第30話「タンコブ岩にて」
村でエシトスと別れたレッシバルは、懐かしい場所を巡っていた。
まずは海岸から。
一ヶ所、一ヶ所、改めて見て回ると、自分たちは悪ガキ共だったのだと思い知る。
かなり危険な遊びをやっていた。
高い木の上に探検隊の家を作ろうとしたり、岩場の一番高いところから飛び込んでみたり……
いま大人の目で見てみると、何て無鉄砲な子供だったのだろう、と冷や汗が流れる。
いつ事故が起きても不思議ではなかった。
問答無用でゲンコツを落としてきた親父たちの気持ちがわかる。
当時は、嫌われているのだと考えていたが、とんでもない。
自分たちは両親や村の大人たちから愛されていたのだ。
それを思うと、また涙が滲む。
——いかん。泣いてはダメだ。
一筋零れかけるが、天を仰いで堪えた。
昔の子供たちの夢は正騎士一択だったが、最近は竜騎士になりたいという子供が増えているという。
だから、竜騎士だった者がメソメソしていてはいけない。
かなり手古摺ったが、レッシバルはなんとか耐えた。
——他も見て回ろう。
馬首を北西へ。
まだ日が高いので、村人たちが山菜採りや鹿を狩っていた山へ向かう。
あれから——
探検隊の縄張り作戦が失敗してから、長い年月が経つ。
村は未だに再建できておらず、支配域の拡大に異議を唱える者もいない。
現在は、山全体がゴブリンの縄張りになっていることだろう。
だから深入りはしない。
遠くに見張りのゴブリンが見えたら引き返す。
別に何か用事があるわけではないので、馬を走らせる必要はない。
方向だけは指示するが、後は馬の自由に歩かせた。
それでも人間の徒歩より速い。
背中の波音が遠ざかっていく。
波音が消え、馬蹄の音と風にそよぐ草の音しかしなくなった頃、道に緩やかな傾斜がつき始めた。
山までもう少し。
それにしても……
この辺の風景には見覚えがある。
子供の頃から遊び場だったという意味ではなく、探検隊が追い縋るゴブリンの迎撃に失敗し、這う這うの体で逃げた地点だ。
あの時、別隊のゴブリン共も、山の木々の間からワラワラと湧き出てきた。
それがいまは影も形も見えない。
のどかで平和な風景が向こうまで続いている。
馬ものんびりとしたものだ。
レッシバルは騎銃に弾薬を装填し、いつでも撃てるように身構えた。
あの頃、奴らの群れはまだ山奥に留まっていた。
それでもこの辺で偵察隊が湧き出てきたのだ。
現在なら、更に手前で遭遇するはずでは?
なのに、ここまで何の妨げもなく、やってくることができてしまった。
どういうことだろう?
山から群れがいなくなったとでもいうのか?
それは良かったではないか。
いつか村の再建が始まるのだから、あんな奴らはいない方が良い。
何も知らない者はそう喜ぶだろう。
だが、そういうことではないのだ。
ゴブリン共だって生活がかかっている。
あの山は食物が豊富な山だ。
なぜ捨てた?
群れが大きくなって、山の恵みを採り尽くしてしまったか?
そんなことはない。
さっきから野鼠や野兎をよく見かける。
樹木には実がなっている。
麓の坂道でもこれだけ豊かなのだ。
山は更に豊かだろう。
だからだ。
この豊かさが物語っている。
現在の山の支配者はゴブリンではない、と。
何者かが、これらを食べていたゴブリンを追い払った。
もしくは、ゴブリンを捕食して全滅させた。
その何者かが、現在の山の主だ。
そこまで考えて気付いたのだが、小動物を狩るのはゴブリンだけではない。
犬型や猫型の肉食獣たちもだ。
時には、ゴブリンも捕食する。
ところが、さっきからこれらの姿も見えない。
ゴブリン共々、この一帯から駆逐されたということだ。
捕食者が消えたから、小動物たちが増えたのだ。
現在の主は、肉食獣より強い種族らしい。
他の種族から縄張りを強奪するということは、人間に対しても友好的ではないだろう。
危険だが、それが一体何者なのか、確認しなければならない。
ピスカータ村はまだ滅んだままだが、他の村はまだ健在だ。
その近くに、征西で見かけるような凶悪なモンスターが住み着いているのだとしたら……
故郷のような悲劇が繰り返されてはならない。
主の正体を確認し、村の男たちでは太刀打ちできないと判断したら、南方砦に駆除の要請を出す。
だが、それ以上の種族だったら、帝国は今後、征西だけでなく、征南も追加しなければならないかもしれない。
果たして、主は何者か?
レッシバルは銃口を上に向け、肘を脇腹に付けた状態のまま、不気味な山へ入って行く。
鞍上の緊張が伝わっているのか、馬も不安そうだ。
不審な音がないか、と耳を忙しなく動かし、主人と一緒に周囲を探っている。
***
山は、静かだった。
途中、せせらぎで馬を休ませている間も周囲を警戒していたが、何もない。
——それほど強大な種族が支配しているのか?
