香水
歌垣丈太郎
香水
歌垣丈太郎
湯川健一は大阪曽根崎のラウンジバーでバーテンダーをしている。彼はそこで働くようになってまだ一年余りなのだが、今ではびっくりするほどの技量を身につけるまでになっていた。
湯川健一は高知県の出身だった。何かきっかけを見つけて中退してやろうと目論んでいた高校は、やはり両親の期待を早々には裏切れないという気弱さのためにずるずると続けていたが、そのうちにやっと卒業できるところまで漕ぎ着けた。高校さえ卒業すればもうこっちのものだ。息子の学力を知らない母親はしつこく大学進学を勧めたけれど、何より嫌いな勉学をまだこのうえ続けるなどとても耐えられなかったから、健一はこれを頑強に拒みつづけた。
どうやら母親の説得が不発に終わりそうだと知ると、次は父親が県会議員にかけあって市役所の臨時職員枠を用意してくれた。だが健一は高校を終えたら一日も早くこの町を逃げ出したいと常々考えていたから、裏口工作までしてくれた父親の配慮さえまったく功を奏さなかった。そして健一はその会社が大阪にあるというただそれだけの理由で高校が推薦してくれた大手の家電メーカーへ何の計画性もなく就職してしまったのである。
しかしいわゆる五月病というやつでその会社は三ヵ月足らずで退職した。続いて船場の繊維問屋や日本橋の家電量販店に勤めてみたがこれも長続きしなかった。それから幾つかの会社を転々として、正社員としてはあるホテルのドアボーイをしたのを最後に、今はやりのフリーターとして四年ほど気ままな生活を送ってきた。
中華料理店に勤める倉田直子と知り合ったのはその頃のことで、店からの帰りが遅くなる直子を毎夜のように迎えに行っているうちに、お互い一人暮らしだった二人は自然のなりゆきで直子のアパートで同棲するようになった。そうなると健一も男の責任を感じないわけにはいかない。ともかく何かの定職につかなければと思っているとき、直子の店の近くでバーテンダー募集の貼り紙をみつけ、曽根崎にあるいまのラウンジバーへもぐりこんだのである。
健一はバーテンダーという職業にとりたてて興味があったわけでもない。だがこの職業は思いがけず彼の性分にあっていたようだ。これまで次々と会社を辞めたのは、同僚や得意先とトラブルを起こしたとか、人間関係が気まずくなったからではなく、一カ月も続けるうちにたまらなくその仕事が嫌になったからなのだ。
三人姉弟の末っ子だったからそういう甘ったれなところがあるけれど、もともと人に好かれやすいタイプだった健一は間もなくお客からもホステスたちからも、健ちゃん、健ちゃん、と呼ばれて可愛がられるようになった。身長も高くてなかなかハンサムな彼は、白いワイシャツにぴしっと黒い蝶ネクタイやベストを決め込むと、もう何年も経験を積んだいっぱしのバーテンダーのようで、とくに若い女性客の人気を独占した。そうなるといよいよ仕事が面白くなってくる。学校と名のつくものを毛嫌いしている健一は、さすがに専門学校へ通って学ぶ気持ちにはなれなかったものの、店のホステスの一人が紹介してくれた一流ホテルのバーテンダーから手ほどきを受けているうちにみるみる腕を上げていった。
今ではみごとにレインボーやマティニィーをつくれるまでになっているから、20席ばかりの小さなラウンジバーのバーテンダーとしてはじゅうぶん過ぎるほどの技量を持っていると言えた。だから曽根崎にあるその店は健一のおかげで若い女性客がどんどん増えていったし、ちょっと酒にうるさい通の中年客さえ満足させられるようになって、思いがけない掘り出し物を得た感があった。
ただ健一の弱点は父親譲りと言える慢性鼻炎のせいで嗅覚がほとんどきかないということだった。だからもし健一が超一流ホテルのバーテンダーをめざして更に高度な技量に挑戦しようとしていたら、その点がかなりなハンディキャップになっていただろう。だがそんな心配はいらない。健一は今の職場でじゅうぶんに満足している様子だ。そういう向上心のないところがまた彼の欠点でもあったのだが。
