第59話「恋」

 レッシバルたちはフォルバレント号甲板へ着船した。

 なるべく羽ばたかず、翼を立てて空気抵抗をうまく利用しながら減速し、フワッと降り立った。

 それでも全く風を起こさないというのは無理で、包帯をいくつか吹き飛ばしてしまったが……


 フラダーカから下りるとラーダが待っていた。


「おかえり、レッシバル。フラダーカも」

「ああ、ただいま。それで——」


 問答無用で帰ってこいというのは只事ではない。

 あれ以上、空中で話を続けても埒が明かないので帰ってきたが、一体何があったのか?


 当然の質問だ。

 だが、お手柄二名の帰還を喜んでいたラーダの表情が急に曇ってしまった。


「うん……」


 辛うじて一言返すも、その続きが言葉となって出てこない。

 代わりに彼の沈痛な表情が物語っていた。

 悲しい事だ、と。


「……こっちだ。急いだ方がいい」


 これが精一杯だ。

 空から呼び戻した理由を言葉で説明することはできない。

 難しい内容ではないのだが、スラスラと説明できるほどラーダは強くなかった。


 彼が船室に向かって歩き始めてしまったので、レッシバルも付いて行かなければならないのだが……

 背中越しでも涙を堪えているのがわかり、急に怖気づいてきた。


 そしていま気が付いたのだが、出迎えに来てくれたのはラーダだけだ。

 トトルは?


 用心棒付きの海賊を討伐した英雄。

 少々大袈裟でも構わないなら、今日のレッシバルはそういう立場だ。

 船を救ってくれた英雄の帰還を出迎えない船長がいるだろうか?

 しかも呼び戻した本人なのに。

 そう考えるとラーダだけでなく、トトルの様子もおかしかった。


 ——何を見せられるのだろう?


 得体が知れない。

 正直怖い。

 でも遠ざかっていくラーダの背が、怖いもの見たさを刺激してくる。


〈きょうふ〉と〈きょうみ〉。

 一字違いの相反する気持ちが彼の中でグルグル回る。

 音は似ていてもこの二つは似ても似つかない。

 恐怖と興味をいくら掻き回しても混ざり合うはずがなかった。

 結局、恐怖は底に沈殿し、興味が油のように浮上した。


 迷っている間にラーダが船室へ下りる階段に辿り着いてしまった。

 振り返ってレッシバルが追い付くのを待っている。


「ああ、すまん。いま行く」


 方針が決まったレッシバルは小走りに合流し、二人で甲板下へ消えていった。



 ***



 小竜が海の魔法に勝利した。

 そのことはとても喜ばしいのだが、神にとって困ったことになってしまった。


 さっきの戦いは偶発的なものだ。

 ピスカータの恨みを晴らそうと待ち伏せていたわけではない。

 生存を脅かす敵を倒すのが目的だった。

 だからレッシバルにはもう戦う理由がない。


 帝都で陸軍から追放された日、仇討ちも砦の司令になる夢も全て終ったのだ。

 少なくとも彼の中では。


 終わったと言っても水に流したわけではない。

 今後もずっとネイギアス海賊を嫌い続けるだろう。


 そう……

 いま彼の心の中にあるのは憎しみの炎ではなく、嫌悪感や不快感といった残火のようなものだった。


 街のならず者ではあるまいし、真面な人間は不快感だけで相手に戦いを挑みはしない。

 今日のような状況に陥らない限り、彼が自発的にネイギアス海賊を討伐しに行くことはないだろう。

 父母の墓に誓った通り、これからは空の配達屋として生きていくのだ。


 困った。

 非常にまずいことになった。

 むしろこれからが本番なのに……

 このままでは残火が完全に消えてしまう。


 そこで神は奥の手を使うことにした。

 出来れば使いたくなかったのだが……


 神が躊躇うその奥の手とは、一つの再会だ。

 懐かしい人物をレッシバルに再会させる。

 さすれば残火は間違いなく勢いを取り戻すだろう。


 でも、これは一か八かの賭けでもあった。

 憎しみの炎が復活すれば、彼が自ら戦いへ戻ってくれるだろう。

 ただ、怒りがどのくらい復活してくれるかは、神でも予測がつかなかった。


 度が過ぎた憎しみは人を鬼に変える。

 鬼は怨敵を狩り尽くした後も止まらない。

 殺戮に酔った鬼は生ある者を次々と骸に変え、やがては魔へと変貌する。

 これでは意味がない。


 人の心は難しい。

 ゆえに今日まで躊躇ってきた。


 だが、良い機会かもしれない。

 ピスカータの子供たちはいままでネイギアス海賊を仇と思っていたが、真の敵はリーベルだ。

 いつかはそのことを知らなければならない。


 果たして吉と出るか、凶と出るか?