岩に腰掛けながら、レッシバルは思わず騎銃を見つめてしまった。
退治しに来たわけではないが、互いの接近に気付かず、いきなり遭遇ということもあり得る。
その時、こんな小さな銃で太刀打ちできるのだろうか、と不安になったのだ。
しかし、いまはこれしかない。
準騎士時代から手入れを怠らなかった愛銃を信じるしかない。
休憩を終え、探索を再開した。
ところが、次第に傾斜と道に張り出した樹木の根がきつくなり、これ以上、馬では進めなくなった。
ここから先は、馬を下りて徒歩で進むしかない。
近くの枝に手綱をかけ、騎銃片手に登っていく。
目指す場所はもう少し上だ。
彼を含めて、探検隊はこの山について詳しい。
山は広いが、そのすべてを虱潰しに見て回る必要はなく、確認すべき場所は僅かだ。
水棲生物でない限り、雨露をしのぎたいと思うはず。
つまり目指す場所とは、ゴブリンの群れが住処としていた洞窟だ。
もしそこに何もいなければ、水陸両棲の捕食者ということになる。
そのときには、水場へ近付かないように注意すれば良いだけだ。
水陸両棲というが、魚のようにすぐ干上がったりせず、多少は陸上でも活動できるというだけだ。
基本的には水場を好み、あまり遠くへは行かない。
——そもそも、ちょっと懐かしい場所を見て回りたかっただけなのに……
もう軍人でも何でもないのに、なぜ大真面目で偵察兵ごっこなどしているのだろうと、レッシバルは自分の行動に首を傾げた。
落ち着いて考えてみたら、別に確認してくる必要はないのではないか?
麓の坂道で感じた異変を伝えるだけで十分だろう。
後は砦から偵察隊を派遣してもらえば済むことだ。
でも、心の奥底で何かが命じていた。
おまえが行け、と。
そんなものは気の迷いや幻聴だ。
無視すれば良い。
わかっている。
わかっているのだが、どうにも気になる。
どうしても声に抗えず、ここまで登ってきてしまった。
——逆に、こうなったら何があるのか見てやろう。
そんな気持ちが、レッシバルに前進を促しているのだった。
***
洞窟へは直進しても良いのだが、少々険しい。
崖というほどではないが、途中に岩登りをしなければならないところがある。
子供の頃は冒険がしたくて、あえて無理をしたが、いまはそういう状況ではない。
まさか調査になるとは思っていなかったので、エシトスには、その辺を見てくるとしか伝えてこなかった。
もし滑落したら、救助は期待できない。
だから安全で、敵に追われたら全速で逃げられる道を選択すべきだ。
そこで一旦、タンコブ岩を目指すことにした。
岩までは障害物が少ない上り坂が続き、そこから洞窟までは獣道が通っている。
人間がこの世界に登場するよりずっと前、太古の時代から動物やモンスターが、常に洞窟と岩を往復し続けてできた道だ。
代々の洞窟の主たちも、あの険しい岩場を駆け下る度胸はなかったのだろう。
「おお……!」
タンコブ岩に到着したレッシバルは、感嘆の声をあげた。
トトルと一緒に小便をかけたときのまま、何も変わっていない。
村には一つの言い伝えがあった。
昔、悪さばかりする子供に神様が怒り、ゲンコツを落とした上で岩に変えてしまった。
以来、悪ガキはタンコブ岩になり、未来永劫、反省し続けなければならなくなった。
……という大人たちの捏造だ。
当時は、実話だと信じていた。
信じた上で、小便をかけに来たのだから、とんでもない悪ガキ共だったということになる。
こうして大人になって岩の前に立つと、探検隊は村の平和を守るどころか、神をも恐れぬ筋金入りの悪ガキ集団だったのだ、と恥ずかしく思う。
レッシバルは左手で、苔が生えている岩肌にそっと触れた。
「あの時は、小便をかけてすまなかったな。それから——」
それから、おまえのおかげで助かったと礼を述べた。
岩だから、返事は返ってこないが……
陸軍除隊と騎竜剥奪に加え、野山の懐かしさと更地になった故郷の喪失感。
これらが入り混じって、少々感傷的になっていたのかもしれない。
たとえそうだとしても、悪ガキの象徴たるこの岩が、同じ悪ガキの命を救うために、あの日、ここへ導いてくれたような気がするのだ。
それゆえの詫びと感謝だった。
レッシバルは現実に戻り、岩から手を放した。
いつまでも思い出に浸っている場合ではない。
洞窟を確認しに行かなければ。
岩に背を向け、数歩歩き始めたときだった。
背後から、
カキッ!