このラウンジバーはまた直子の勤める中華料理店が目と鼻の先にあるという利点を持っていた。健一がいち早くこの仕事を択んだのは直子の勤務時間に合わせたということもあるが、それよりお互いの職場が近いという点に強く惹かれたからだった。もし昼の職業に就けば、健一は一度帰宅してから出直すか、直子の店の近くで暇をつぶすかして、深夜の帰りを待たなければならなかったからだ。
北海亭という名のその中華料理店は、店構えこそそれほど大きくないがこの近辺では名の知れた老舗で、廉くてお美味しいフカヒレスープと肉饅頭がとりわけ評判だった。すでに調理師免許を取得している頑張り屋の直子は、その北海亭の店員を勤めながら厨房に欠員が出る日を待っているのである。
直子は自分で食べてみても確かに美味しいと思う北海亭の味の秘密が何としても知りたかった。いつの日か厨房に入ってその秘密を偸むことができたら、あと一・二軒の店で味や技の修業を重ねてから、十年後くらいには小さくとも自分の店を持つというのが夢である。だがひょんなことから健一と同棲生活を始めてしまったことで、その計画には若干の狂いが生じかけたのだが、それも健一がすぐ定職に就いてくれたことで一度は解消したはずだった。
ところがそんな安堵も束の間のことで、直子は近ごろの健一に対してまたもや新たな心配の種を感じて悩んでいるのだった。だから健一を愛する直子としては、迷い子になりかかっている彼のためにも、また自分の夢をすんなりと実現するためにも、この不安をどうにかして早く取り除かねばならないと思い続けているのだった。
雨の降る七月の日曜日だった。
前夜も深夜喫茶で健一に待ち惚けを食わされて一人でアパートへ帰ってきた直子は、ほんの短い時間をうとうと微睡んだだけで、朝からたまった洗濯物の処理や部屋の掃除に余念がなかった。
キタの繁華街から歩いて二十分ほどの都心にあるアパートは三階建ての軽量鉄骨で出来ている。以前はある有名な会社の社宅だったというだけに二十室あまりある各部屋は、小さなベランダが付いていて間取りもゆとりを持った設計になっていた。かなり老朽化しているという点さえ我慢すれば、ここは都心が近いうえに家賃がとても安いという評判だったから、とりわけ夜の仕事に従事する人たちから垂涎の的になっていたところなのだ。ただそれだけに空部屋がなかなか出ないことでも有名で、いきなり生まれ故郷の家業を継ぐことになった先輩調理師による紹介と強い推薦が無かったら、宮崎県から出てきて以来これまでずっと専門学校の寮で過ごし、卒業と同時にその寮を出なければならなくなって途方に暮れていた直子などには、とても入居できるような物件ではなかったのである。
午前四時を過ぎて一人で帰宅した健一は、まだベッドの中で呆けたように眠っている。そのとき健一は寝ないで待っていた直子に、
「なんだ、まだ起きていたのか」
と、どことなく気まずそうな声をかけたきりで、待ち惚けを食わせたことなどにはまるで触れずにそのままベッドへもぐりこんでしまったのだ。
健一がバーテンダーとして働くようになってから、二人はいつも阪急東通り商店街にある深夜喫茶で待ち合わせをして、酔客にからまれないようにしっかり手をつないで帰っていた。ラウンジバーと中華料理店では閉店時間に若干のズレがある。だから待たせられるのはいつも直子のほうだったけれど、若い女性がたった一人で夜道を帰ることを考えれば、それは仕方のないことだと直子も納得していた。しかしこの一ヵ月ほどに限って言えば、直子は連絡もないまま何度も待ち惚けを食わされており、一緒に帰った日は数えるほどしかなかったのである。
直子は洗い終えたばかりの健一のワイシャツへ小さな鼻を近づけて匂いを嗅いだ。洗濯する前には感じたタバコ臭などの複雑な匂いは、お気に入りの洗剤が含んでいる果実の香りに消されていて、そっと吸い込むと小鼻の奥に爽やかな刺激を感じることができた。直子の嗅覚は健一とは逆に警察犬並みの鋭さを持っている。だから健一が外から持ち帰ってくる僅かな匂いでも嗅ぎ分けることができるのだった。
