第53話「空の配達屋」

 竜騎士にしかわからないことだが、雲の中は霧に包まれたときに似ている。

 空気が水を含んでいるようで、重く湿っぽい。

 雲が薄ければその中は白一色だが、厚ければ灰色の世界だ。

 吟遊詩人が不安や不穏に喩えるのも頷ける。


 今日は正午から雲が空を覆い始め、夕方から降り出す予定らしい。

 時間経過と共に厚みを増していく灰色の雲は、絶望のように重く粘り気がある。

 その中をフラダーカは必死に飛んだ。

 まるで絡みつく絶望の雲から主を引き離そうとしているかのように。


 しかしもう手遅れだった。

 主のレッシバルはすでに絶望の只中にいる。

 己の無力さを悟ってしまった。

 弱さを認めてしまった。


 身を屈めてフラダーカの首にしがみついているが、風の抵抗を減らそうとしているわけではない。

 自分の身体を支えるのもしんどくて、もたれかかっているだけだ。


 竜騎士になるべきではなかった。

 騎士になるべきではなかった。

 一つも強くなかったのだから。

 海賊船にせよ、魔法艦にせよ、海の脅威には手も足も出なかった。


 それでも弱いなりに一生懸命頑張ってきた。

 だからもういいはずだ。


 ——疲れた……


 レッシバルは静かに目を閉じた。


「…………」


 なぜだろう?

 瞼の裏に大陸北岸の光景が浮かんできた。


 あの日、魔法が使えない戦隊は〈海の魔法〉に完敗した。

 海で魔法が使える者には敵わない。

 十分すぎるほど思い知っていたはずなのに、トトルたちの航海を止めなかった。

 負けを認めきれていなかったからだ。


 正面から戦ったら勝てないが、奴らを出し抜いて〈庭〉を悠々と往来してやる!


 そんな復讐心が確かにあった。

 だからトトルが切り出してきた偵察の話に乗った。

 その結果がこれだ。


 ピスカータ村を焼かれた日から問い続けてきた。

 どうすれば海の脅威を退けることができるか?


 でも……


 本当はわかっていた。

 答えは北岸でとっくに出ていた。


 どうやっても——

 海の脅威には敵わない。


 でもその答えが正しいと認めてしまったら、もう立ち上がれなくなる。

 それが嫌で、今日までわからない振りをして逃げてきた。


 だがもうダメだ。

 認めざるを得ない……


 レッシバルの手から手綱が落ちた。

 全身から力が抜けていく。

 すると、絶対に言うまいと拒絶してきた言葉が喉の奥から口へと迫り上がってきた。


 勇者が絶対に口にしてはいけない言葉。

 しかしそれを押し止める気力は残っておらず、言葉が自然と紡ぎ出されていく。


「俺の——」


 俺の負けだ。

 そう言い終えたとき、勇者レッシバルは死ぬ。


 別に構わないだろう。

 そもそも勇者ではなかったのだから……


 さあ、あとは「負けだ」と続ければ楽になれる。


「俺の負——」

(そんなことない!)


 何者かが遮り、最後まで言わせなかった。


 言葉ではない。

 あえて表すならば、それは思念。

 とても強く、敗北に呑み込まれかけていたレッシバルを一喝した。


 そこへカッと陽光が照りつける。

 瞼越しでも眩しい。

 薄目を開くとそこは辺り一面白い海が広がっていた。

 雲海だ。


「すごい……」


 初めて見た雲海の迫力に只々圧倒された。


 竜騎士なのに雲海を見たことがない?