 何も知らないラーダが導く先は試練の場。

 試されるのはレッシバルだけではない。

 神もだ。


 勇者レッシバルが鬼に堕ちたとき、神もまた魔に敗れる。



 ***



 ラーダの後ろについて階段を下りると、甲板下は積荷と怪我人でごった返していた。


「こっちだ」


 目指す場所はまだ先らしい。

 怪我人を踏まないように注意しながら進んでいく。


「すまねぇ、通してくれ!」


 途中、布で包んだ人間大のものを甲板へ運び出す船員たちとすれ違った。


「…………」


 さっきからあちこちで「おい、しっかりしろ!」という掛け声が絶えない。

 捜索中、伝声筒から漏れ聞こえてきたのと同じことが起きていた。

 怪我の大小に関わらず、ポツポツと亡くなっていく。

 生きながら地獄の際に立った人間にとって、安心や希望がトドメになり得るとでもいうのか?


 急死する原因がわからないので手の施しようがなく、ただ見送るしかない。

 そして息を引き取った者は、申し訳ないが下船してもらわなければならない。

 直ちに。


 各国が奴隷禁止条約を結んだのは、単に非人道的だからということではない。

 荷揚げされた奴隷から伝染病が流行し、国民が大勢亡くなるからだ。


 せっかく救助した者を海へ戻したくない。

 せめて陸に埋葬してやりたかった。


 でも、このままにはしておけない。

 死体から生きている者に感染する虞だけでなく、死毒が発生して怪我人も船員も全滅する虞もある。


 海は過酷な場所だ。

 非情にならなければ生き残れないときがあるのだ。


 生きている者にできることは冥福を祈ることと、運び出す船員たちに道を譲ってやることだけだった。


 すれ違うときに短く祈りの言葉を捧げ、二人は先を目指した。

 積荷の間を通り、怪我人たちを迂回して通る。

 辿り着いた場所は船長室だった。


 コンコン。


「入れ」


 中からトトルの声が返ってきた。

 ラーダ、レッシバルと順に室内へ入る。


 中にいたのは二人。

 一人はトトル、もう一人は奴隷だった。

 トトルのベッドに横たわり、息が弱い。


 レッシバルは征西軍で負傷兵を手当てしたり、最期を看取った経験がある。

 だからわかる。

 あまり長くはもたないだろう。

 それゆえに空から呼び戻されたのだと思うが、


 ——誰だ?


 申し訳ないが、レッシバルに心当りはなかった。


 元からそうだったのか、あるいは爆発でやられたのか?

 服はボロボロ、長い髪はバサバサ、顔は煤だらけ。


 唯一わかったことは若い女性だということだけだ。

 髭は生えていないし、男性より胸が高い。

 そして少し膨らんでいる腹を大事そうに両手で抱えている。

 彼女は妊娠していた。


 妊婦だから安静にさせた方が良い。

 それはわかるのだが、妊娠している奴隷は他にもいた。

 なぜこいつだけ他の奴隷たちと分けて船長室に?