しわを伸ばしたワイシャツを針金のハンガーに吊すと、直子はところどころにくっついた糸くずを何度もつまんでは屑籠へ捨てた。ワイシャツはバーテンダーの健一にとって大切な制服のようなものだ。あとでしっかりアイロンをかけなければ、と直子は思う。ただ洗い終わった普段着や下着の山を目の前にすると、直子はどうしても滅入った気分に陥ってしまう。雨の日に部屋へ吊した洗濯物ほど不快なものはない。だから直子はよくバスルームの壁に自在棒を差し渡して、ありたけの洗濯物を吊して換気扇を回したままにしておくのだが、そうすると出かける前に思い切りシャワーを浴びることができなくなってしまうのだ。こういう雨の日にはやはり乾燥機が欲しいな、と思いながら今日も直子は預金通帳の残高を思い浮かべるのだった。
そのとき固定電話の電子音が部屋中に鳴りひびいた。
直子は洗濯物のしわ伸ばしの手をとめるとちょっと身構えた表情になり、干しかけのブラウスを手にしたままゆっくりと電話器があるベッドサイドのほうへ向かった。
「もしもし倉田ですが・・」
ベッドの上で健一が寝返りを打つのを目の端で捉えながら、直子は耳にあてたなま暖かい受話器をきゅっとにぎりしめる。
「・・・」
相手は答えない。受話器からは喫茶店の客のざわめきに混じって、バロック音楽と思われる低いBGMが流れ続けるばかりだ。
「もしもしどなたですか。ご用件をおっしやって下さい」
どう催促しても相手は決して答えないということを知りながら、直子はわざと大きな声で叫んでみせた。
目を覚ますかな、と期待した健一は僅かに顔を顰めただけで煩さそうに頭から布団をかぶってしまう。健一はまだこの電話のことを知らないはずだから気にもならないし、いまはただ眠いだけなのだ。
直子は、一週間ほど前から健一のいない頃を見計らってかかってくるこの無言電話のことを、考えるところがあって彼には告げていなかった。だから健一は電話の相手から聞かされてでもいないかぎり、直子が悩まされ続けているこの電話のことを知らないはずだ。ただ今日の電話はこれまでとは少し様子が異なっている。相手は明らかに健一がアパートに居ることを知りながら電話をかけてきているのだ。いやそうに違いない、と直子は直感した。だとすればこの電話はこれまでよりも一歩も二歩も進んだ相手からの挑戦状ということになる。
もう少しの辛抱なのだから、とくちびるを噛みしめながら、直子も無言で電話の向こうにいる相手の出方を凝っと待ちつづけた。どんなに辛くてもこちらから先に電話を切ったり、感情が昂ぶるままに相手を詰ったりすることだけは意地でもするまい、と心に決めているからだ。それが今の直子にできるたった一つの抗議の方法だったし、わたしは絶対あなたなんかに負けたりしない、という相手への強いメッセージにもなると信じている。
無言の対立は二分ほどで終わり、いつものように不快な途絶音を残していきなり向こうが電話を切った。誰かを追い立てるような切れ切れの途絶音からは相手の苛立ちや嫉妬心がビンビンと伝わってくる。直子は無意識にサイドボードの上の置時計を見た。午後十二時二十分を過ぎたところだった。
それから一時間ばかりして、直子が店に出る仕度をしていると、健一が寝不足で黒く浮腫んだ顔のままベッドから起き出してきた。直子の店は火曜日が定休日なので今夜も仕事がある。だが健一の店はサラリーマンや社用族が相手のラウンジだったから日曜日が休みなのだ。
「もう出かけるのか」
パジャマ姿の健一が両手を天井に突き挙げて大きな背伸びをしたあと、欠伸を噛みころしながら直子へ声をかけた。
