第22話「咆哮」
湿原上空——
レッシバルは、孤独な抵抗を続けていた。
彼と竜ではない。
彼〈だけ〉がだ。
竜は狂ったように首を後ろへ曲げ、彼を噛もうと何度も牙を打ち鳴らしている。
ただ、背中は首の可動域外なので届かない。
苦し紛れに炎も吐いた。
これも牙同様、射角外だ。
炎はどこにも当たらずに真っ直ぐ伸びていき、囲んでいたモンスターを焼き払った。
苛立つ竜は、振り落そうと無茶苦茶に飛ぶ。
これは好きにさせておくわけにはいかない。
懸命に手綱を引き、上昇させようと足掻く。
湿原に墜落したら翼が油まみれになり、飛び立てなくなってしまう。
これから、その湿原で火計が予定されているのに……
狂い出した原因がわからないまま、何とか竜を救おうと空中での悪戦苦闘が続く。
しかもその間、有翼モンスター共も攻撃してくる。
暴れる竜の制御を取り戻しつつ、並行してモンスターも迎撃しなければならない。
それと、早くしなければ征西軍が……
これらの事が、レッシバル一人に襲いかかってきていた。
あまりにも目紛るしすぎる。
しかし彼は諦めなかった。
思考が止まったらすべてが終わる。
竜も自分も、征西軍も全滅してしまう!
必死にモンスターを退けながら、暴走の原因を探る。
そのときだった。
彼の耳に雑音が聞こえた。
いや、音ではない。
思念のようなものだ。
(——士——せ!)
——何だ?
竜とモンスターを凌ぎながら、その思念に意識を集中する。
心の耳をそばだてた。
思念の声は一定の間隔で囁き続けていた。
同じ内容を繰り返しているようだ。
(竜騎士を殺せ!)と。
——っ⁉
レッシバルは傭術のことを知らない。
それでも竜が攻撃を受けているということは理解できた。
身体は大きくなり、その辺のモンスターが束になっても負けはしないが、心はまだまだ幼い若竜なのだ。
この声は、その心を攻撃していた。
暴走の原因はこれだ。
レッシバルは暴れる竜にしがみつきながら、地上を探した。
これは何らかの魔法か呪術だ。
必ず近くに術者がいる。
——どこだ? どこに隠れている!
草の茂み、樹木の影、岩の背後……
時々、捜索を遮るように、青空と太陽が視界に飛び込んできた。
竜の宙返りだ。
普通の人間だったら、恐ろしくて白目を剥くかもしれないが、彼は竜騎士だ。
たとえ天地が逆転しようとも、冷静でいられる。
落ち着いて、真上に広がる地面を捜索し続けた。
しかし、岩陰や木々に隠れている人影を見つけることはできなかった。
竜騎士は目が良いが、それでも限度がある。
上下左右に激しく揺さぶられながら、小さい人影を肉眼で見つけるのは無理だった。
「くそっ、どこだ⁉ 何も見えん!」
レッシバルが術者探しに手古摺っている間、術者は思念を強めていった。
抵抗できない竜は苦しみ、もう暴走というより発狂に近い。
悲鳴を上げながら炎を撒き散らし、宙をのたうち回る。
術者が見つからない。
だが、もし見つけられたとしても、暴れ狂う竜の背から弩矢を当てるのは不可能だ。
それに、さっき一瞬だけ水平になったとき、近くに土煙が見えた。
ついに本隊が、すぐそこまで来てしまった。
竜のことも、征西軍のことも、打てる手がない。
レッシバルは悔しくて唇を噛んだ。
「同じだ……これでは——」
これでは、あのときと同じだ。
北一五戦隊が目の前で壊滅して、一人だけ北岸に流れ着いたときと何も変わらない。
おそらく、これはフェイエルムの魔法だったのだ。
近寄る敵は長壁とミスリル砲で退け、遠くの敵には魔法で支配したモンスターをぶつける。
この術に、竜も囚われてしまった。
あの日、馬を失い、今日は竜を失った。
北一五戦隊は魔力砲で吹っ飛ばされ、征西軍はこれから業火で焼かれる。
すべて、己の力不足のために……
「俺は……また負けたのか……?」
ここは戦場だ。
戦っている最中に負けを認めてはならない。
頭ではわかっている。
でも、心が……
たとえ僅かでも敗北を認めてしまったら、あとはしんしんと心の隅々へ浸透していく。
そうなったら、もう戦えない。
手綱を握る手から力が抜けていった。
レッシバルは、フェイエルムの傭術の前に、脆く崩れ去っ——
「うるせぇぇぇっ!」
崩れ去らなかった。
崩れるどころか、凄まじい気迫が爆風のように拡散し、周囲の大気を強く叩いた。
一体、何に対してうるさかったのか?