 レッシバルの傾げた首が直らない。


 するとラーダがベッドの前で片膝をついた。


「リンネ、レッシバルを連れてきたぞ」


 ——⁉


 やっと傾げていた首が直った。

 代わりに今度は驚きで見開いた目が直らない。


「リンネだとっ⁉」


 ピスカータ村の幼馴染、リンネロッテ。

 通称、告げ口のリンネ。

 仕出かしたこと、これから仕出かそうとしていることを逐一大人に報告する探検隊の天敵だった。

 特にレッシバルを目の敵に……

 だが、いまはそれも懐かしい。


 彼女は目を瞑って苦しんでいたが、驚きの声が大きかったので待ち人に気が付いた。


 村の生き残り、トトルとラーダに再会できて懐かしかったが、彼女には最期に一目会いたかった者がいる。


 願いが叶って良かった。

 彼女は最も会いたかった者に再会できた。

 レッシバルに。



 ***



 彼女が一奴隷ではなく、リンネだと最初にわかったのはトトルだった。


 甲板で救助の指揮を執りながら、彼も手当てに参加していた。

 傷に包帯を巻いてやりながら、一人一人、名を尋ねて励ます。


 そこで彼女を見つけたのだった。

 先に名乗り、相手にも名を尋ねると、彼女は涙を零しながら「告げ口のリンネ」と名乗った。


 世界にリンネロッテという名の女性は他にもいるかもしれないが、告げ口のリンネは一人しかいないだろう。

 しかもトトルを見て泣きながら通称を名乗るリンネは、間違いなくピスカータのリンネだ。


 すぐにラーダを呼び、驚き合う三人。

 しかし瀕死のリンネは声が出ない。

 何かを囁いているのに気付いたのは少し落ち着いてからだった。


 彼女はこう囁いていたのだ。

「レッシバルは?」と。


 刻々と血の気が引いていく彼女の顔色が、あまり長くはないことを示唆していた。

 トトルが大慌てで呼び戻したのはそれゆえだった。


 レッシバルの操竜技術が高くて良かった。

 もし着船に手間取っていたら……

 肝心な時にいつも間に合わない、と嘆いていたが今日は間に合った。


「リンネ……なのか?」

「あぁ、レッシバル……ごめんね……」


 亡くなっていたはずの彼女が実は生きていた。

 奴隷として。


 それだけでもすでに混乱しているのに、随分と久しぶりに再会した彼女が述べたのは詫びの言葉だった。


「な、何がだ?」


 レッシバルに詫びてもらう心当たりはなく、思わず尋ね返した。


「ゲンコツ、痛かったよね……ごめんね」


 ——!


 そうだ。

 リンネはいつも探検隊を見張り、そしてレッシバルには特に厳しかった。

 まるでいたずらの首謀者のように言われたことも一度や二度ではない。

 ……実際、首謀者はシグだが立案者はレッシバルということが少なくなかったので、濡れ衣とも言い切れないのだが……


 彼女は探検隊がいつも楽しそうで羨ましかった。

 仲間に入りたかったが、勇者の集団に女は入れないと拒絶されてしまった。

 それから告げ口するようになってしまったのだ。

 探検隊に入れないなら解散させれば良い。

 そうすれば、


「……レ……ルと遊べる……と思っ……て」


 彼女の声がか細く不明瞭なのでよく聞き取れなかったが、なぜ探検隊を解散に追い込んでいたのかは何となくわかった。


 確かに女の子の入隊は認めていなかった。

 勇者は男がなるもの、という下らない拘りがあったからだ。

 世界には女戦士や騎士が大勢いて、活躍しているというのに。


 彼女の気持ちはわかった。

 だが、そんな昔のことをいまさら詫びる必要はない。

 むしろ詫びなきゃいけないのは自分たち探検隊の方だ。


 それより知りたいのは現在のこの状況についてだ。

 どうしてリンネがこんな目に?


