第75話「旗」

 ピスカータ村へ戻ったレッシバルは、しばらくの間、皆と一緒に急降下漁の日々を送った。

 これは己に対する訓練でもあった。


 アレータ海では危うく気絶しかけた。

 いまは急降下から緩上昇なら耐えられるようになったが、急上昇でなければダメだ。


 艦も人も目線は基本的に水平だ。

 いつまでもその水平な視界内に留まっていると、無防備な背中を撃たれかねない。

 アレータ海で戦ったリーベル派はならず者の集まりだったから助かったが、本職の軍人はあの隙を見逃がさない。


 攻撃が終わったらすぐに敵の視界から消えなければ。

 そのためには急上昇が必須だった。


 これはエシトスたちも同じだ。

 まずは普通に乗りこなせるようになり、その後はレッシバルに続く。

 最終的には、全騎が一矢乱れぬ動きを取れなければならない。


 とはいえ、心配は無用だった。

 皆、上達が早い。

 皆というのは竜騎士だけでなく、小雷竜もだ。

 彼らには魚を捕るという目標がある。


 早く魚を捕れるようになりたい。

 そのためにはボスと同じことができなければ。


 ラーダやフラダーカと共に溜雷の練習に励み、漁ではいままでやったことがない急角度での降下も積極果敢に挑戦する。


 また、バラバラに降下していては魚に見つかってしまう。

 編隊を組み、騎手の指示に従って降下するという形が自然と身に付いて行った。


 狩猟が訓練に役立つというのは本当だった。

 あとは反復し、精度を高めていくだけだ。

 訓練に前向きな竜たちのおかげで、次第にエシトス組が漁の指揮を執れるようになっていった。


 安心したレッシバルは、再び馬で帝都へ向かうことを決めた。

 彼の仕事はまだ終わっていない。

 エシトス組が訓練の指揮を執っている間に、火竜小隊の竜騎士を勧誘する。

 痣が、やっと消えたばかりなのだが……



 ***



 帝都に着いたレッシバルは……

 相変わらず不器用な勧誘を続けていた。


 自分にシグの賢さとトライシオスの話術があったらと思うが、ないものは仕方がない。

 どんなに痛くても「一緒に来てくれ!」と愚直に頼み込むしかなかった。


 そんなある日、シグから夕食に招かれた。

 探検隊同士、せっかく帝都にいるのだから一緒にメシを食おうというのが半分。

 残り半分は、互いの進捗状況についての報告会だ。


 扉をノックすると、シグの奥さんが出迎えてくれた。

 小雷竜の竜騎士集めのときもそうだったが、今回も勧誘方法は同じなので、レッシバルの顔面は赤・青・黒と色鮮やかだ。

 彼女が一瞬ギョッとしてしまうのも無理はなかった。


 中に通されると、待っていたのはシグだけではなかった。

 ザルハンスがすでに着席して食前酒を楽しんでいた。


「ザルハンス、半舷上陸か?」

「よう、レッシ……おいおい、何で生傷が増えてるんだよ?」


 それは、元同僚に殴られているからだ。

 しかし生傷の理由を正直に答えるわけにはいかない。

 すぐ傍に事情を知らない奥さんと子供たちがいる。

 返答に困っていると、シグが助けてくれた。


「最近、物騒になってきたからな。年金を支給されている退役軍人は妬まれやすいから気をつけろよ」

「あ、ああ。そうなんだよ。夜道でいきなりだったから驚いてしまって……」


 さすがはシグだ。

 彼女もザルハンスと同じ疑問を抱いていたようだが、納得してもらえたようだった。


 何とか事なきを得、皆で夕食を囲んだ。

 おいしい料理だった。

 宿屋号で振る舞われた料理もおいしかったが、こちらは家庭的なおいしさがある。


 心許せる人たちとの落ち着いた食事が続いた。


 ふと、レッシバルは自分に注がれる視線に気付いた。

 シグの小さな息子からだった。


 ——?