健一がアパートの鉄扉をそっと開けて帰宅したころ、真夏の朝は雨とはいえすでに明るくなりはじめていた。ベランダから差し込むその薄明りの中で、部屋の蛍光灯も点けないで慌てて着替えをしたからだろう、健一のパジャマのボタンが一つずつ掛け違いになっている。直子はそのときすでに微睡みから目覚めており、お帰り、と短く声かけをしたのだが、時刻も時刻だったのでそれ以上の会話はしなかった。
「最近はすれ違いが多くなったわね。ゆうべも一時間以上は待っていたのよ。もう少し早く帰れないものなの」
直子は、スツールに腰掛けてシャワーを浴びたあとの髪の毛にドライヤーの風をあてながら、三面鏡に映っている右肩越しの健一に向かってそう言った。それでも待ち惚けを食わせた理由については訊ねなかった。
「こういう不景気なときはあのクラスの店が繁盛するんだよ。以前なら北新地へ行っていた客も流れてくるしね。これまでのように派手じゃなくなっただけで、仕事や人の付き合いは飲まないと始まらない面があるから、どこかが賑わうように出来ているのさ。もっともあのクラスの店がどこもそうだというわけじゃないよ」
それは同じ飲食業に携わる者として頷けたから、健一は別に苦しい言い逃れをしているわけではないと直子は素直に思おうとした。
「健一のお店はそんなに忙しいんだ。確かに北新地ほどお勘定は高くないし、啓子ママってすごく魅力的だものね」
「あれ。直子は啓子ママのことを知っているの」
「えっ、うんまあね。いつだったか筒井さんと連れ立って北海亭へ食事に見えたときに紹介してもらったのよ」
「筒井さんてチョウさんのことかい」
「そうよ。筒井さん、いえチョウさんは北海亭にもう二十年近く通ってきている大のお馴染みなんだそうよ」
「そういえば啓子ママもチョウさんとは開店前からの馴染みなんだって言ってたな。あの人はどこの店へ行っても顔なんだ」
直子は啓子だけでなくチョウさんまで知っているのかと驚きながら、健一はそのチョウさんこと筒井守からいきなり呼び出しを受けており、夜には梅田で会うことになっているのだ、ということを直子に打ち明けるべきかどうか迷った。
そして店ではいつも飲んだくれているチョウさんの赤ら顔を健一は思い浮かべた。筒井守は、業界では中堅どころの広告代理店の営業部次長だということだったが、そんな肩書きや本名よりキタやミナミではチョウさんという通称のほうが通っていて、次長とはいえ一介のサラリーマンだから高級クラブは無理としても、五年も商売を続けている飲食店なら知らぬ者はないと言われている名物男なのだ。チョウさんは女よりも酒のほうが、とりわけ日本酒が好きだったから、いつも酔っ払ってどこかの店でとぐろを巻いているということだった。「でもね、それって本当のチョウさんの姿じゃなくって、いざという時は度胸がデンと座った凄い人になるらしいのよ」と、いつかホステスの京子がうっとりした表情になって、ママの啓子から仕入れたという噂話を健一に教えてくれたことがある。
ママの啓子はしばらく東京で売れないTVタレントをしていたが、その仕事に見切りをつけて大阪へやって来たとき、高知に住む父親に泣きついてまとまった資金を出してもらい、小さなラウンジバーを経営したいと考えた。そこで啓子はまず水商売の経験を積みながら開店の準備をしようと小さなバーに勤めたようだ。チョウさんはそこでも古い馴染み客の一人だったのだ。ところがいざ居抜きの空き店舗を探そうという段階になって、啓子はとんでもないトラブルに巻き込まれてしまう。周旋を依頼した不動産屋から偽の営業権利書をつかまされ、多額の権利金を詐取されそうになったばかりか、骨までしゃぶるという仲間の地回りの手で、風俗へ売り飛ばされかねない事態にまで追い込まれたのである。高知で生まれ、夢破れて東京から流れてきたばかりだから、大阪にも親しい知人など一人もいない啓子は、さんざん悩んだすえに人柄の良さそうな客のチョウさんへたまたま相談をもちかけた。啓子にしてみればただ自分の悩みを聞いてほしかっただけで、何らかの期待をかけていたわけではない。ところが彼女から熱心に話の巨細を聞き出したチョウさんは、しつこくつきまとってくる地回りや悪徳不動産屋がからんだそのトラブルを、ふだんの彼からはとても想像できないような鮮やかな手並みでまたたくまに解決してしまったというのである。
