第101話「賢さと正しさ」
ウェンドア会談四日目終了後、夜——
宮殿を出た馬車が、ウェンドア新市街の大通りを走る。
乗客は二名、トライシオスとお供の文官だ。
やけに会話の少ない晩餐が終わり、これよりネイギアス大使館へ帰る。
車中で、
「今日もお疲れ様でした。閣下」
会談中、寡黙だった文官が彼に労いの言葉をかけた。
「君こそ慣れない外国で疲れただろう」
と返す言葉が優しい。
いつの間にか、辛辣な〈老人たち〉は一人の青年トライシオスに戻っていた。
他国も似たようなものだと思うが、ロミンガンの文官は基本的に連邦政府庁舎で毎日忙しく働いている。
そのせいで外国どころか、庁舎外の街のことすら不慣れだったりする。
例外は外務省だ。
外交官たちは連邦と国交を結んでいる国々へ赴任し、その国の情報収集に努めている。
その国の〈通〉になれるくらいに。
お供の文官はその外交官だった。
トライシオスがロミンガンを発つ前、ウェンドアのネイギアス大使館へ連絡し、会談に同伴するよう命じておいた者だ。
妙だと思わないか?
——君こそ慣れない外国で疲れただろう——
慣れない外国?
彼は在リーベル王国ネイギアス大使館の外交官だぞ?
リーベル通だ。
トライシオスともあろう者が言葉を選び間違えたのか?
いや、そうではない。
会談二日目までの彼はリーベル通だったが、三日目以降の彼は不慣れなのだ。
——?
不可解かもしれないが暫しの辛抱を。
すぐに意味がわかる。
外交官の彼はトライシオスと和やかに話していたのだが、急に俯いてしまった。
とはいえ、それほど長い時間ではない。
せいぜい一〇秒程度。
その僅かな間に、
「閣下……」
俯いていた顔が上がったとき、彼は別人に変わっていた。
目深に被った黒いフードから覗く褐色の肌と尖った耳。
ネレブリンだ。
人間からの依頼で大陸各地に飛んだ経験はあったが、彼が海を渡ってウェンドアへ来たのは初めてだった。
つまり〈慣れない外国〉だった。
会談二日目までは本物の外交官に同伴してもらっていたのだが、不調に終わった。
そこで用心のために、三日目からはネレブリンに化けてもらっていた。
ネレブリンの変装はすごい。
別の仲間が闇の精霊シェイドを呼び出して外交官の〈影〉を作り、お供役の仲間にその影を貼り付けさせた。
おかげで魔法使いだらけの宮殿に易々と入ることができた。
当たり前だが、魔法王国リーベルの宮殿内は魔法使いだらけだ。
魔法を発動していれば、直ちに〈気〉の集結を感知される。
しかしこの二日間、誰にも見つからなかった。
それはそうだろう。
〈お供〉は変身能力すら発動していない。
大使館で仲間から魔法をかけられたのだ。
本人が詠唱も集中もしていないのに、魔法の〈気〉が集結するはずがないではないか。
精霊魔法は、厳密に言えば精霊を呼び出す術に過ぎない。
〈影〉の作成と貼り付けは、術者ではなく闇精の行いだ。
よって、精霊召喚時は術者の下に〈気〉が集結するが、召喚後は術者ではなく精霊の下に集結する。
また〈影〉の貼り付けを終えた闇精はすぐに元の世界へ帰る。
術の維持などしない。
こうして術者と精霊という〈気〉を集結させる者が不在のまま、魔法の効果だけが残るという便利な状況が出来上がるのだ。
問題は効果が切れるまでの時間だが、ネレブリンは一人一人が優れた精霊魔法使いだ。
〈影〉が丸一日保つよう闇精に命じることができる。
もし宮殿内に本物の大魔法使いがいたら、闇精の残り香を感知したかもしれないが、幸いその心配はなかった。
リーベルの宮廷にいる自称大魔法使いたちは世襲の者たちばかりだ。
先祖は本物だったかもしれないが、子孫自身も研鑽を積まなければせっかくの血の力も発現しない。
会談中、お供の化けの皮が剥がれることはなかった。
その化けの皮を、お供自身の意思で消し去った。
もう化けている場合ではない。