「あの日……」


 レッシバルが怒っていないことに安堵した彼女は、現在までのことを語り始めた。


 リンネの話によると、やはり村を襲撃したのはネイギアス海賊だった。

 ……実はリーベル派なのだが、彼女もレッシバルたちもまだそのことを知らない。


 探検隊の悪ガキ共がいない、と大人たちが悪戯を心配し始めたとき、浜で警鐘が打ち鳴らされた。

 漁を終えた男たちが網を直していたら、南の彼方に帆船を発見した。


 交易船ならもっと沖を通るし、船影が見えたとしても横向きだ。

 こんな何もない漁村へ真っ直ぐ北上してくる船影はネイギアスの奴らだ。

 うまく他国交易船を待ち伏せできなかった能無し海賊が、沿岸の村へ収奪をかけにくることがあった。


 そのような事態に備えて浜に警鐘を設置していた。

 これに悪戯したとき、ゲンコツが二倍になるのも無理はない。


 南方砦から自衛に努めよと通達されていたこともあり、男たちの動きは早かった。

 すぐに銃を集めて浜に集まり、迎撃態勢を整えた。

 その様子を少女だったリンネは、母親にしがみつきながら見ていた。


 海賊船が船首を向けて突っ込んでくる。

 恐ろしいが、本当に危険なのは舷側を向けてきたときだ。

 そのときには砲弾の雨が飛んでくる。

 だから砲撃はないと上陸戦に備えていた。


 しかし甘かった。

 水際で上陸を阻止されたことがあったのだろう。

 最初に飛んできたのは砲弾ではなく火の玉だった。


 ……リーベル派には軍事顧問が同伴している。

 彼、もしくは彼女による火球の魔法だ。

 軍人なのだから、上陸前に守備隊を叩くのは当たり前のことだった。


 火球は浜に着弾し、集結していた男たちを木端微塵にした。

 残りは女子供と、シグより少し年上の若者が少々。

 若者たちは必死に抵抗したが、半分は火球の後に続いた砲撃でやられ、残りは上陸してきた海賊共に斬り伏せられた。


 抵抗する者が全滅した村は地獄と化した。

 攫われていく若者と子供たち。

 その一人が、リンネだった。


 ……その後の彼女がどのような境遇下で成長し、現在に至るのか。

 詳細を記すことは控えたいと思う。


 この世には、売るケダモノと買うケダモノがおり、彼女の腹が膨らむことになった。

 ……以上だ。


 いよいよ、〈その時〉がやってきた。

 彼女の弱々しい右掌がレッシバルの頬に伸びる。


 もう目がよく見えない。

 ずっと会いたかった、大好きだった男の子の顔なのに。

 ならばまだ感覚が残る掌で触れたい。

 そう思って伸ばしたのだが、途中で力尽きた。


 もはや触れることすら叶わない。

 だがレッシバルが受け止め、頬へ持っていった。


 掌に伝わってきたのは彼の頬の感触と水の感触。


 水?


 彼は泣いていた。

 水ではなく涙だ。

 涙が頬を伝わり落ちている。


 これが走馬灯という奴なのか?

 涙の感触が切っ掛けとなって、見えなくなった目にピスカータの光景が浮かんできた。


 浮かんできたのは彼女の告げ口によって探検隊の計画が大人たちに露見し、横一列に並んで順番にゲンコツされている場面。

 当然レッシバルにもゲンコツが落ちる。


 直前までは恐ろしくて、直後は痛くて、時間が経つにつれて惨めさが増していく。

 そんな表情を浮かべながら、それでも泣くまいとグッと堪えていた。


 勇者は泣かない。

 それが彼らの矜持だった。

 当時は下らないと嗤っていたが、いまはその下らなさも美しい。


 彼女は左手で腹を撫でながら、


「この子が男の子……だったら、探検隊に……入れてもらえる……かな?」

「当たり前だろ! あんな下らない規則は今日限りで撤廃だ! 女の子だって入ればいい!」


 男とか、女とか、そんなことはどうでもいい。


「良かった……生まれてきたら……皆で楽しく……」


 もう最後まで話す力は残っていない。

 右手はレッシバルの頬へ伸びたままだが、彼が頬に押し付けているだけだ。

 自分の腕を支える力はすでにない。


 この手を離してはならない。

 離さない限り、リンネは死なない。

 レッシバルは必死だ。

 そんなことで、命を繋げるはずがないのに……


「……嫌だ……やめてくれ……もう誰も死ぬな……」


 声が震えている。

 必死に拒み続けるが、死は彼の都合など考慮しない。

 急速に彼女の手から温度が失われていった。


「…………」


 リンネが何か囁いている。

 口の開き方が呼吸とは違う。

 何らかの言葉を発している。


「何だ、リンネ!? 聞こえないぞ!」


 彼女の口元へ慌てて耳を近づけた。


「…………」


 彼女は間に合った。

 旅立つ前に思いを伝えることができた。


 伝え終え、眠りについた彼女の顔は煤汚れ、血の気を失い、でも満足そうな微笑を湛えていて——

 とても美しかった。


 告げ口のリンネは探検隊の活動を妨害し、特にレッシバルについての密告が多かった。

 裏返せば、それだけ彼のことを見ていたということだ。


 ……好きだったから。


 なのに、当の本人は探検隊のことばかり。

 だから少し意地悪がしたくなってしまったのだ。


 こんなことになるなら、もっと早く、素直に思いを伝えていれば……


 もう気持ちの裏返しなどしない。

 そんな回りくどいことをしている時間はない。

 伝えたいことは、生きている内に伝えなければ。


 彼女は伝えた。

「レッシバル……私は……あんたの……ことが……好きだった……」と。


 後年、彼は若者たちに語る。

 言いたいことは、言えるときに言っておけ。

 さもないと、


「悔いが残る」


 彼は悔いている。

 返事が間に合わなかったことを。


 重い……

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