ホステスの京子はそんな受け売り話を健一に長々と聞かせたあとで、少し悔しそうにこう付け加えたものだ。
「だからそれから啓子ママはチョウさんにぞっこんなのよ」
筒井守ことチョウさんとはそういう男だった。昨夜も店のカウンターへ腰掛けるといきなり「きみ、明日は休みやろ」と声をかけられ、今夜、梅田で落ち会うことをあっさり約束させられてしまったのだが、そのチョウさんが自分に一体どういう用件があるのだろうと、健一はずっと気になっていたのである。
「チョウさんのことで話が横道にそれてしまったけど、こんな不景気なときに啓子ママのお店だけお客が一杯だなんて信じられないわね。若くて綺麗だし、まだ素人っぽいところが魅力なのかしら」
「それだけじゃなくてこんな時は客の居座る時間も長くなるんだ。みんな、もう一軒くらいはハシゴしたいな、という思いをじっと堪えているんだろうね。店のほうもどんどんお客が来た頃は適当な時間がくると無理にでもお引き取り願ったけど、今はやはり有り難いなという気持ちがどこかにある。それに水商売の常で今日忙しいからといって明日もそうだという保証なんかどこにも無いわけだから、時間がきてもなかなか帰ってくれとは言い出しにくくてね。ひどいときには閉店近くにやって来たお客まで受け入れるときがあるんだから」
「ふぅーん」
話題がもとに戻ってしまったので、健一はつい直子へ、今夜チョウさんと会う予定になっているのだ、ということを言い出しそびれてしまった。用件は分からないが、まあ話を聞いてからでもいいや、と健一は大あくびをしながら思う。
丸いスツールに腰掛けた直子は、肩までの長さのストレートな髪の毛を小首を傾げながら熱心にブラッシングしている。ベランダから射し込む外光で仄かに透き通った耳朶が、豊かな髪の毛をかきあげるたびに波で洗われる渚のさくら貝のように見え隠れする。シャワーを浴びたばかりだということもあって、化粧をする前の直子の肌は二十二歳の若さを誇るようにぴんと張って輝いていた。大き目のバスローブの前が膝頭の辺りで割れて、すんなりと伸びた素足が太腿の一部まで剥き出しになっている。そんな直子を見ていると、からだの一部が自然と熱を帯びてくるのを、健一は抑えられなくなってしまう。
「まだ午後二時前だろう。ぼくは定休日なんだし、そんなに急いで店へ行くことないんじゃないの」
そう言いながら、健一は髪の毛を後ろで束ねようとして両手を上に持ち上げた直子をいきなり背後から抱きしめた。
直子は何ら抵抗もせず少し身体を捩っただけで、健一にその身を預けたままゆっくりとヘアバンドを髪束に巻きつける。健一の右手が素早く襟元からすべり込んでくると、ためらいもなく直子の左の胸のふくらみを柔らかく掴んだ。最近の彼の不審な行動や連夜にわたる待ち惚け、それに無言電話のことなどを思うと鳥肌が立っても不思議ではないというのに、直子はそんな健一の身勝手な行為をいつものように自然なかたちで受け入れている自分に驚いていた。
「今日は新しい仕込みがあって三時にお店へ入る約束なの。それに雨が降っているから早めに出かけないといけないし」
「三十分もあればできるじゃないか」
「そんなのいやだわ。だったらどうしてもっと早めに帰ってくるとか、早めに起きてくれないのよ」
「さっきも言ったように忙しいんだから仕方が無いじゃないか」
「健一はこのごろ少し変よ」
「どこが変なのさ」
「自分でそう思わないのならいいわよ。わたしの思い違いなんだから、きっと」
「なんだかすごく気になる言い方だな。言いたいことがあるんなら、はっきり言ってくれよ」
「だからもういいって。それよりこんな半端な時間に起き出してきたりして、今日はどこかへ出かける予定でもあるの」