透明だったので閣下には見えないが、今し方、馬車の中に風精シルフが現れた。
風精は風だけでなく、音も司っている精霊だ。
大使館にいる仲間からの報せを届けに来てくれたのだった。
ネレブリンにしか聞こえないその特殊な音声で囁いた内容は……
「閣下……奴らが動き出しました」
ネレブリンたちは、昨日から大使館を取り囲む不穏な気配に気付いていた。
仲間たちによれば、その気配が距離を詰めてきたという。
そろそろ馬車が宮殿から戻ってくる頃だ。
今夜仕掛けてくるつもりらしい。
敵は二人。
厄介なことに、二人とも魔法剣士らしい。
彼らは大使館正門と裏門に分かれ、物陰に潜みながら馬車の帰りを待っている。
そして待ち始めてすぐ、短い〈気〉の集結があった。
付与魔法だ。
各々の魔法剣に何らかの付与を施しているのだ。
そして付与し終えた剣を鞘に納めれば魔法の気配が消える。
ゆえに短いのだ。
この短さこそが、魔法兵ではなく魔法剣士であることの証だった。
「魔法剣士を二人もか……私如きのために随分と豪勢だな」
余裕綽々。
トライシオスはこんな時でもいつも通りだった。
彼の軽口は余裕の証だ。
命を狙われることも読み通り。
それゆえの余裕なのかもしれないが……
ネレブリンは疑問に思う。
読み通りだったとしても本気の殺意だぞ?
本当に何の恐怖も感じていないのか?
「さっきからずっと怖いぞ。殺されるのは嫌だ」
いけしゃあしゃあと答えるトライシオス。
「…………」
閣下は、シグ様の仰る通りの御仁だった。
言葉では「怖い」と仰っているが、腹の中では暗殺者とその主を纏めて嘲笑っているようにしか見えない。
幼少の頃から指南役より剣術の指導を受けてきたらしいが、血みどろの実戦では何の役にも立たない剣だ。
それは閣下ご自身も認めている。
魔法についても、学問の一つとして学んだことがあるだけ。
これも、心得がないとお認めになられている。
戦闘力という点において、閣下は平凡な一人の人間だった。
魔法剣士が目の前に辿り着いたら、為す術なく斬り捨てられるだろう。
なのに、なぜ嗤える?
その度胸はどこから来ているのだ?
ネレブリンにはトライシオスという男の神経がわからなかった。
褐色の表情にありありと困惑が浮かんでいる。
それを見たトライシオスはクスっとした。
怖いに決まっているではないか。
でも怯えはしない。
だって、
「君たちが助けてくれるのだろう?」
シグは正しかった。
今日だけではない。
出会ってから今日までずっと正しかった。
元老院で〈老人たち〉と話していると、つい何が正しいのか見失いそうになる。
そういうとき、友に意見を求める。
彼の正しさによって自らの歪みに気付けるのだ。
友との語り合いを重ね、世の中を正しく認識できるようになったと思っていたのだが……
どうやらその歪みがまだ残っていたらしい。
歪みは侮りとなり、賢者たちの狂気を読み違えた。
正気の沙汰ではない。
まさか交渉中に魔法剣士を差し向けてくるとは!
〈原料〉が届かなくて追い詰められているとは思っていたが、連邦の全権大使を欠いたまま、明日からどうするつもりだったのだ?
ここまで愚かな連中だと思わなかった。
賢者たちを含め、リーベルは連邦と真面目に話し合う気など最初からなかったのだ。
奴らの要望を連邦が大人しく呑めば良し。
呑まなければ魔法剣士、というわけだ。
護衛をつけてくれたシグの判断は正しかった。
いまリーベルの闇に対抗できるのは森の闇だけだ。
だから、
「私は君たちとシグを信じている。何も心配していないよ」
「!」
ネレブリンは主と閣下の友情の深さを感じ、胸が熱くなった。
ここ二日間、会談のお供をしていてわかったことがある。
閣下は賢い御方だ。
そして我が君シグ様は正しい御方だ。
杖計画を潰すにはお二方が必要だ。
どちらも賢者たちに殺させてなるものか!
