第33話「海と海」
稚竜がフラダーカと名付けられた翌朝、トトルと彼の水夫たちは船に戻り、ピスカータ村から出発した。
本業は交易商人だ。
エシトスと配達品の受け渡しが終わったので、これから交易品を売りに帝都へ向かう。
出発前——
トトルはフラダーカの飼育小屋作りも手伝うつもりだったが、レッシバルたちから早く出発するよう促された。
資材と道具だけ貰えれば、小屋作りは二人だけで十分だ。
それより、寄り道している間に相場が下がってしまっては大変だ。
陸に残るレッシバルたちの気遣いだった。
だが、トトルは心配する二人を横目に、「相場は大丈夫だよ」と稚竜の頭を撫でて名残惜しそうだ。
彼によると、セルーリアス海が封鎖されているせいで、海外品の値が上がり続けているのだという。
だからいつ運びこんでも黒字は確実だと言うのだが……
「……ん? お、おい!」
静かに聞いていたレッシバルだったが、セルーリアス海という単語に驚いて話を制止した。
「な、何だよ? レッシバル」
「おまえ、どうして無事なんだ⁉」
病室でシグが言っていた。
リーベル艦隊がセルーリアス海と大陸北方沖を封鎖している、と。
そのせいで、帝国船がどこにも行けなくて困っている。
トトルの船もその一隻だ。
なぜ海外を行き来できる?
「ああ、昨日言ってなかったな」
うっかりしていたと自分の頭を撫でながら、側に落ちていた流木で砂浜に線を引きだした。
それは、セルーリアス海西側の海図だった。
海図西端のなだらかな曲線は帝国を表している。
曲線の上方に置いた大きな石が帝都ルキシオ港で、下方の小石はピスカータ村だ。
村から東北東へ進んでいくと、さらに小さい石が置かれており、その横には円形が描かれている。
レッシバルは、その円形が気になった。
「これ、コタブレナ海か?」
「ああ、封鎖海域だ」
ネイギアス連邦領、コタブレナ海——
その名は、海域中央に浮かぶコタブレナ島に由来する。
現在は連邦の法により、島とその周辺海域が立ち入り禁止とされている。
理由は、危険だからだ。
かつて、島にはコタブレナ王国という連邦加盟国があった。
いまはもうない。
昔、リーベル王国と単独で戦争になり、滅亡した。
本格的に魔法艦が投入された初の海戦として、各国の歴史の教科書に載っている有名な戦いだが、伝わっているのは勝利したという結果のみ。
その詳細は明らかになっていない。
せっかくの勝ち戦だったというのに、なぜかリーベルの口は堅く、自国民に対しても曖昧な歴史を教え続けている。
そんな戦史は信用できない。
確実なことは二つだけだ。
一つは、コタブレナ島全住人の消滅。
もう一つは、件の海域に入ったと思われる船が、一隻も帰ってこないということ。
以来、大頭足が幽霊船に食われていたとか、海の亡霊〈海霊〉を見たとか、そういう怪談話が絶えない。
リーベル王国の容疑は極めて濃厚なのだが、真相は歴史の闇の中だ。
戦後、表面上は連邦と和解したらしいが、両国の間には緊張した空気が今日まで漂い続けている。
砂の海図上に物騒な円形を見つけたので、つい騒然としてしまったが、注目すべきはそこではない。
トトルは流木で円形の北西部に位置する小石を示した。
仮にも漁師の息子だったというのに、不覚にもレッシバルはその島の名がわからなかった。
幼い内に親と死別してしまったのだから、仕方がないことなのだが、何となく恥ずかしい。
「……何だっけ? この島」
「アレータ島だよ」
そう教えてもらっても、まだわからなかった。
それもそのはず。
一応、ある程度の大きさがあるので島と呼称されているが、海底から隆起している大きな岩が水面上に突き出ているだけだ。
上陸することはできるが、そんなゴツゴツしたところに用がある奴はいない。
せいぜい、漁師やトトルのような交易商人が目印にする位だろう。
陸軍軍人には全く用がない島だった。
「……そのアレータ島とおまえの安全な航海に何の関係が?」
レッシバルは首を傾げた。
島は封鎖海域のすぐ隣だ。
却って危ないのではないか?