 知らない者は嗤うかもしれないが、案外そのような者は多かった。


 竜騎士団は地上の敵へ竜炎を放射する部隊だ。

 そのためには地形に左右されない空中を移動できれば良く、高高度を飛ぶ必要はない。

 むしろ高度が高すぎると炎の威力が落ちてしまうので、低空飛行の訓練に重点を置いていたくらいだ。

 陸軍竜騎士だったレッシバルが初めて雲海を見たというのも、別に不思議はなかった。


 雲の上に出たフラダーカは目的の高度に達したので上昇を止め、水平飛行へ。

 大きく右へ旋回を始める。


 牙の間から稲妻を漏らしながら。



 ***



 ジッ。

 バチッ、ジッ。

 ジ、ジジジッ。


 迫力ある雲海の光景に見惚れていたレッシバルは、細かく爆ぜるような連続音に気付いた。

 音は前方から。

 フラダーカの口元から。


「フラダーカ?」


 右旋回中の竜は首を少し曲げて主の方を振り返った。

 牙の間から細い稲光を上下左右不規則に走らせながら。

 フラダーカがいつの間にか溜雷の用意を整えていた。


 溜雷はラーダがいたずらで仕込んだ芸だ。

 空の配達屋には全く必要ないので何度もやめさせようとしていた。

 しかし効き目は全くなく、ラーダを見る目が輝いていたので諦めた。


 カツオドリのときと同じだ。

 海に落ちたくらいではへこたれない。

 こいつが「かっこいい!」と憧れたらおしまいなのだ。


 そのしぶとさは見上げたもので、雷の射的勝負でラーダに何度敗れてもへこたれなかった。

 来る日も来る日も鍛錬を積み、ついには師匠を上回った。


 あの日の大喜びをいまでも覚えている。

 あれは勝利の喜びというより、溜雷という必殺技が完成した喜びだ。


 それにしてもレッシバルには解せなかった。

 なぜこんな高いところで必殺技を?


 トトルから偵察の話を切り出されたとき、正直不安だった。

 上空から水面に浮上してきた魚を見つけたら、急降下漁が始まってしまうのではないかと。

 しかし始まると意外にもこいつは真面目だった。


 レッシバル自身、水面近くまで浮上してきた大きな魚影を何度か見かけたことがある。

 当然フラダーカも見ていた。

 ジーっと下を凝視していたが、結局溜雷を作ることなく正面を向いた。


 そのときはやっと落ち着いてくれたと喜んだが、いま思えば不思議な行動だった。

 竜は捕食者だ。

 獲物を見つけたのに狩りを始めないということがあるのだろうか?


 首を傾げていたら疑問に対する答えが返ってきた。


(身体が大きくなったのだから小物ではなく、もっと大きな獲物を仕留めないと)


 それは音や言葉ではなかった。

 思いや念のようなものが心に直接語りかけてきた。


「……まさか、いまのはおまえなのか?」

「…………」


 古竜ではないフラダーカが「ああ、そうだ」と人語で話せるはずがなく、その口からは「バチッ!」とか「ジジジッ!」という恐ろしい音しかしない。


 うまく説明できない。

 それでもこいつが答えたように思えてならない。


 さっき……

 負けを認めかけていたときに割って入った(そんなことない!)という叫び。

 あれも、


「おまえだったのか? おまえが止めてくれたのか?」


 バチッ!

 バチチッ、ジジジッ!


 漏れた放電の音だけが耳に流れてくる。


「馬鹿だな……俺……」


 少し冷静になった。

 若竜が人語を話せるはずがないし、出来上がった溜雷を咥えている最中ではないか。

 レッシバルは自嘲した。


 いや、そうではない。

 レッシバルが馬鹿なのではない。

 いまの二人に言葉は不要。

 思ったことがそのまま相手に伝わる人竜一体と化していた。


(漁を始めよう)

「漁?」


 再びフラダーカの意思が伝わってくる。

 心の声で主の嘆きを否定し始めた。


 主は無力だと嘆いているが、そんなことはない。

 無力だったのは我の方だ。

 幼かった頃、何もかもが我より大きく、時々村の近くに現れる野獣やモンスターが恐ろしかった。

 その度に主が脅威を追い払ってくれた。

 弱かった我を守ってくれた。

 どれほど心強かったか。


 主は師匠たちを死に追いやったと自分を責めているが、そんなことにはならない。

 これから主と我があの大物を仕留めるのだ。

 師匠たちは殺されようがない。


「大物……」


 こいつの言う大物が何を指しているのか、レッシバルにもわかってきた。

 大物とは、あの海賊船のことだ。

 つまり、フラダーカはこれから急降下漁をやろうと言っているのだ。


 竜の話は続く。


(主は負けを認めようとしていたが——)


 我は主が負けたところを見たことがない。

 主は勇者だ。

 勇者は負けない。


 北一五戦隊?

 竜六戦隊?

 一体何のことか、我にはさっぱりだ。

 生まれる前のことはよくわからない。


 とにかく〈我ら〉はまだ戦っていない。

 戦ってもいないのに負けを認めるのはおかしい。


 重ねて言う。

 主は勇者だ。

 そして我も大きくなった。

 何人も我らには敵わない。


 だからあの大物を狩ろう!

 我らの漁を始めよう!


