第96話「ネイギアスの毒蛇」

 宴の翌朝——

 シグ一行は森の戦士三名を道案内に加え、ネレブリンの隠れ里を後にした。


 三人は先遣隊だ。

 そのままリアイエッタに留まり、シグの傍で補佐をする。

 後から纏まった数の戦士たちを送るが、準備が整うまでの間の繋ぎだ。

 彼らの道案内のおかげで、誰一人遭難することなく森を抜けることができた。


 問題はこの後だ。

 街が見えてくると、三人は人間に変身し始めた。

 人間とネレブリン族の平等を宣言したシグの前で……


 これは当て付けではない。

 習慣だった。

 人里に近付いたら人間に化けるという習慣が身に染み付いていた。


 習慣になってしまうほどの長い迫害の歴史が確かにあったのだ。

 その歴史を思うと、ただ悲しい。


 人間側の意識だけでなく、ネレブリン側の意識も変えていかなければならない。

 シグは変身をやめさせ、先頭で旗を掲げてもらうことにした。

 城壁から領主の帰還がわかるように、先頭を往く騎士や歩兵が高く掲げている隊旗だ。

 そのままリアイエッタへ入城。


 どよめく者、呆気にとられる者……

 反応は様々だったが、当のシグは意にも介さない。


 普段通りだったのは奥方だけだった。

 竜騎士になりたいという息子についての夫婦喧嘩で、夫は決まってこう言う。


「竜騎士として生き、竜騎士として死ねる人生の方が息子にとって幸福だ」


 命に上下はない。

 ゆえに自分の命の使い道について、誰の承諾も要らない。

 自分で決めることができる。


 これが夫の基本的な考え方だった。

 彼の姿勢はきっと、ネレブリン族にも受け入れられる。

 ならば、帰りは出発時より人数が増えているに違いない、と予測していた。


 結果は……

 さすが夫婦というべきか。

 彼女の予測は見事的中した。

 一〇人位連れて来るかもしれないと思っていたので、人数については外れたが。


 三人は、奥方が用意しておいた城内の部屋へ案内された。

 夫のことだ。


「街では目立つから、宿舎が完成するまで城内で暮らしてもらう」


 ……と言うに違いない。


 そこで留守中、一〇人分の部屋を調えておいたのだ。


 ところが当のシグは失念していた。

 ネレブリン族を味方にすることで頭が一杯で、連れて来てからのことを考えていなかった。


 なので、妻が一人ずつ部屋へ通しているのを見て「あっ……」と小さな声が上がった。

 後で、


「……うっかりしていた。ありがとう、助かったよ」

「いえいえ。お役に立てたなら何よりです」


 妻の見事な手配に対して、伯爵の頭はしばらく上がらなかった。



 ***



 セルーリアス海、連邦公船——


 護衛のネレブリン族から、シグと主従になった経緯を聞いたトライシオスは、主を信じて頑張れと彼らを励ました。


「シグにとっても君たちにとっても茨の道だと思うが、それだけにうまくいった時の成果は大きい」


 連邦に加盟している島々の文化は共通している部分もあるが、違う部分も当然ある。

 だからネイギアスという国は初めから異文化の坩堝だった。

 当然揉めた。

 だが月日が経つにつれ、異なる存在と共存することに抵抗を感じなくなっていった。


 異文化。

 異人種。

 異種族。


 現在のネイギアスでは、自分の隣に〈異〉がいることは当たり前だ。

 いや、もはや隣人が〈異〉であるという認識すらない。

 ゆえに自他の違いが能力発揮の妨げになることはない。


 これは他国にない強みだ。

 得意とする能力が違う者同士が組めば大きな力になる。

 小島の集まりに過ぎない連邦が、リーベルや各国と渡り合えるのはそのおかげだ。


 確かにシグとネレブリン族が歩き始めたのは茨の道だ。

 軋轢を覚悟しなければならない。

 だがその道の先には、リアイエッタと集落の繁栄が待っている。


 必ずだ。

 断言できる。

 ネイギアスが証拠だ。


「はい。ありがとうございます、閣下!」


 ネレブリンたちの返事が明るいので、トライシオスまでつられてしまう。


