第80話「小火竜」
捕獲隊が森へ入ってから三日目——
地上班は薄暗い森の中を進んでいた。
潮風が北へ向かって削った道はすでに途絶え、乱立する巨木が一行を囲む。
馬車は岩場に残してきた。
地を這う根が邪魔で、これ以上は進めそうにない。
補給隊は馬車から外した馬に物資を多く積み、残りは各馬が分担して運ぶことになった。
本当に深い森だ。
樵も外縁で木を伐るのみで奥へは入らないため、進むほどに巨木が増えていく。
巨木は枝葉も多く、根元には殆ど日が差さない。
おかげで地上は下草もあまり生えておらず、馬でも通ることができた。
先頭を行くエシトスが手を上げた。
合図を見た地上班は、一斉にその場で停止した。
「…………」
熊や狼を見つけたのか?
いや、この森に小動物はいるが、それらを捕食する大きな獣はいない。
昔はいたが、いまはいなくなった。
昨日、完全に白骨化した熊の頭骨とすれ違った。
大きさから推測して大人の雄熊だと思う。
死因は餓死や転落死ではないようだ。
頭骨の左半分に齧り取られたような形跡が残っている。
ここで襲われて絶命したらしい。
欠損した頭蓋を見ながら、一行は緊張を高めた。
いよいよ小火竜の縄張りに入ったのだ、と。
それから一夜明け、熊どころか小動物の気配すらしなくなっていた。
だから止まったのは、熊や狼を見つけたからではない。
上から聞こえるフラダーカたちの音が遠いことに気付いたからだ。
岩場から北へ、といっても真北に進むわけではない。
正確には北北東だ。
空中班が方角を間違えることはない。
にも関わらず、彼らの音が遠くなったということは、地上班の進路がズレたのだ。
空中から見てもらい、進路を修正しなければならない。
エシトスは伝声筒でレッシバルへ呼びかけた。
「おまえらの音が遠くなった。進路を修正したい」
「了解。少し待て」
連絡を受けたレッシバルは空中班に指示を出し、高度を上げた。
これから地上班が発煙弾を真上に向かって撃つ。
空中班は煙を基に修正指示を送る。
音が遠いと言っているのだから、竜の腹を撃たれる心配はないと思うが、用心に越したことはない。
高度を上げて距離をとっておけば、万が一の場合でも回避できる。
「空中班用意良し! エシトス、いつでもいいぞ!」
空中班が配置に着いている間に、エシトスは騎銃に発煙弾の装填を済ませておいた。
真上に向け——
パァァァンッ!
銃口から飛び出した発煙弾は短く発火した後、煙の尾を引きながら枝と枝の間をすり抜けていった。
時間にしてほんの一秒ほど。
煙の一本筋は空へ抜け出した。
「見えた!」
煙は、空中班の現在地から西へ少し離れた森から飛び出してきた。
エシトスの危惧は的中していた。
地上班は、いつの間にか北北西へズレ始めていた。
空から進路の修正指示を出し、地上からは了解と指示された方位の復唱を返す。
互いに要点のみを伝え、余計なことは言わない。
ここまで遭遇しなかっただけで、まだ森に肉食獣が潜んでいて、地上班の隙を窺っているかもしれない。
話し込んでいると、警戒が緩んで隙を生みかねなかった。
空も気を抜けない状況だった。
もう、いつ小火竜が現れても不思議ではない。
だが地上と違い、巨木の影から敵が飛び出してくるということはない。
全周警戒が疎かにならない範囲で、考え事や独り言を呟く余裕はあった。
通信を終えたレッシバルは一人唸った。
——あいつ、本当にすごい奴だったんだな。
幼馴染だから深くわかることもあるが、幼馴染だから見過ごしてしまうこともある。
巨木と枝葉に周囲も空も遮られている状況下で「あれ? 進路がズレているんじゃないか?」とよくぞ気が付いた。
まるで身体の中に羅針盤が入っているかのようだ。
トライシオスはエシトスの評判からその能力を見抜き、自分たちはずっと一緒だったのに今日まで気付かなかった。