「うん。夕方、梅田で人に会う約束があるんだ」
「誰と会うの」
「直子の知らない人だよ」
「そう」
健一はそんなふうに直子から問い詰められると、なぜか言い出せないような不思議な気分に襲われて、ほとんど喉のあたりまで出かかっていた隠す必要もないチョウさんの名前をまた云いそびれてしまった。シャワーのあとのしっとり感が残る直子の温かな胸からゆっくり右手を引き出すと、健一は白けた表情になって何となくベランダのほうへ向かった。
きれいに磨きあげられたサッシのガラス越しに、この夏初めての雨が降っていた。アパートの周りには立派なビルが連なっている。僅かに残った空間にはいわゆるバブル経済の時期に立退く機会を失ったり、頑固に居座り続けたままになっている民家や商家が残っている。折り重なるビルの向こうに、ひときわ高く聳える新梅田シティビルが靄ってみえた。凱旋門のように最上階でつながる二棟のビルは、まもなくその連結部に空中庭園を持つ近代的なオフィスビルになる。だが二年前までならともかく、あれだけ巨大なビルを埋めるだけの企業群がいま果たしてあるのだろうか、と細かな雨をみつめながら健一は思う。
由香利の住まいはその新梅田シティのすぐそばにあった。
豪華なつくりの新築高層分譲マンションで、北新地では売れっ子の部類に入るホステスの由香利は、しっかり貯めこんだお金で住宅価格が急騰する前に現金買いしたのだといつか自慢していた。由香利は2ヵ月ほど前に馴染み客に連れられ初めて啓子のラウンジへ来たのだが、それいらい北新地の店がはねてから一人で飲みに来るようになった。健一は由香利が4度目に店へ来たときに食事へ誘われ、勤めが終わってから阪急東通りにある寿司屋へついていった。ただ、その夜の健一は由香利から勧められるままに高価な寿司をつまみながらも、すぐ近くの深夜喫茶で待っている直子のことのほうが気にかかって、からだを摺り寄せながら熱っぽく語りかけてくる由香利の話を上の空で聞いているだけだった。ところがそれから何度か食事や深夜バーに付き合っているうち、マンションまで送らされる羽目になり、今では男と女の関係になってしまっていたのである。
健一はそんな関係になりながらも由香利という女が好きになれなかった。どこかにまだ未熟さが残っている直子とは違って、噎せかえるような女の魅力に引き摺られているに過ぎなかった。北欧風の豪華な家具や調度品で飾られたマンション。その数倍もお金をかけたベッドルーム。誰かとセックスをしていないときっとわたし死んでしまうわ、と言ってはばからない由香利は、健一をベッドへ引き入れるとあらゆる性のテクニックを駆使して彼を責め立て、自らもそうされることを要求した。健一はそのたびに新たな性技や快感を教えられて、由香利のからだの中で溶けてしまいそうになる自分を感じるのだが、一方では全身の毛穴が塞がれて窒息してしまいそうな息苦しさと、ひとつ間違えば馬乗りになったまま由香利を絞め殺してしまいそうな激しい嫌悪すら感じていたのである。由香利は二十八歳と自称していたから、それが事実なら健一より四歳の年上ということになる。
「何を見ているの」
直子がお気にいりのシルクの白いブラウスに腕を通しながら健一のそばへ寄ってきた。二人が並ぶと小柄な直子は背の高い健一の肩の線にも届かない。
「あのビルも、まもなく完成するんだなあと思って」
「そうね。わたしたちが知り合ったときにはまだ鉄骨が半分も組み上がっていなかったものね」
「そうそう、思い出した。あの日も雨が降っていたよ。一体この場所に何が建つんだろうって二人で話し合ったけれど、あんなばかでかいビルが建つなんて想像できなかったなあ」
「ビルもそうだけど、あそこを二人で歩いた頃は、こうして健一と一緒に暮らすようになるなんて、やっぱり想像できなかったわ」
「あれからもう一年以上が経つんだね」
健一はそこで生唾を吞み込むと遠くを見つめたまま言葉を継いだ。
