第13話「竜鱗」

 北岸の砂浜を発って七日目——


 レッシバルの単独行は続いていた。

 つまり、彼の苦しみはまだ終らないということだ。


 ここまで大変だった……


 出発してすぐ、上空から餌を探していたハーピーの襲撃を受けた。

 気付いていないときに、上から襲われるというのは危険だ。

 襲撃に気付いて避けられたのはまぐれだ。


 前を向いて歩こうと思っていても、ヘトヘトになると、どうしても下を向いてしまう。

 おかげで、地に映る鳥影に気付けたのだ。

 咄嗟に倒れ込むように避けたので、鋭い鉤爪で引っかかれずに済んだ。


 奴らの爪は危険だ。

 鋭さもそうだが、直前まで腐肉を掴んでいたかもしれないのだ。

 他にも病気で弱っていたり、寄生虫の宿主となっている小動物や、毒を持つ生物も。

 それらの血や体液が付着しているので、爪がかすっただけでも命を落とす危険がある。


 追い払うため、懸命に流木を振るった。

 騎兵刀はあるが、流木は槍のように長い。

 威力ではなく、長さが必要だった。


 スリングは使えない。

 基本的に正面の標的を狙うものだ。

 せいぜい斜め上が限界だろう。

 水平飛行でもしてくれれば絶好の的なのだが、頭上をとった有利を捨ててくれるはずはなく、棒を振り回して追い払うしかなかった。


 しつこかったが、もっと楽に食える肉の匂いを嗅ぎつけたらしく、砂浜に向かって飛び去っていった。

 あまり良いことではないが、仲間のおかげで命拾いしたのだった。


 その後の旅も楽ではなかった。

 食料はまだあったが、真っ先に酒がなくなった。

 飲み水としてだけでなく、化膿しないよう、傷を洗うのにも使っていたから。


 幸いなことに、大陸中央部以外は森や草原が広がっている。

 緑豊かということは水があるということだ。

 だから、少し歩けば水場が見つかるので、補給することは可能だった。


 ただし可能というだけで、容易ではない。

 水場は様々な生物が集まるので、それらを狙う肉食獣やモンスターも集まるのだ。

 補給を諦め、素通りしなければならないときもあった。


 そんな旅も今日で七日目だ。

 太陽の向きと記憶している地形から方角を知り、ひたすら南東を目指してきた。

 予定ではそろそろ征西軍本陣が見えてくるはずだ。


 本陣に着いたら、まずは新鮮な水が飲みたい。

 身体も洗いたい。

 鼠や鳥の肉ではなく、穀物が食べたい。

 人間らしい食事がしたい。

 負傷兵は馬車で帝都へ送られるから、もう歩かなくて済む。

 安心して眠りたい。


 希望が、彼の足を速めていった。

 だが……


 ——あれ?


 困惑が、今度は彼の足を鈍らせていった。

 歩いても、歩いても、緑の草原しか見えてこない。


 ——本陣は?


 一度は鈍った足が再び速まる。

 希望ではない。

 不安が彼を駆り立てたのだ。


 やがて、草丈が低い開けた場所に出た。

 征西軍本陣だった所だ。


 そう……

 ここは〈だった〉場所だ。

 いまは何もない。

 征西軍はどこかに移動していた。


 どこへ?

 馬蹄の跡は西を示していた。

 まだ新しいので、発ったばかりのようだ。


 帝都出航から指折り数えて待っていたが、いつまで待っても歩兵隊の北で奇襲が始まらない。

 本隊を率いる将軍たちは、援軍に何かあったと判断した。


 来ない援軍を待っていても仕方がない。

 犠牲は増えるが、本隊による救出作戦に切り換えたのだろう。


 馬蹄からすべてを悟ったレッシバルは、ゴロンと仰向けになった。


「…………」


 彼はもう何も言わない。

 静かに目を閉じた。


 こんなところで寝転がっていると危険だが、これ以上彼が生きる必要はあるだろうか?

 本隊は援軍に問題が発生していると推測し、西への突撃を決断した。

 彼が生きて報告しに行く必要はなくなったのだ。


 ——また、間に合わなかった……


 これが、眠りに落ちる寸前、彼が最後に思い浮かべた言葉だった。


 …………


 何と酷い人生だろうか。

 どんなに急いでも間に合わない。

 必死に頑張っても届かない。

 ひたすら無力さを思い知るだけの人生……


 だが、もう終わりだ。

 すべてを諦めたレッシバルは、スヤスヤと寝息を立て始めた。


 海の敵にどう対抗するか?

 子供の頃からずっとこの問題に取り組んできた。

 今日、その答えが出た。

 陸上のように海を疾走できないブレシア騎兵では、奴らに敵わない。


 もう十分だろう。

 たとえ、最初から無駄な努力だったのだとしても、十分頑張った。

 あと少しの命、ゆっくり休んで良いはずだ……



 ***



 レッシバルは深い眠りに落ち、斜め上だった太陽が反対側に移動しても目覚める気配はなかった。

 遠目には屍に見えるかもしれない。

 捕食者にとってはありがたい肉だ。


 中には仕留めたてでないと食欲が湧かないものもいるが、大抵の捕食者は生死を問わず、食べられる肉なら何でも食べる。

 多少、腐臭が漂っていても厭わないものもいるくらいだ。


 だからいまのレッシバルはご馳走だ。

 労せず、新鮮な肉が手に入る。


 眠り続ける彼の側に三つの影が現れた。

 三匹のゴブリンだ。

 遠目に何かが倒れているのを見つけ、確認しに来たのだった。


 思いがけず、肉が見つかって良かった。

「ギャッギャッ」とか「ガギ、ゴゲ」とか、よくわからない会話をしながら彼を取り囲み、剣や槍を構えた。


 人間のオスは力が強く、暴れられると手に負えなくなるのでトドメを刺す。

 また、重たいのでこの場で解体し、三匹で分担して巣に持ち帰るのだ。


 残酷だが、これが自然の掟だ。

 生きる意欲を失ったものは、これからも生きようとするものたちの糧となる。


 ゴブリンたちがそれぞれの得物を振り上げる。

 その途端、急に薄暗くなった。


「ギゲ?」


 流れてきた雲が陽光を遮ったにしては急すぎる。

 一体何だろうと三匹が見上げると、空から牙が迫っていた。


 空から牙?

