で恐れられているネイギアスの密偵たちが必ずいる。
彼らが恐れられている理由は諜報能力の高さだけではない。
暗殺にも長けているからだ。
一人一人の能力が高い。
そんな奴らをいとも簡単に仕留められるものだろうか?
馬車が帰って来る前、外から探知魔法で館内の人数を確かめておいた。
執政や大使の世話をしているからといって、ただの料理人や家事使用人だと決めつけることはできない。
料理や家事が得意な密偵かもしれないではないか。
最悪の場合、全員密偵の可能性がある。
だから事前に把握しておいたのだ。
倒さなければならない人数を。
確かに恐ろしい連中ではあるが、密かに忍び寄られるから怖いのだ。
どこに何人いると把握していれば何も恐れることはない。
と、考えていたのだが……
侵入直前まであった人の気配が、いまは全く感じられない。
赤月の気配もしない。
「…………」
凶星の背を冷たい汗が流れ落ちた。
まさか赤月はやられたのか?
実は襲撃を見抜かれていて、凄腕の密偵たちが一階で待ち構えていたのか?
気配を完全に消せるほどの手練れたちが。
でも、手練れゆえに気配は消せたとしても、探知魔法を誤魔化すことはできない。
優れた魔法使いならできるかもしれないが……
探知円を誤魔化せる高い魔力を兼ね備えた手練れの密偵?
そんな超人がゴロゴロいるわけがない。
一体、何が起きているのか気になる。
赤月はやられたのか?
あるいはこちらの取り越し苦労に過ぎず、静かに使用人を仕留めている最中なのか?
不安が「確認しに行け」と凶星を駆り立てる。
一階へ下りたい。
だが冷静に思い直して衝動を堪えた。
手練れ共は、仲間が赤月を探しに来るのを待ち構えているかもしれない。
そんなところへ出向いて行ったら……
元々、大使館中の注意を一階へ引き付けている間に、裏から二階へ行く作戦だった。
彼の生死は不明だが、手練れ共を一階に釘付けにしているのだから陽動としての役目を果たしている。
ならば予定通りの行動をとるべきだろう。
意を決した凶星は残りの三段を上がりきり、執政の部屋の前に辿り着いた。
念のため、裏口同様に罠の有無を調べ、鍵を確かめる。
局所的とはいえ、探知魔法を発動したら〈気〉が集結してしまうのでは?
その点については大丈夫だ。
大使館に魔法使いや心得のある者はいない。
もしいたら、さっき外で探知魔法を発動した時点で感知され、大騒ぎになっている。
凶星の探知が終わった。
罠はないし、鍵も掛かっていない。
不用心だと思うが、それだけ自国の密偵を信頼しているということだろう。
凄腕かもしれないが、横着な手練れ共だった。
赤月を無力化した後は待ち伏せなどと横着せず、さっさと残る相方を追い込めば良かったのだ。
モタモタしているから大切な〈大真珠〉を取られることになる。
音もなく扉を開けて、一歩、二歩……
凶星がトライシオスの前に辿り着いた。
全開になっている窓からそよ風が入り、室内は心地よい。
〈暗視〉のおかげで寝顔がよく見える。
まさか今日、この世を去るとは思いもしなかったことだろう。
気持ち良さそうに眠っている。
どんな夢を見ているのか知らないが、その夢が覚めることはない。
標的の上で魔法剣を逆手に持つ。
心臓を一突きだ。
〈斬撃強化〉を付与してあるのでベッドまで貫通してしまうだろう。
いや……
持ち替えて大上段に振りかぶる。
苦しまないように首を刎ねようか?
串刺しか?
斬首か?
時間にして三秒ほど考え、凶星は決めた。
斬首だ。
爪先に力を入れ、執政の首目掛けて魔法剣を大上段から一気に——!
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