 睨まれているのではない。

 睨むどころか、目が輝いている。

 まるで憧れの人物に出会えたような。


 母親は我が子の視線に気付いた。


「ごめんなさい、レッシバルさん。この子——」


 彼女によると、息子は将来、竜騎士になりたいらしい。

 それでレッシバルおじちゃんを見る目が輝いているのだった。


 先日、帝都で観兵式があった。

 封鎖によって景気だけでなく、兵士や民衆の気持ちも落ち込んでいた。

 これを発揚させようと計画された儀式だった。

 帝都防衛の陸軍全兵科が大通りを行進し、竜騎士団も帝都の空を飛んだ。

 幼い息子はこれを見たのだ。


「そうか、竜騎士になりたいのか。俺はシグの後を継ぐのかと思っていたんだが」


 憧れていると言われて悪い気はしない。

 嬉しくてつい顔が綻ぶ。

 レッシバルにしてみれば照れ隠しの言葉だった。

 しかし、その言葉に彼女が食いついた。


「ほら、聞いたでしょ? レッシバルさんもお父様のようになった方が良いと——」

「やにゃっ!」


 正しくは「やだ!」と言っているのだが、舌足らずでまだはっきりと発音できなかった。


 彼女は我が子が竜騎士になることに反対だった。

 彼女の身内は官僚や商人が多く、軍人は僅かだ。

 それも正騎士なので、敵と刃を交えることはない。


 でも軍人である以上、正騎士だから絶対安全ということはない。

 後方で指揮を執っていたら、敵の奇襲を受けて本陣が全滅したという話が昔からある。


 それでも、必ず戦闘になる準騎士や竜騎士よりは正騎士の方がマシだ。

 彼女が譲歩できるのはそこまで。

 でも本当は正騎士も含めて軍人は諦めて欲しい。

 我が子には是非、父や夫に続いて欲しい。


 レッシバルさんには悪いが、竜騎士は断固反対だ。

 流れてくる竜騎士団の噂を聞けば聞くほど、不安が募る。

 訓練中に落ちて亡くなったとか、世話をしていた竜に噛まれたとか……


 レッシバルさんだって、瀕死の重傷で帝都へ帰ってきたではないか。

 夫と一緒に病室へ見舞いに行ったときの光景が、いまでも消えない。

 包帯で全身グルグル巻きになっていて、名札を見なければレッシバルさんだとはわからなかった……

 竜も空も危険だ。


 今日だって怪我だらけではないか。

 竜騎士は退役後も何かと戦わなければならないのか?


 男の子だから、かっこいいものに憧れるのはわかるが、竜騎士だけはダメだ。

 あの人たちはおかしい!