 後出しになってしまい、三匹には申し訳ないが、自然の掟について二つ補足することがある。


 一つ目、生きる意欲を失ったものだけでなく、意欲があっても弱いものは糧になり得る。

 二つ目、敵は地上三六〇度内だけとは限らない。

 空からもやってくる。


 大陸の空を支配するもの。

 竜だ。


 ゴブリンを襲ったのは、小型種と呼ばれている竜だった。

 小型といっても民家ほどあり、自然界では捕食する側だ。


 この日、三頭で餌を探して飛んでいると、前方にゴブリンを見付けた。

 どうやら人間の死骸を見つけて、夢中になっているようだ。

 空に対してまったく注意を払っていない。


 楽な人間の死肉と、まだ生きている新鮮なゴブリン。

 小竜は、体重の軽いゴブリンを選んだ。


 標的が決まった三頭は、高度を上げていく。

 草原に影が映らない高さまで。


 雲一つない晴天の日は、狩りが難しい。

 獲物が影に気付いて、逃げてしまうのだ。

 じっとしていてもらうには、何か工夫が必要だ。


 そこで、小竜たちは高度を上げて影を消し、太陽の光の中に潜む。

 これなら獲物が見上げても、太陽が眩しくて見つからずに済む。


 三頭は太陽の中で縦一列になり、攻撃態勢を整えた。

 ゴブリンは狙われていることにまだ気付いていない。

 ジワジワと接近していき、絶好位置に着いた次の瞬間、小竜たちは翼を畳んで急降下を開始した。


 突入角度六〇度。

 竜が天から降ってくる。

 地上では人間の肉をどう山分けするか楽しそうだが、その間にどんどん竜の降下速度が増していった。


 しかしこのままゴブリンに体当りしようというのではない。

 そんなことをしたら獲物が砕け散ってしまうし、竜たちも地面に激突して大怪我を負う。


 そこで、竜たちはギリギリのところで翼を開き、水平飛行に移る。

 そして反転上昇しながら獲物に噛み付いて、空中へ攫って行くのだ。

 ゴブリンたちが見た牙はこれだった。


 小竜一頭につき、ゴブリン一匹ずつ。

 悲鳴を上げる間もなく、一瞬で空中へ掻っ攫われていった。


 見上げると、胴体を噛まれている一匹が逃れようともがいている。

 小竜はそれが鬱陶しかったのか、少し顎に力を入れた。


「ガッ!」


 ゴブリンは一声呻くと、宙に鮮血を噴いて大人しくなった。


 できれば生きたまま巣まで運びたかったが、仕方がない。

 うっかり落してしまったら、ちょうど下にいた獣か他のモンスターに奪われてしまうかもしれない。


 小竜は牙から血を滴らせながら、悠々と高空へと帰っていった。


 自然は厳しい生存競争の場だ。

 獲物を仕留め、咥えているだけではまだ餌取りに成功したことにはならない。

 巣で待つ我が子の口に入れることができたとき、初めてその狩りは成功したことになるのだ。


 …………


 小竜もゴブリンもいなくなった草原に静けさが戻った。


 レッシバルは草丈の低いところに横たわっていたのだが、竜の突風に煽られて少し転がり、背の高い草叢の中に埋もれた。

 依然、眠り続けている。

 いまここで、世にも恐ろしい狩りがあったとも知らずに……


 博識を鼻にかけている輩は「運命など迷信だ。単なる偶然だ」と嗤う。

 でも、本当にそうだろうか?


 偶然、小竜たちが上空を通った。

 偶然、人間ではなく、ゴブリンを標的に選んだ。

 偶然、捕食者が見つけにくい草叢に転がっていった。


 生きていると、偶然の出来事に遭遇することはある。

 二度続いて、珍事だと驚くこともあるだろう。

 だが三度続いたら、それはもう必然と言ってよいのではないだろうか。


 ここで識者は一矢報いようとする。

 ゴブリンを標的に選んだのは、成人男性より軽いからだ、と。


 しかしこの説明では不足だ。

 別に、一頭が丸ごと運ぶ必要はないのだ。

 他の捕食者と奪い合いになっていたわけではない。

 ゴブリン?

 一発、炎を吐いてやれば、さっさと退散するだろう。

 急降下などせず、落ち着いて着地してから、三頭で解体して運べば良いだけの話だ。


 常識では説明がつかない。

 無理矢理常識を当てはめれば、全部偶然になってしまう。


 こういうときは一旦、常識から離れるのだ。

 だから、今日の出来事は偶然ではなく、必然だったと考える。

 この際、迷信でも何でも肯定してみよう。

 すると、別なものが見えてくる。


 小竜たちは……

 未来の主を助けに来たのではないだろうか?


 史実によれば、竜将と小竜が正式に出会うのはまだ先だ。

 いまはまだ互いを知らない。

 出会いと呼ぶには刹那すぎる、電光石火のすれ違い。

 それでも宿命の二者は今日、確かに出会ったのだ。


 ほら、あれを見るといい。

 まるで、小竜が主に挨拶を残していったようではないか。


 空を向いて横たわるレッシバルの胸の上、ひとひらの竜鱗が力強く輝いていた。

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