しかし、トトルは友の心配を不敵に笑い飛ばした。
「逆だよ」
コタブレナはリーベルにとって禁忌だ。
彼の国の交易船団はもっと北を通っているし、魔法艦もあまり近付かない。
彼はそこに目を付けたのだ。
まず、帝都から出航した後、沿岸に沿って南下する。
これはピスカータ村でエシトスと荷の受け渡しを行うためでもあるが、東で張り込んでいるリーベル艦隊を避けるためでもあった。
受け渡しを終えたら東北東へ。
やがてアレータ島に辿り着く。
到着したら、座礁しない程度に島へ寄せて投錨し、ここでしばらく待機する。
魔法艦はあまり封鎖海域に近寄らないが、あくまでも〈あまり〉だ。
全く近付かないわけではない。
奴らの任務は、同じ場所で漫然と探知魔法をかけていれば済む仕事ではない。
時々、位置を変えてくる。
中には、封鎖海域の外縁部まで来て、帝国船を探る艦も……
これを岩陰に隠れて、やり過ごすのだ。
探知魔法は円形に展開し、三六〇度の様子を知ることができるが、遠くなるほどぼんやりとしていく。
だからアレータ島に接近して停泊していると、岩島と艦船の区別がつかない。
いなくなったのを確認したら北上し、本来の目的地へ向かう。
海上封鎖といっても、魔法艦隊がセルーリアス海全域にびっしりと展開しているわけではない。
ルキシオ港から東へ向かおうとする帝国船を捕捉するため、大陸沿岸から見えなくなる辺りに多く展開している。
北上しているトトルの船より遥か西側だ。
つまり、奴らが大陸に気を取られている隙に、その背後をコソコソ通過してしまおうという航路なのだ。
帰りもこの航路を通れば基本的に安全だ。
稀に、中部セルーリアス海を航行中の巡回艦を見かけるが、トトルに抜かりはない。
船に改造を施し、異様に長いメインマストの先端に見張り台を設置した。
この改造見張り台のおかげで、リーベル艦から伸びる探知円の外側から先に発見できる。
「おまえ、すごいな! でも——」
「でも、探知魔法の盲点をどうやって知ったのか?」
トトルに先回りされてしまい、レッシバルは言葉を飲み込みながら頷いた。
疑問はもっともだ。
魔法使いではないのだから、誰かに教えてもらうしかないが、ラーダはリーベルにいた。
では、誰が?
「ラーダのお師匠さんだよ」
帝都の街角で、硬貨入りのコップを当てる芸を見せていた魔法使いだ。
ラーダには申し訳ないが、トトルは彼ほど芸に引き込まれることはなかった。
しかも、後でインチキ芸人だとわかったし。
リーベルの魔法使いといえば皮肉屋と評判だったが、芸人は全く当てはまらない人物だった。
話してみると気さくな人で、探知魔法のことは彼から教わったのだ。
「ああ、あのおじさんか」
言われて、レッシバルも思い出した。
ラーダを見送った後も、彼は同じ場所でインチキ芸を披露していたが、海上封鎖の噂が立ち始めた頃、姿を消してしまった。
迫害を避けたのだろう。
いなくなってしまったのは残念だが、おじさんの判断は正しい。
国同士が険悪になると、どうしても個人に憎しみの矛先が向いてしまう。
暫し思い返す。
あのおじさんは、ラーダに才能を活かす道を示し、トトルには航路発見に繋がる示唆を与えてくれた。
芸はインチキだったが、人間は本物だったと思う。
安全航海の理由はよくわかった。
リーベル人が嫌がる封鎖海域とアレータ島に隠れるというのは名案だ。
それでも油断は禁物だ。
北一五戦隊の一方的な潰滅を経験したレッシバルにはわかる。