 ……あの人たちというか、おかしいのはレッシバルだけなのだが……


 しかし〈短剣同盟〉を知らない彼女にわかるはずもなく、穏やかだった晩餐は騒がしくなってしまった。


 無謀な夢を諦めさせようとムキになる彼女に、息子は「やにゃっ!」と応戦する。

 どうやら、シグ家で竜騎士の話が出るとこうなってしまうらしい。


 怒りで我を失っているのか、レッシバルに対しても、竜騎士団に対しても失礼な発言が彼女の口から飛び出している。

 でもレッシバルは怒らなかった。

 つい最近、岩場で〈母〉というものを思い知らされたばかりだ。

 彼女の必死な様子に、自分の母親が重なって見えた。


 もし、母が生きていたら……

 竜騎士になりたいと告げた途端、「この親不孝者!」と怒鳴られたことだろう。


 頬を膨らませて反発する幼子の気持ちもわかるが、いまは奥さんの気持ちも想像できる。

 レッシバルは何も言えず、唐突に始まってしまった親子喧嘩を静かに見守るしかなかった。


 夫のシグも静かだ。

 慣れているのか、呆れているのか、妻子を一瞥もしない。

 視線は自分の皿に落としたまま、淡々と食物を口へ運ぶ。

 よく咀嚼して飲み込んだ後、誰にも聞き取れない小声でポツリと呟いた。


「なりたいものになればいいじゃないか。どんなに下らない仕事でも、神の材料になるよりは遥かにマシだよ」



 ***



 夕食後、部屋には探検隊の三人だけが残された。

 子供部屋から奥さんと子供たちの楽しそうな声が聞こえる。

 夫たちの邪魔にならないようにという配慮もあるが、これ以上レッシバルさんと息子を接触させると悪影響だということも含まれているのだろう。


「すまん、レッシバル。彼女もおまえそのものを嫌っているわけではなく——」


 シグは彼女に代わって非礼を詫びた。


「大丈夫だ。俺は気にしていないよ。実際、危ない仕事だからな」

「…………」


 退役したのだから、そこは「危ない仕事〈だった〉からな」と過去形にするべきだろうに。

「危ない仕事だからな」では、まるで現役の竜騎士のようではないか。


 しかし二人共突っ込まない。

 陸軍から退役しただけで、レッシバルはいまも現役の竜騎士なのだから。


 腹は満たされ、部外者は退場してくれた。

 これから報告会を始める。

 シグは二人にグラスを渡し、酒を注いでいく。


「ところで、岩場の〈ガネット〉はどうだった?」


 シグはレッシバルに注ぎながら尋ねた。


「ああ、無事に保護したよ」


 あんな潮風が吹き付ける場所では〈雛〉の発育が悪い。

 餌で手懐け、雛も〈親鳥〉もすべて村へ連れ帰った。

 いまは皆で〈魚捕り〉の練習中だ。


「そうか……順調そうで何よりだ」


 シグは頷きながら自分のグラスにも酒を注ぐ。


 皆、無事で良かった。

 野生の〈海鳥〉は警戒心が強いと聞く。

 ザルハンスと一緒に帝都で無事を祈っていたのだ。


 しかし何の心配もいらなかった。

 さすがはレッシバルだ。

〈ガネット〉を手懐けるのが上手い。


 次はザルハンスの番だ。

〈巣箱〉作りの報告を聞く。

 彼は飲み干したグラスに二杯目を注ぎながら、


「昨日、〈一個目〉が完成したので、今朝、村へ送ったところだ」


 こちらも順調だった。

 残りの〈巣箱〉作りも、着々と進んでいる。


「〈四個目〉が完成したら俺も村へ行くよ。かわいい〈雛鳥〉を見たいしな」


 無論だ。

 いまは〈ガネット〉たちだけで済む練習だが、自在に〈漁〉ができるようになったら、いよいよ海上で〈巣箱〉から飛び立ち、編隊で大物を仕留める練習を始める。

〈巣箱〉艦隊を率いるザルハンスにも是非、合流してもらいたい。


 だがその前に済ませなければならないことがある。


 ザルハンスは第二艦隊所属だ。

 無断で艦隊を離れることは許されない。

 村で訓練に参加するためには許可が必要だ。


 とはいえ、許可を得るのは難しくない。

 いや、許可を出させるのは難しくないというのが正しいか。

 いざとなれば、海軍から提督へ命令が下るように仕向けることができる。

 ザルハンスをピスカータへ派遣せよ、と。


 でも……

 なるべくそういう事態は避けたい。


 第二艦隊現提督は、海賊にしてやられてばかりのぼんくら提督とは違う。

 彼はやる気のない凡将ではない。

 凡将ではないから、ザルハンスを重用しているのだ。

 補給艦の艦長にしたのも左遷に見せかけて、お気に入りの部下を下らない競争の外へ逃がしたのかもしれない。


 凡将の振りをしている曲者提督。

 彼の前でこれ以上、疑わしい真似をしたくなかった。

 すでに疑わしいことをしてしまっているのだから。

 第二艦隊所属の補給艦を〈巣箱〉に改造している。


 補給艦の改造については、会談後に第二艦隊へ下った正式な命令によるものだ。

 無断で改造しているわけではないし、何の問題もない。


 ……確かに問題はない。

 でも、疑問は残る。


 なぜ補給艦の甲板から何もかも撤去する?

 中央のマストを撤去すれば、速力低下は避けられない。

 欄干を取り外してしまったら、甲板で作業している水兵が危険だ。


 海軍は、補給艦の甲板をこんなに平べったくして、一体、何がしたいのか?


 あの曲者提督は、疑問を疑問のままにはしておかない。

 必ず命令の裏に何があるのかを調べるだろう。

 いつか〈集い〉の尻尾を掴まれてしまう。


〈短剣作戦〉が露見し、内通者として逮捕されてしまう?

 いや、そのことは心配していない。


〈トライシオスたち〉の魔の手は帝国の隅々まで行き渡っている。

 提督も見張られているはずだ。

 だから彼が〈集い〉のことを知ることはできない。

 その前に……始末されてしまう。


 シグが心配しているのは自分たちのことではなく、提督の安全についてだった。

〈集い〉のことを明かすわけにはいかないが、彼のような提督は帝国に必要な人物だ。

 何かある度に帝国の能臣を、ネイギアスに暗殺されては困る。

 海軍内が空洞化してしまうではないか。

 そうでなくても日頃、各国から〈海軍ごっこ〉と嗤われているのに。


 なるべく自分たちの窮地を〈老人たち〉に助けてもらう事態は避けたい。

 それゆえ、シグはザルハンスに確認した。


「提督から〈うまく〉許可を取れそうか?」


〈うまく〉とは、〈老人たち〉の力を借りずに、ザルハンスの機転だけで許可を取れそうかという意味だ。

 正直、あまり期待せずに尋ねた。

 嘘というものは、難しいものだから。


 下手ならバレる。

 上手だと胡散臭い。

 誰も、トライシオスの言葉を真に受けないだろう?