 やっぱり探検隊関連の話はいい。

 戦の気配が忍び寄る不穏な時代でも、まだ世に希望はあるのだと信じることができる。


 しかし明るいのはここまで。

 談笑を終えたトライシオスは艦首の方を向いた。


「…………」


 艦首前方には海しかない。

 目的地、イスルード島の影が見えるようになるのはまだ先だ。

 けれども彼には見えていた。

 波濤の先に獲物がいる。


 談笑を終えてから艦首の方を向くまで僅かな時間だった。

 その僅かな間に、彼は〈老人たち〉に戻っていた。


 捕食者というものは大きく二つに分かれる。


 一つは、熊やオオカミに代表される獰猛な捕食者。

 筋力や速力に優れ、獲物を強引に仕留める。


 もう一つは、サソリや毒蛇に代表される狡猾な捕食者。

 相手を打ち負かすのではなく毒で弱らせ、抵抗できなくなったのを確認してから肉を得る。


〈老人たち〉は毒蛇だ。

 驚かせないよう努めて静かに忍び寄り、そっと毒牙を突き立てる。


 トライシオスも猛毒を用意してきた。

 リーベルの盟友という立場が手に入り次第、猛毒を注入する。


 毒の効果はすぐには出ない。

 本格的に効いてくるのは、レッシバルたちに痛めつけられた後だ。

 〈海の魔法〉の威光が地に落ち、傷だらけになった王国に毒が良く回るだろう。

 あとは死に至るのを眺めているだけで良い。


 世界の海を支配してきたリーベル王国が「死にたくない!」とのたうち回る様は最高の肴になるだろう。

 うまい酒が飲めそうだ。



 ***



 トライシオスは悪い喜びから現実に戻った。

 将来のうまい酒のためにも、いまは毒牙を突き立てることに集中する。


 いまのところ南航路封鎖は順調だが、無敵艦隊は強大だ。

 その気になれば封鎖の〈網〉を強引に破ることができる。


 だが、破らせない。

 リーベル王国という大きな幼児が愚図り始めたら、あやして静まらせる。

 要するに〈子守り〉だ。


 壮大な子守りのために、連邦の執政がセルーリアス海を渡る——


 何と迷惑な幼児か。

 本心では、あやすどころか引っ叩いてやりたいと思っている。

 だが、それはレッシバルたちの役目だ。

 今日も無敵艦隊の脳天に落とすゲンコツを鍛えていることだろう。


 自分とシグはゲンコツが完成するまでの時間を稼ぐ〈子守り役〉だ。

 余計な真似はせず、役目に集中する。


 さて、どうあやすかだが……

 幼児の機嫌を取るには、おもちゃをあげるのが一番だ。

 だからリーベル・フェイエルムの同盟に参加するという〈おもちゃ〉を用意してきた。

 ずっとおねだりされてきたものだ。

 大喜びするだろう。

 王国重臣たちの有頂天ぶりが目に浮かぶ。


 愚かなことだ。

 おもちゃは良い子がもらえるものだ。

 世間に対して迷惑千万の悪い子がもらえるはずがない。


 にも関わらず与えてくれる奴が現れたとしたら、それは悪い大人だ。


 子供好きの変態。

 売買だけでなく、商品の調達も手掛けている奴隷商人。

 海賊として梲が上がらず、人攫いで細々食い繋いでいる兼業海賊。

 これらはすべて変質者だ。


 リーベルでは変質者に付いて行ってはいけない、と教えないのか?

 常日頃から、連邦を謀略の国とか海賊の親玉と貶しているくせに。


 これから中傷通りのことをしてやる。

 謀略の基本は相手を甘やかすこと。

 必ずうまくいくと相手に信じさせ、夢見心地のまま地獄へ落とす。


 変な悪戯をされようが、国が滅びようが、おもちゃ如きで変質者を信じるリーベルが悪いのだ。



 ***



 イスルード島西岸、ウェンドア港——


 長い船旅の末、連邦公船は王都ウェンドアへ到着した。

 セルーリアス海の途中で待っていた魔法艦にここまで護送されてきたが、ここからは港湾管理の小船の誘導に従う。


 航海中、トライシオスは基本的に甲板で過ごす時間が長かった。

 しかし今日は姿が見えない。


 いつもそこにいる人がいないと不安になる。

 もしや、体調を崩して寝込んでいるのか?