無敵だ、最強だと驕れるだけの力が奴らにはある。
また、あの時は一矢報いたい一心で銃撃したが、痛くも痒くもなかったはずだ。
にも関わらず、奴らは敵艦の残骸ではなく、銃撃してきた一人の人間に照準を合わせた。
集中砲火を浴びる寸前、魔力砲の砲口と目が合ったのだから間違いない。
奴らには、虐殺を完遂できる残忍さがある……
トトルの話は理解できたが、無敵艦隊を出し抜けたと甘く見てはならない。
一度でも見つかれば、生きては帰れない……
「わかった。くれぐれも気をつけるよ」
北の海で殺されかけた者の証言だ。
トトルはレッシバルの忠告を真面目に受け止め、村から出発した。
***
ピスカータ村の三人が、新たな仕事を立ち上げて盛り上がっていた頃、帝都のシグは変わらぬ日々を送っていた。
この変らぬ日々には、二つの意味がある。
一つは、昨日と同じような今日が続き、平穏だが代わり映えしない日常のこと。
本来はこちらの意味だけだ。
しかし、シグたちだけはもう一つの意味があった。
昨日も今日も、リーベル側と同じ話が繰り返される無意味な日々という意味だ。
竜騎士団を加えた新征西軍が失敗に終わってから、帝国は再び海へ目を向けるようになった。
宮廷は錯綜していた。
頼みの綱はリーベル問題担当部だ。
もうこの国には、外交的解決しか道は残されていない。
担当官の一人であるシグにも重圧がかかっていた。
彼もこの問題を何とかしたいと思っているのだが、先述の通り、同じ話が延々と続くばかり。
リーベル側もこの問題について話し合うために担当部を作った。
この担当部と話し合うため、シグたちは何度も海を渡った。
帝国の船ではなく、リーベル側に用意してもらった船で。
大使館は難色を示したが、帝国には外洋を安全に航行できる船がないから、という理由で要望を押し通した。
ならば、リーベル側の担当部を帝都に来させるという話になりかけたが、丁重に断った。
帝都にいたままでは何もわからない。
シグたちがウェンドアに行って何かを掴んでくるしかないのだ。
奴らは、明らかに来てほしくないようだった。
もし帝国の船で向かったら、事故に見せかけて沈められる虞がある。
そこでリーベルの船に乗せてもらうことにしたのだった。
まさか、公式な使者の船を?
普通の国ではあり得ない話だが、いまのリーベルなら平気でやりそうな気がするのだ。
大使はなかなか首を縦に振らなかったが、どうしても無理なら他国に頼むと言った途端、リーベル船に乗せてもらえることになった。
しかも魔法艦の護衛付きで。
他国に関与されるくらいなら、ということだろう。
つまり、他国に知られては困るような企み事があるということだ。
こうしてシグたちは、ウェンドアに何度も足を運ぶことになった。
さて、そのウェンドアだが……
リーベル側担当部から、真面目に解決しようという意欲は感じられなかった。
帝都でしていた話を、ウェンドアでしているだけだ。
「なぜ帝国船を沈める?」と問えば、濡れ衣だと返してくる。
「なぜ北を封鎖している?」と追及しても、そんなところに我が国の艦隊は出動していないと白を切る。
腹立たしいが、これは予想していた。
それよりも情報だ。
シグたちは必死に情報を集めた。
ウェンドアの帝国大使館とも協力して、敵対してくる理由を探った。
何か帝国にしかない物を欲しているのか?
あるいは、魔法王国の気に障ることをしてしまったのか?