 嘘というものは、下手でも上手でもダメなのだ。

 どちらでもない中間が最も良い。

 だが、その幅は恐ろしく狭い。

 少しでも嘘の加減を間違えればすぐにバレるか、相手に違和感を覚えさせる。


 ザルハンスは下手だ。

 その微妙な加減を彼に望むのは無理だった。

 よって、その場合はシグとトライシオスが裏から手を回すしかない。


 いま、どんな話になっているのか?

 あるいは話を切り出せずにいるのか?


 それによって打つべき手が変わってくる。

〈巣箱〉の進捗状況だけでなく、ザルハンスの進捗状況も知らなければならなかった。


 ザルハンスの答えは……


 コトッ。


 お代わりの酒を飲み干し、空になったグラスをテーブルに置いた。


「ゲフゥ……」


 彼にしてみれば大きな溜め息を吐いただけだったかもしれないが、その息がもう酒臭い。

 正面に座っていたシグは顔を顰めた。


「お、おい……!」

「すまん、すまん……ハハハハハ——」


 詫びながら、ザルハンスは服の中に右手を差し込み、懐をゴソゴソと探り始めた。

 探りながら——


「シグ」

「何だ?」


 質問に答えない。

 そして返答代わりに酒臭い息を吐きかけながら、何か探し物を始めている。

 一体、何なのか?


 シグは怪訝そうだが、ザルハンスは友の機嫌などお構いなしに陽気だ。

 陽気になるしかない。

 だって——


「老人……いや、あの嫌味野郎のことじゃないぞ? 年長者という意味だぞ」

「……年長者がどうかしたのか?」


 話が見えず、シグの語気に若干の苛立ちが混じる。


「シグ、年長者っていう奴はおっかねぇな……お、あった!」


 探し物は四角い布だった。

 懐から引き抜き、テーブルに広げる。


 ——何だ? この布。


 自然と、シグとレッシバルの視線が布に集まる。


「——?」

「これは……」


 布は、一枚の旗だった。

 生地は、雲一つない晴天のように澄み切った空色。

 中央には銀糸で刺繍された竜が羽ばたき、その足元に黒糸で刺繍された杖が横たわっている意匠。


 ザルハンスは自分のグラスに三杯目を注ぎながら、


「その旗、ウチの提督からだ」


 二人は揃って旗から声の主に視線を向けるが、すぐには意味がわからず、呆けてしまった。


「は?」

「いや、だから、提督が頑張れって」


 …………


「……えぇっ!?」

「はぁっ!?」


 一拍の後、我に返った二人は一斉にザルハンスに食ってかかった。


「部外者に喋ったのかっ!?」

「何考えてんだっ!」


 ゴトンッ!


 いきなり凄い剣幕で怒られ、驚いたザルハンスはグラスを落としてしまった。


「ち、違……落ち着けっ! 話を聞けっ!」


 真相を知れば、彼が秘密を洩らしたわけではないのだと理解できる。

 しかし、それは無理というものだ。


 シグは〈集い〉の帝国側代表として日々、神経を使いながら暮らしている。

 レッシバルも大変だ。

 小竜という単語を避けているせいで「一緒にガネットを捕獲しよう!」という言い方をせざるを得ず、割増しで痛い目に遭っている。


 二人に落ち着いて言い訳を聞けというのは無理だろう。

 揉め事はしばらく続きそうだ。


「…………」


 気のせいか?

 テーブルの上に放置された旗の竜が、どことなく呆れ顔に見える。

 物言えぬ旗の身では三人の仲裁に入ることも叶わず、馬鹿々々しい喧嘩が終わるのをただひたすらに待つしかなかった。



 ***



 テーブルに広げられたまま、ほったらかされている一枚の旗。

 旗に、名はまだなかった。

 しかし、後にこう呼ばれることになる。

〈翔竜旗(しょうりゅうき)〉と。


 帝国海軍竜騎士団団旗、翔竜旗——

 生地の空色は大空を表し、銀色の小竜が天翔る。

 その足元に横たわる黒い杖は、世界に仇なす邪悪を表している。


 黒い杖に表象される、世界に仇なす邪悪……

 事情を知らない者は黒い杖に〈海の魔法使い〉を連想する。

 無敵艦隊を思い浮かべる。


 確かに、世界中で威張り散らしていた無敵艦隊は、世界に仇なしていた。

 黒い杖は無敵艦隊を表している、という解釈は間違いではない。


 だが、事情を知る者は深く掘り下げ、別の解釈が思い浮かぶ。

 杖……

 模神を作り、人を超越しようと企む研究所の魔法使い共のことだ。


 天翔る小竜によって、邪悪な黒杖が倒されるという意匠。

 これは事情を知る者でなければ描けない。

 提督は、〈事情〉を知っている。

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