……幼馴染として恥ずかしい。
空中からは一面緑の海で地上班の影すら見えないが、いま頃は進路修正を終え、下を走っていることだろう。
自省の念というほど大袈裟なものではないが、心の中でそっと友に対する評価を上方修正した。
そのときだった。
「ガォッ!」
「ゴッ!」
フラダーカを含めた小雷竜たちが、一斉に短く咆え始めた。
仲間に警戒を呼び掛けるように。
何かを威嚇するように。
***
森林地帯の空で騎竜たちが警戒を呼び掛け合う。
下方の森を見ていたレッシバルも声に気付いて正面を向く。
前方の森から何かが上がってきた。
発煙弾を見られたようだ。
一つ、二つ、三つ……まだまだ上がってくる。
ついに現れた。
小火竜だ。
「戦闘用意!」
号令をかけ終えると、全騎からすぐに「戦闘用意よし!」と返ってきた。
馬車を切り離してから、今日で三日目。
皆、そろそろ遭遇する頃だと身構えていた。
さすがは現役の竜騎士たちだ。
兵は神速を貴ぶ。
戦闘用意が迅速に整ったことは大変喜ばしい。
あとは、
「地上班!」
「こちら地上班、枝の隙間を見つけた! 太陽が見える!」
エシトスたちも配置に着いたようだ。
空、地上共に用意良し。
これより小火竜捕獲作戦を開始する。
レッシバルは伝声筒に向かって叫んだ。
「地上班、撃ち方始めぇっ!」
「撃てぇぇぇっ!」
エシトスの応答兼号令で、地上の騎銃が太陽へ向かって一斉に火を吹いた。
パパパッ!
パパパパァン!
今度は発煙弾ではなく通常の弾丸だったので、弾道は見えない。
それでもおそらくは狙い通り、太陽へ向かって飛んでいったと思う。
…………
……わかっている。
太陽は天空の彼方で輝いているものだ。
地上から撃っても届かないし、仮に届いたとしても小さな弾丸では撃ち落とせない。
それに、撃つ相手が違う。
相手は小火竜だ。
太陽ではない。
小火竜を捕獲するために太陽を撃つ。
頓珍漢なことを……
ふざけているのか?
いや、そうではない。
ギィンッ!
ガキン!
発砲から一秒後、太陽に向かって上昇していた弾丸のいくつかが、その途中で何か硬い物体に激突した。
空中に硬い物体?
一体何だったのか確かめようと、太陽を直視する必要はない。
目に光が焼き尽くし、そんなことをしなくてもすぐにわかる。
「ギャアァァァンンッ!」
突如、高空から降り注ぐ竜の悲鳴。
反射的に音の方を見上げるが、やはり眩しくて直視できない。
しかし眩しさから目を逸らす寸前、目の端で日輪から飛び出すいくつかの影を捉えた。
小火竜だ。
正面で森から上がってきた群れとは別の一群が、日差しの中に隠れていた。
弾丸は、その内の一頭の下顎に命中していた。
上向きの弾丸に下顎を貫く威力はなかったが、驚いて口から火炎を撒き散らしながら日差しから出てしまった。
そっと降ってきて、レッシバルたちに上から竜炎を浴びせるつもりだったのだ。
雷竜も火竜も、小竜の考えることは一緒だ。
正面の群れが注意を引き付け、太陽に隠れていた見張りたちが上から炎を浴びせる。
岩場では、シグ竜が後ろへ注意を引き付けつつ、仲間の待ち伏せ場所へレッシバルたちを追い込んだ。
どちらも陽動と要撃だ。
小火竜自体、大型種に山から追い払われて森林へ移ってきたのだ。
だから常に恐れていた。
大型種が縄張りを拡大しに山岳地帯から下りてくるのでは、と。
……山岳地帯では、陸軍が大型種を手懐けているのでその心配はないのだが、人間の事情を知らない小火竜にとっては現在も続く脅威だ。
ゆえに、レッシバルを含めた竜騎士たちは、必ず見張りが上がっていると読んでいた。
捕獲隊は、縄張りに入った時点で上を押さえられている状況だ。
本来は見張りの小火竜が有利な位置にいることになる。
だが、その有利を活かしたいなら〈いる〉と悟られてはならない。
悟られたとき、有利が不利に変わる。
見張りは囮役か?