 せっかく目的地へ着いたというのに……


 そのとき、甲板下に通じる扉が開いた。

 トライシオスだ。

 正装に身を包んで甲板に現れた。


 彼は元気だ。

 これからレッシバルたちに先んじて、外交という戦が始まるのに寝込んでいる場合ではない。

 窮屈なロミンガンから出て、久しぶりに船旅を満喫できた。

 気合い十分だ。


 いまも気合いを入れて、身だしなみを整えていたのだ。

 リーベル王国はリーベル派の親玉だ。

 いずれ滅ぼしてやるが、今日はまだ友好国だ。

 まさか友好国の国王陛下や重臣たちと平服で会うわけにはいくまい。

 いつもシグや女将から「世の中をナメている」と叱られているが、それくらいの礼儀は知っている。


 甲板に出てくると、公船はちょうどウェンドアの大障壁に開いた穴を通過するところだった。

「執政閣下のご到着! 開門!」といったところか。


 ウェンドアの大障壁——

 王都を囲む東西南北の城壁に立つ魔法兵たちが、幾重にも展開している多層障壁の通称だ。


 対衝撃、対炎熱、対冷気、対電撃、対……


 思い付く限りの各種障壁が張り合わされ、ウェンドア城を難攻不落としているが、仕組みとしては魔法使いが障壁を展開しているだけだ。

 大障壁という壁が実在しているわけではないので、魔法兵たちが展開するのをやめれば直ちに消える。


 だが、トライシオスが子供の頃に大障壁のことを教わってから今日まで、一時たりとも消えたことはない。


 昔、ある防御魔法の達人が城壁守備隊に残した一つの心得——


 狙撃者はあらゆる隙を狙っている。

 撃たれたくなければ、構えた盾を下げるな。

 重くて持ち上げ続けることができないというなら、交代しながら構え続けよ。

 昼も夜も。


 要するに「常に油断せず王都を守れ!」と言いたかったのだろうと推測するが、鬼教官のしごきというには厳しすぎる。

 リーベルという国は昔からおかしかったようだ。


 以来、守備隊の魔法兵たちは、一時もやむことなく各種障壁を展開し続けることが伝統となっている。

 気の毒に……


 外から入ってくる船はまず大障壁を通過しなければならないが、それで終わりではない。

 大障壁のすぐ内側には大水門がある。

 横並びの大型商船四隻が余裕を持って通れる巨大な水門だ。


 東西南北の城壁及び大水門上部に魔法兵がずらりと並び、大障壁の維持に努めている。

 また彼らの隣には砲兵隊も配備されており、魔法兵、砲兵隊、魔法兵、砲兵隊……と交互に並んでウェンドア港を守っている。


 言うまでもないと思うが、ここはリーベル王国だ。

 砲兵隊の砲は魔力砲だ。

 威力、射程距離、命中率、すべて世界最強を誇る。

 妙な真似をすれば北一五戦隊と同じ目に遭わされることになるだろう。


 公船は無事に大障壁と大水門を通過。


 トライシオスに魔法の心得はないが、近くで見ればそこに透明な何かがあることはわかる。

 水が透き通っているからといって、透明すぎて見えないという者はいないだろう?

 それと同じだ。


 彼がリーベル王国を訪れたのは今日が初めて。

 大障壁を見たのも今日が初めて。

 直に見た感想は、


「話に聞いていたより薄いな」


 一人が展開する障壁は薄いが、大勢が重ね合わせているので、大人の身長より分厚いと聞いていたのだが、実際に見ると……


 おそらく、怠慢があるのだろう。

 城壁上に立っている魔法兵は多いが、休んでいる者も多いようだ。


「まあ、仕方がないことなのかもしれんな」


 トライシオスは呆れた溜め息を吐きつつ、魔法兵たちの心情に一定の理解を示した。


 大水門の外側では沿岸警備隊の魔法艦が探知円を展開しながら哨戒に当たっており、更に外側は無敵艦隊の縄張りだ。

 水上、水中問わず、近付くものは一切見逃さない。

〈ある防御魔法の達人〉の心得が薄れていくのも無理からぬことかもしれなかった。


 随分とリーベルに好意的な解釈だと思うが、〈老人たち〉が敵に対して優しいときは要注意だ。

 弱点や付け込む隙を見つけたということなのだから。


 彼も〈老人たち〉だ。

 城壁守備隊の徒労に同情しているのではない。

 このくらいの薄さなら小竜隊の連撃で突破できるかもしれない、とほくそ笑んでいるのだ。

 もっとも、沿岸警備隊及び、城壁から伸びる探知円に接触しないという前提ではあるが。


 でも可能性は低くないだろう。

 太陽に隠れながら忍び寄り、高空から一気に襲い掛かるレッシバルたちの〈漁〉なら!


 ふんぞり返っているリーベル人共が慌てふためく様を思うと、自然に笑みが零れてくる。

 内心で何を考えていようと、笑顔は笑顔だ。

 今回は同盟締結の全権大使なのだし、仏頂面より満面の笑みの方が良いだろう。


 公船は指定された船席にて投錨。

 これより下船する。

 しかしトライシオスはすぐには下船せず、甲板上から歓迎に集まったウェンドア市民へ手を振る。


 その様子があまりにも優美なので、観衆はもちろん、リーベル外務省の役人たちも気付かなかった。

 満面の笑みの裏側で、ネイギアスの毒蛇が大きく顎を開いていることに。


 毒牙から滴る雫の光が、どこまでも冷たい……

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