「はっ、お任せください!」
執政閣下からの厚い信頼に、彼は気合いが入った。
大使館では仲間たちが迎撃態勢を取っている。
彼も静かに精霊を呼び出し、隠し持っていた武器に纏わらせていく。
作業中、トライシオスは静かだった。
魔法の心得がなくても、詠唱や集中を妨げてはいけないことくらいは知っている。
しかし終わった途端、
「何でも申し付けてくれ。こう見えても犬の鳴き真似が得意なのだ。必要になったら遠吠えを披露しよう」
相変わらず、緊張感のない軽口が飛び出す。
普段なら女将から笑って流され、仏頂面のシグに突っ込まれるところだが、生憎と目の前にいるのはネレブリンだ。
冗談は通じない。
「では早速ですが、何かに捕まってください」
「——!?」
なぜ、と尋ねる暇はなかった。
ドォンッ!
天井に何かが落ちてきて、馬車が激しく揺れた。
「わっ!」
御者が驚いて、何が落ちてきたのかと振り返る。
「⁉ 誰だ、おまえら……ぐっ!」
彼は護身用に短銃を持っていたが、ホルスターから抜くより早く倒されてしまった。
一瞬の出来事だった。
車内に伝わってくるのは、馬が蹄で地を蹴る音と車輪の音のみ。
御者は〈誰だ〉と叫んでいた。
つまり天井に落ちてきたものは〈物〉ではなく〈者〉だったということだ。
そして彼は襲撃者の人数についても言い残していってくれた。
おまえ〈ら〉ということは複数人だということだ。
車内からは見えないが、天井から伝わる足音を数えると、襲撃者はおそらく二人。
大使館で張っているのとは別の魔法剣士たちか?
御者はリーベル人だったが、賢者たちなら要人暗殺の目撃者はたとえ同朋でも容赦しないだろう。
襲撃者たちの一人は御者から手綱を取り、もう一人は天井で片膝をついているようだ。
トライシオスは天井に目が釘付けだったが、静かになったことで我に返った。
視線を水平に戻すと、ネレブリンの腰にある小剣が目に止まった。
いま小剣には精霊の力が付与されている。
抜けば恐るべき威力を発揮することだろう。
それでも……
彼には悪いが、少々不安になってきた。
ダークエルフは強い。
弓の妙技、生まれ持つ精霊との高い親和性。
離れた距離での撃ち合いなど絶対にしたくない相手だ。
でも接近戦はどうだろう?
素直に考えて、海軍魔法研究所から差し向けられている刺客なのだから、陸軍ではなく海軍の魔法剣士だろう。
海軍の魔法剣士は敵拠点へ強襲を仕掛ける部隊だ。
艦砲射撃で敵砲台を潰した後とはいえ、敵兵がどれだけ残っているかわからない。
それでも斬り込んでいくのが彼らだ。
魔法が使えて当たり前。
その上で接近戦に強い者でなければ海軍の魔法剣士は務まらない。
古の剣王キュリシウスが良い例だ。
対するネレブリンは……
確かに透明化や変身能力はすごい。
しかし相手がこちらに気付いていないから威力を発揮するのだ。
いまは気付かれているし、攻め込まれている。
こうなっては背後に忍び寄ることもできず、正々堂々戦うしかない。
かかる状況下で、接近戦に強い魔法剣士二人に、一人のネレブリンが敵うだろうか?
「…………」
天井の魔法剣士に動きはない。
まだそこにいる。
この隙に車内から天井に向かって攻撃し、一人だけでも片付けておいてはどうかと思う。
されど、不安がるトライシオスを気にもせず、ネレブリンは動こうとしない。
ただ、天井に視線を送るのみ。
やがて、
「どうどう!」
御者となった魔法剣士の掛け声で馬車の速度が落ちていき、静かに停止した。
場所は、あと少しで港湾区域に入る地点だ。
ドンッ。
ダンッ、ドンッ……
まずは御者役が下り、続いて天井の者も一旦御者台に下りてから地上へ下りた。
これで完全に二対一の戦いが決定した。
トライシオスは無意識の内に扉と反対側の壁に張り付いていた。
身体中の感覚が研ぎ澄まされていく。
特に聴覚が鋭敏になっていた。
靴で砂利を踏む音がやけに大きい。
ジャリッ、ザリッ、ザリッ……
まもなくだ。
まもなく、扉の窓に現れる。
リーベルの闇が魔法剣を携えて。
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