「…………」


 フラダーカの話が終わった。

 後は何も伝わってこない。

 ただ、レッシバルの目をジッと見ていた。

(返答は?)と言わんばかりに。


「……そうか……おまえにとっては獲物なのか……」


 レッシバルはそう呟いたが、誰にも聞こえないだろう。

 高空は風が強い。

 そんなか細い声では自分の耳にすら届かない。


 それでもフラダーカにはしっかり伝わった。

 二人は互いの意志を鼓膜で受け取っているのではない。

 心が通じ合っている状態だ。

 たとえ強風でも妨げることはできない。


 小竜は満足気に正面を向き、緩やかに右旋回を続ける。

 いや、正確には首の途中までが正面に向き直っただけだ。

 頭は正面を向いていない。

 右旋回で大きな円を描きながら、その中心下方に目が釘付けになっている。


 一緒に覗き込んでみるが、雲に遮られて人間の目では確認できなかった。

 でも竜にはわかるのだろう。

 見つめる先に海賊船がいる。


「おまえの〈獲物〉がそこにいるんだな」


 ようやく、レッシバルにもこいつの行動の意味がわかった。


 魔法艦だ、無敵艦隊だと恐れているのは人間だけだ。

 竜には関係ない。


 若竜になったばかりのこいつにとって、リーベルの看板なんて知ったことじゃない。

 自分の力量で狩れるか否か?

 こいつが考えることはそれだけだ。


 銃撃を鱗に受けた。

 砲撃と火球の威力を見た。

 その後、氷の矢が飛んできた。

 これらを検討した結果、この若竜は狩れると判断した。


 あとはいつも通りだ。

 水面に自分の影が差すと獲物が潜ってしまうので、高空で雷を溜めてから急降下で襲い掛かる。


 突然制御を離れて上昇を始めたが、別に暴走したわけではなかった。

 漁の用意をしていただけだ。

 この小竜は会敵時からいままで、奴らを獲物としか見ていなかった。


「馬と喧嘩していたのに……いつの間にか、こんなに強くなっていたんだな……」


 レッシバルはフラダーカの鱗を優しく撫でた。


 人竜一体というのは、人の考えが竜に伝わることだけを指す言葉ではない。

 竜から人へも伝わる。

 フラダーカの強い思いがレッシバルを奮い立たせつつあった。


 だがまだ足りない。

 主の臆病風は吹き飛ばしたが、あと一つ足りない。

 大物を仕留めてやろうという気迫が。

 騎竜が舌なめずりしているのだから、竜騎士も舌なめずりしなければ。


 もう一押し。


 ピスカータが好き。

 皆のことが好き。

 だから——


(皆でピスカータに帰りたい!)


 フラダーカの思いが、レッシバルの心の中を感電のように走り抜けた。


 ピスカータ……

 ふと、ラーダとこいつが浜で雷球勝負していたときのことが蘇ってきた。


 二人があまりに真剣だったので、傍らで観戦していたレッシバルはいたずらがしたくなった。

 そっと両手で砂を掬い、ラーダ目掛けてポイッと。

 驚いたラーダは集中が途切れてしまい、作っていた雷球が消えてしまった。


 彼だけでなくフラダーカからも怒られ、以後、二人の視界外での観戦は禁止されてしまった。

 漢同士の勝負に水を差した不届き者という汚名がいまだに消えない。

 思い出す度に面白くて笑ってしまう。


 でも、いま注目すべきは面白さではない。

 あのとき、ラーダは砂が飛んでくることに全く気付いていなかった。

 彼が未熟者だったから?

 ……リーベル陸軍で魔法兵として通用していた者が?


 魔法使いといえど生身の人間だったということだ。

 人間は視野の中にあるものしか把握できない。

 その外から何かが近付いてきても把握できていない以上、防衛態勢は取れない。


 探知魔法は?

 確かに全方位の様子を把握できるかもしれないが、何かが近付いてくるかもしれないと思うからこそ展開するものだ。


 何も接近してくるはずがない状況でもそう思えるだろうか?

 フォルバレントと海賊船以外、見渡す限り何もないアレータ海でも?