あるいは奇襲を仕掛ける係か?
作戦を立てている時点ではどちらなのか不明だが、そこにいるのは確かなのだ。
地上から撃ってもらえば良い。
作戦は図に当たった。
日差しに隠れていたのは一頭だけではなかった。
先に飛び出した仲間を追い、二頭が日差しから外れていった。
バレているのだから、隠れていても仕方がない。
捕獲隊は小火竜たちの機先を制することに成功した。
***
森林上空——
伏兵を潰された小火竜たちは、空だけでなく地上にも侵入者がいると気付いた。
さて、どうしようか?
空と地上へ群れを二分するか?
それともどちらか一方を全力で叩くか?
小火竜たちは、空中班を全力で叩く道を選んだ。
空の侵入者はたったの五頭。
地上にも何かいるようだが、まずは五頭を始末して空を綺麗にしよう。
制空権を掌握した後、上から叩けば地上の侵入者も一方的に片付けることができる。
……ということらしい。
見張り三頭は太陽から外れたが、まだレッシバルたちの上空で旋回待機中だ。
小火竜本隊と侵入者五頭が激突し、自分たちから注意が逸れるのを待っている。
あくまでも、上からの竜炎放射という本来の役目を果たすつもりなのだ。
竜騎士たちは見張り三頭に対して「馬鹿め!」とほくそ笑んだ。
奇襲に失敗したのだから、さっさと本隊に合流すれば良いものを。
いつまでも未練たらしく〈そんな所〉に残っているから……
レッシバルの指示が早い。
「全騎上昇!」
小竜は捕食者だ。
他の動物を狩って暮らしている。
彼らを攻撃しようという動物は、せいぜい大型種くらいだ。
それも、追い払うのが目的であり、必ずしも殺害して肉を得ようとしているわけではない。
だからわからなかったのだ。
狩られる側になったとき、絶対にしてはならないことがある。
孤立だ。
群れから孤立してはならない。
捕食者は孤立した個体を狙う。
彼らも普段、獲物の群れに揺さぶりをかけ、辛抱できずに飛び出してしまった個体を狙っていたはずだ。
強者と弱者の一騎討ちではなく、多対一や多対少の状況を作出した方が獲物を確実に仕留められる。
別に卑怯ではない。
自然はどこまでも自由で平等な場所だ。
強者が力に物を言わせて弱者を狩ることも許される。
同時に、一切の言い訳を許さない厳しい場所でもある。
獲物に逃げられたのは、おまえの追い足が遅いから。
せっかく仕留めた獲物を他の肉食生物に横取りされたのは、おまえが弱いから。
何をしても良いということは、自分も何をされるかわからないということだ。
自然で暮らすものにできることは、用心することだけ。
用心を怠ったものには、容赦なく自然の厳しさが降りかかるだろう。
かつて小火竜は、小雷竜を森から駆逐した。
負けたシグ竜たちが悪いのだ。
自然は、小火竜を咎めはしない。
だから今日、レッシバルたちのことも咎めない。
別に卑怯ではない。
早く本隊に合流しなかった見張りたちが悪いのだ。
見よ。
火竜三頭対雷竜五頭になった。
多対少だ。
まずは三頭を地に落とす。
再びレッシバルから全騎へ、
「進路このまま! 五番、閃光弾用意!」
続けて、
「地上班、三頭捕獲用意!」
どちらからもすぐに「用意良し!」が返ってきた。
空中班は仰角四五度で、火竜たちとの距離を詰めていく。
三頭も接近に気付いており、迎撃の用意を整えていた。
牙の間から炎が見える。
そんなものこっちに吐くな。
さっきのように空へばら撒け。
「全騎、急降下用意!」
レッシバルの右手が上がった。
この手が振り下ろされるのを合図に、閃光弾投擲と急降下が実行される。
前方の三頭との距離がみるみる縮んでいく。
だが、右手はまだ振り下ろされない。
もっとギリギリまで接近しなければ……
もう少し。
あと少し。
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