——⁉
警戒していたレッシバルは瞬時に振り返り、騎銃を構えた。
音は岩の裏側からだ。
「…………」
何者か?
この位置からは姿が確認できない。
どんな姿か不明だが、岩に隠れる位の大きさ、人間大の何かだ。
——ゴブリンや肉食獣を駆逐できる人間大の種族……
少しずつ詰め寄りながら、心当りを探る。
征西軍では様々なモンスターを見てきた。
その中のどれに該当するだろうか?
——わからん。
無駄だと悟ってやめた。
人間大で恐るべき戦闘力を持つモンスターは、意外と多いのだ。
心当りがありすぎた。
正体は不明だが、迷いはない。
何者だろうと、どこを狙うかは決めている。
顔面の中で、最も大きく目立つ箇所だ。
目が大きければ、目から得られる情報が重要で、耳が大きいなら、聴力で周囲の様子を把握している。
だからそこに一発お見舞いして、怯んでいる隙に馬のところまで逃げる。
もし、怯まなかったら……
次の瞬間、自分は死んでいるかもしれない。
そう思うと、否応なしに緊張が高まり、すべての感覚が研ぎ澄まされていく。
背筋を流れ落ちる冷たい汗の一滴、一滴まで感じ取れた。
そんな彼の不安を煽るように再び異音。
ビキッ!
驚いて、忍び足が止まってしまった。
——大丈夫だ、落ち着け、落ち着け……
唾を飲み込み、息を整え、前進を再開する。
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩。
ギリギリまで迫ったところで、立ち止った。
大きく息を吸い込む。
忍び寄るのはここまで、次の一歩で飛び出す。
手汗を拭いて、騎銃を握り直した。
頭の中で数字を数える。
五……
四……
これがゼロになったとき、覚悟を決めて飛び出す。
三……
二……
走馬灯が蘇りかけたが、打ち消した。
縁起でもない。
一……
ゼ……
レッシバルは、ゼロと数え終わるのを待たずに飛び出した。
岩の裏側が視界に飛び込んでくる。
異音の正体は獣か?
モンスターか?
「……?」
そこには、何もいなかった。
透明な種族なのでは?
いや、もしそうなら襲い掛かられている。
レッシバルは無事だ。
ゆえに訳が分からない。
あの音は何だったのか?
その時だった。
こっちだ、と視界を下げるよう促す異音が、足元から聞こえてきた。
カキッ! パリッ!
さっきまでより更に大きく鮮明な音だ。
レッシバルは下を見た。
「何だ?」
そこに〈いた〉もの——
いや、〈あった〉ものは一つの大きな卵だった。
卵にはあちこちヒビが入っており、孵化のときを迎えようとしていた。
——何かが出てくる!
きっと、こいつがこの山を支配している種族だ。
卵の大きさから推測して、相当大きくなる生物だ。
レッシバルは、卵膜を破ろうともがいている何かに騎銃を向けた。
ここまでの道中で、獲物になりそうな動物が消えたことを確認している。
こいつも大人になったら、獲物を求める。
山で見つからなければ、人里へ向かうだろう。
だから、いま始末する。
ただ、どんな種族なのか確認するため、出てくるのを待つことにした。
もう膜のてっぺんが破け始めているので、あと少しだ。
引き金に指をかけて待っていると、やがてその時はやってきた。
膜が一気に破けて、勢いよく頭が飛び出す。
レッシバルは、正体を確認した。
直ちに引き金を——
「…………」
引けなかった。
引けるはずがない。
飛び出してきた頭を見つめたまま、ゆっくりと騎銃を下げた。
「クルルルル?」
卵から飛び出してきたものは、竜の頭だった。
陸軍で孵化に立ち会ってきたが、それよりも小さい。
小竜種の稚竜だ。
レッシバルは稚竜と目が合ったまま、動けなくなってしまった。
思考が追い付かない。
一方、稚竜の思考は正常だった。
そして、正しく認識した。
レッシバルが親だ、と。
助けてくれないので、独力で殻から抜け出した。
抜け出すというより、足元がまだおぼつかないので、転げ落ちたというほうが正確だが……
それでもとにかく出たのだ。
その頑張りを褒めてもらおう、と力強く起き上がり、親の足元に近付いていく。
「クルル! クルルル!」
小さな翼をパタパタさせ、固まっている親を嬉しそうに見上げる。
褒めてやるまで、催促が止むことはないだろう。
***
誰も、領有している帝国ですらも無関心だった辺境の山奥で——
ついに、竜将と小竜が出会った。
とはいえ、この時はまだ誰も気に留めない、細波程度の出来事だ。
無理もない。
いまのレッシバルはすべてを失ったちっぽけな元竜騎士であり、小竜はそれ以上にちっぽけな稚竜なのだから。
でも、世界は後から知るだろう。
この出会いはすぐに消える細波などではなく、世界を変える大津波だったのだ、と。
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