傭術兵の思念に対して?
それとも、己の中で木霊していた敗北感に対して?
おそらく両方に対してだ。
傭術は対象の心の弱さに付け入る魔法だ。
ということは、理屈上、心を強くもてば抵抗できるということになる。
より強い力で心に働きかけることができれば、邪念を打ち消すことだってできる。
レッシバルに魔法の心得はない。
しかしどちらの心が強いかという、気合いの勝負をするなら負けない。
傭術の邪念になど負けない。
いまはちっぽけな一騎だが、彼はやがて数多の竜と竜騎士たちを率いる将となる戦士。
竜将の咆哮は、傭術兵の邪念を砕き、取り囲んでいたモンスターたちを後退させた。
「グルルルル?」
竜が正気に戻った。
さっきのように彼の方を振り返るが、その目に憎しみの色はない。
一体、何が起きていたのかわからず、困惑しているようだ。
いつもの竜に戻ってくれて嬉しい。
だが、術者がどこにいるかわかっていない以上、再び術に囚われてしまうのは確実だ。
レッシバルは手綱を操り、湿原の岸に沿って高度を下げさせた。
広域放射の予定高度より更に低く。
さっきまでのことが嘘だったかのように大人しく飛んでいるが、いつまで続くか……
それまでに済ませなければならないことがある。
彼は連弩を鞍に戻し、代わりに炸裂弾を取り出した。
大きさは大人の拳ほど。
敵兵には竜炎で十分だが、石壁や鉄の門を焼き払うことはできない。
そこで竜騎士団は各種爆弾を携行することになっていた。
炸裂弾もその一つだ。
攻城戦のときにはこれを落として壁や門を破壊し、味方の突入を助ける。
彼はもう一つ、紐状のものを取り出し、一方の先端を腕に巻き付けた。
スリングだ。
導火線を胸当てに擦り付けて発火させると、爆弾をスリングに挟んで垂らした。
手首に巻いた紐を通して爆弾の重量が伝わってくる。
ブゥン……
回転が始まった。
ブゥン、ブン、ブン、ブン——
彼は征西軍の南下を止めることができなかった。
この距離なら伝声筒で報告できるが、乱戦中に内容を理解できるだろうか?
仮に将軍たちが理解できたとしても、大軍が進行方向を変えるには時間がかかる。
いますぐ全員に油のことを理解させ、直ちに南以外の方向へ向かわせるにはこれしかない。
ブンブンブンブンブン——ヒュッ!
スリングから放たれた炸裂弾はあっという間に小さくなっていき、湿原に吸い込まれて行った。
レッシバルは見届けずに左旋回。
爆風から逃げなければ!
しかし、与えられた猶予は短かった。
それでも、短い時間の中で、彼は精一杯頑張った。
竜を傭術から救い、征西軍へ罠のことを報せた。
あと一つ、彼が湿原の爆発から無事に逃げることができれば完璧だったのだが……
それにはやはり、速さが足りなかった。
時間切れだ。
ゴオオオォォォッ!
炸裂弾は狙い通り、落下寸前の空中で爆ぜた。
放出された炎は四方八方へ飛び散り、湿原が誘爆した。
やはりレッシバルが心配していた通りだった。
征西軍は乱戦の混乱で、湿原のことを失念していた。
轟音と爆風は彼らの背中を叩き、忘れていた周辺図を思い出させた。
兵士たちが一斉に叫び出す。
「油の湿原⁉」
「おい、南はやばいぞ!」
「奴らを押し返せ!」
南側で発生した恐慌は、油に引火した炎のように北へ伝播していった。
混乱気味ではあるものの、全軍の南下は止まり、北へ押し返す流れが発生し始めた。
ここは地獄だ。
南は火炎地獄、北からはモンスターが唸り声を上げながら突撃してくる。
それに真っ向からぶつかり、蹴散らさなければ人間たちに明日はない。
多くの犠牲が出るだろう。
それでも全員火炙りの刑に処させるよりはマシだ。
レッシバルはお手柄だった。
…………
そういえば、レッシバルはどうなった?
彼と竜は、湿原に最も近い位置にいたようだが。
本隊の通信兵は空中からの支援を求め、彼に呼び掛けた。
「こちら本隊。竜六戦隊、応答せよ!」
「…………」
返事がない。
早く将軍の命令を伝えて、敵側面に竜炎を放射してもらわなければならなかった。
焦りから、つい語気が強まってしまう。
「竜六戦隊! 直ちに敵側面へ放射しろ! 竜六戦隊、聞こえないのか⁉」
「…………」
通信兵は苛立たし気に空を見渡した。
伝声筒が壊れているなら、他の手段を講じなければならない。
どこだ?
どこにいる?
空を三六〇度見渡しても、そこにレッシバルたちの姿は見つからなかった……
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