 竜は手も足も出ず、雲の彼方へ消えた。

 あとは取り残された帝国船を沈めるだけ。


 いま頃、熟練兵は火球の用意に専念しているはずだ。

 尻尾を巻いて逃げた竜のことなど、奴の意識に残っていない。


 ここは——

〈海の魔法〉の死角だった。


 レッシバルは風にそよいでいた手綱を掴んだ。


 探知円がなかったとしてもメインマストに見張り員が立っている。

 だが、人間の視野は仰角約六〇度だという。

 しかも獲物であるフォルバレントを追い詰めている最中だ。

 真上を見てみようとは思わないだろう。


 フラダーカは正しかった。

 皆が生き残れる最善手は、奴らの死角から〈漁〉を仕掛けることだ。

 人間たちが生を諦めていく中、こいつだけが準備を整えていた。

 ……不甲斐ない主のために整えていてくれた。


 手綱を強く握りしめる。

 竜騎士団でも急速に下降するときはあったが、これからやるのは急降下だ。

 崖から飛び降りるような圧力が全身に襲い掛かるだろう。

 その圧力の中で手綱を引き、急降下から上昇に転じなければならない。


 ゆえにしっかり掴んで、もう離してはならないのだ。

 手綱も、フラダーカからの信頼も。



 ***



 風向きと太陽の位置、そしてフラダーカの視線から推測して海賊船の後方へ回り込んだようだ。

 手綱を右へ引き、敵艦と進行方向を合わせる。

 上昇中は全く言うことを聞かなかったのに、今度は素直に従ってくれた。


 いよいよだ。

 騎竜が指示を待っている。

 息を大きく吸い、


「行くぞ! フラダーカ!」


 待っていた。

 信じていた。

 必ず帰ってきてくれる、と。

 主の帰りを心待ちにしていた小竜は、翼を畳んで雲海へ飛び込んだ。


「ぐぅっ……!」


 食いしばった歯の間から苦悶の呻きが漏れる。

 突入角度七〇度から八〇度。

 これはもう急降下というより墜落に近い。


 覚悟はしていたが、ものすごい圧力だ。

 少しでも力を抜いたら上半身がちぎれそうだ。

 レッシバルは手綱にしがみついて必死に耐えた。


 首が痛い。

 耳が痛い。

 耳の奥も痛い。


 しかしいまはその痛みがありがたい。

 さっきから圧力で意識を失いそうになるが、痛みのおかげで何とか意識を保つことができている。

 気を失ったらおしまいだ。


 ピスカータにいた頃、フラダーカは水面近くで溜雷を撃ち、直ちに上昇に転じていた。

 今回もその流れでいいのだが、問題は標的が水中ではなく水上だということだ。

 タイミングを間違えれば海賊船に激突する。


 これはレッシバルの仕事だ。

 気絶している場合ではない。

 適切なタイミングを手綱で指示しなければ。


 苦しい……

 でも、〈海の魔法〉に勝つにはこれしかない。


〈海の魔法〉は大昔、ロレッタという魔女が考案したものだという。

 おかげで後世の自分たちが大迷惑を被っている。

 相手の射程外から魔法で滅多撃ちにしようなどと根性が悪すぎる。

 きっと悪魔のような婆さんだったに違いない。


 だが、海戦では視力が高い見張り員を揃え、高威力・長射程の大砲を多く備えている方が有利だ。

 性悪婆さんはこれらを魔法に置き換えただけだ。


 海と魔法の相性問題を解決できるなら、使い勝手は大砲より魔法の方が良い。

 世界中の海軍が勝てないのも当然だった。

 艦対艦や艦対地の戦いにおいて婆さんの理を破るのは無理だろう。

 忌々しいが理に適っている。


 子供の頃から取り組んできた一つの問い——

 どうすれば〈遠く〉の敵にこちらの攻撃を〈届かせる〉ことができるか?


 吹き荒ぶ灰色の暴風の中で、レッシバルはその答えに辿り着いた。

 通常の方法では無理だ、と。

 だから……


 非理法権天という言葉がある。

 探検隊のいたずらがバレると、普段は親父たちからゲンコツを貰って終了なのだが、その場に長老が居合わせたら長い説教が始まった。

 その説教の中で出てきた言葉だ。


 非は理に勝てず、理は法に勝てず、法は権に勝てず、権は天に勝てない。

 要するにいたずらは非行だからやめなさいということだ。


 なぜかいま、その言葉を思い出していた。

 本来の意味から外れた独自の解釈になるが、この状況に当てはまるような気がする。


 性悪婆さんの〈理〉を備えたリーベルの〈権〉には誰も敵わない。

 ゆえにどれほど〈非〉を働いても各国が〈法〉で裁くことはできない。

 これを叩くには、船と魔法使いの死角から仕掛けるしかない。

 つまり〈天〉からの急降下攻撃だ。


 奇しくも神とレッシバルの答えが一致した。

 遠くから撃っても届かないというなら、〈近く〉へ届けてやれば良い。

 レッシバルとフラダーカは、空の配達屋なのだから。


 配達屋は迅速第一だ。

 翼を畳んだフラダーカが隕石の速さで〈天〉より降る。

 お届け物の雷一つ携えて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る