だが、調べれば調べるほど、魔法王国の豊かさを思い知るばかりだった。
世界中の品が集まり、この国に足りない物は何もない。
帝国にしかない物を強いて挙げるならブレシア馬くらいだが、イスルード島にも馬はいるし、島国が敵対してまで手に入れる物ではない。
また、市民たちの声にも耳を傾けてみた。
さぞ、反感が高まっていることだろうと警戒していたのだが、帝国に対してあまり関心がない様子だった。
憎しみどころか、最近減ったブレシア人だとわかると珍しがられ、酒場で一杯奢られてしまった……
——さっぱりわからない。
それが、帰国の途に就いたシグたちの感想だった。
その後もウェンドアでの交渉は続いたが、何度訪れても毎回同じ。
交渉は難航どころか、座礁しかけていた。
ところが最近、変化があった。
リーベル王国から帰国するブレシア人の増加だ。
彼らは旅行者ではない。
向こうに在住していた者たちだ。
皆、突然解雇を申し渡されたり、リーベル人の配偶者から一方的に離婚され、追放に近い形で帰ってきた。
これは、シグにとっても身近な出来事だ。
ラーダが追放されて帰ってきた。
彼には気の毒だったし、仲間として憤りを感じる。
だがその一方で、外交官としては幸いだとも言えた。
彼は何年もあの島で暮らしていた。
見張られていて存分に情報収集できなかったシグたちより、島の事情に詳しそうだ。
今日、シグは彼を自宅に招いた。
一体、あの国で何が起きているのか?
これから聞かせてもらう話の中に、手掛かりがあるかもしれない。
期待しながら客間で待っていると、玄関で妻と誰かの話し声が。
待ち人が来てくれたようだ。
耳を澄ませていると足音が近づいてくる。
「ん?」
シグは首を傾げた。
足音が多い。
人間は左右の足で歩くから、一人当たり足音は二つだ。
不揃いな足音をよく聞くと全部で六つ。
小さい二つは妻のものだが、他の四つは?
正体はすぐにわかった。
ノックの後に扉が開き、妻を先頭に足音の主たちが入ってきた。
一人はラーダ。
もう一人は——
「ザルハンス?」
「驚かせてすまんな」
彼は海軍軍人だ。
一度海に出たら、しばらくは帰ってこない。
レッシバルの病室で再会したが、その後すぐに艦へ戻ったので、いま頃は海賊船を追い回しているはずだ。
なぜここにいる?
シグの疑問はもっともだ。
同時に、不安が湧き起こった。
もしや、任務を放棄して来たのでは?
しかし、ザルハンスは友の心配を否定した。
任務放棄どころか、提督や艦長の指示でやってきたのだ。
「おまえの仕事に関係あるかわからないが、海でちょっと……」
ザルハンスが所属する帝国第二艦隊の主な任務は、大陸東岸全域の警備だ。
とはいえ、警戒の目はどうしても南に偏ってしまう。
だから伝統的に、東のリーベルより南のネイギアスを主敵としている艦隊だ。
その南の海で何かが起きた。
提督たちがリーベルと関係ありそうだと疑うような何かが。
だが、これを宮廷で海軍提督が外務大臣に直接伝えたら、大袈裟になってしまう。
だから内密に知らせるために、ザルハンスの臨時休暇という形をとった。
表面上、休暇を利用して友の家へ遊びに来ただけということになる。
「…………」
シグは顎に手を当て、暫し考えた。
東から帰ってきたラーダと、南で戦っていたザルハンス。
遠く離れているが、この二人に共通するものは〈海〉だ。
そしてリーベルは海洋魔法王国。
〈海〉だ。
彼の中で〈海〉と〈海〉が繋がろうとし始めた。
その時、妻の声が割って入った。
「さあ、どうぞお掛け下さい。すぐにお茶の用意を」
その声でシグも我に返った。
「ああ、そうだな。立たせたままですまなかった。さあ、座ってくれ」
二人は並んでソファに腰掛け、シグは向かい合うように掛けた。
果たして、ラーダとザルハンスは何を語るのか?
客間に、緊張が満ちていく。
それを少しでも和らげようというのか、無言の室内にお茶を淹れる音だけが柔らかく流れていた。
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