「直子は今でもぼくが好きか」
一緒に暮らすようになってからは初めて聞く言葉なのに、直子は別に驚きもしないで健一の右腕をしっかり両手で抱え込んだ。
「好きよ。誰にも負けないくらい」
短いけれどきっぱりとした答えだった。
そういう自分が悔しくないと言えば嘘になるけれど、直子は今の健一の心の中が手に取るように分かるだけに、決して彼を突き放したり追い詰めたりしたくないと思う。健一は後悔しはじめている。いや少なくとも迷いはじめている。そうよ今なら許してあげる、今ならまだ間に合うのよ、という言葉を呑み込みながら、直子は健一が発するであろう次の言葉を待った。しかし、かすかにからだを震わせた健一は、そうか、とつぶやいたきり押し黙ってしまった。
「梅田で人に会うんだったら遅くなるんでしょ。だったら今夜はお店まで迎えに来てくれないかな、喫茶店じゃなく」
「日曜だからバーやスナックはほとんど閉まっているからね。終わったら店に電話するよ。出来るだけ迎えに行くようにする」
「今日は二人で早く家に帰って、しようね」
「うん」
そう言って頷きはしたものの、健一には、チョウさんと会ったあと訪ねる約束になっている由香利のマンションとその後のことを考えると、直子を店へ迎えに行ける自信もアパートへ早く帰れる自信も無かった。
「お帰りぃ・・」
店の名前を太い藍染め文字で抜いた暖簾をくぐると、気持ちがいいくらい太った女将の声がすかさず客にかかる。
JR大阪駅のガード下は一部が二層の飲食街になっている。その上階にあたる部分、つまり線路の真下にあるこの小さな居酒屋は、店に入ったときの「お帰り」と帰るときの「行ってらっしゃい」という掛け声が独特で、それに合わせた家庭料理を売り物にしている。馬蹄形のカウンター席のほかに僅かばかりの椅子席があるが、二十人も入れば身動きすらままならなくなってしまう小振りな店である。健一の郷里の高知なら皿鉢料理を載せたくなるような大皿が何種類もの家庭料理でそれぞれ山盛りにされ、カウンターの上へせり出した陳列棚がしなりそうなくらいに幾つも並んでいる。関西料理は薄味だと言われるがそれは間違っている。京料理は確かにそうなのだが、料理の目的や使う素材によって濃いも薄いも縦横に使い分けるというのが関西流であり、その代表が大阪なのだ。だからこの店の一品料理も酒のあてには申し分ないくらいに煮汁の味がしっかりとしみこんでいる。
「よう来たか、健ちゃん。こっちや、こっちや」
店へ入ると、いちばん隅っこのカウンター席から野太い声で呼ぶチョウさんこと筒井守の姿がすでにあった。
チョウさんはどこの店に行っても必ず隅っこへ座る性癖がある。健一はいつかその理由を訊ねたことがあるが、ただ俺が不精なだけや、と言ってチョウさんは目尻の下がった人なつっこい顔で笑ったきりだった。どうやらそれは、新しい客のために席を詰めたり替わったりする面倒が省けて都合がよいから、という意味のようである。
「もういらしてたんですか。遅くなってすみません」
「いやなに。早いとこ酒が飲みとうなって俺が勝手に来ただけや。すまんけどお先に飲ってるで」
すでに赤い顔になったチョウさんは鱈子の煮物と筑前煮の小鉢を前にして早くも二本目の銚子を空けにかかっている。
「健ちゃんは日本酒もいけるのか」
「ええ、いただきます」
「そうやな、バーテンダーかて日本酒もいけるわな」
四角い籐の椅子に腰を落とすのを待ちかねるように、健一に向かって銚子を突き出したチョウさんがたたみかけるように言った。
篭の中に山盛りになったぐい呑みの中からちょっと小振りなやつを択んで、健一は緊張でちょっと震えている手をおずおずと前へ差し出した。チョウさんが慣れた手つきで酒を注いだあと、さっと銚子を自分の手元へ引き寄せると、ぐい呑みの酒は溢れるかどうかというぎりぎりの線で止められていた。
「せっかくの休みの日に呼び出したりしてすまんかったな。悪う思わんといてや」
「いいえ、店が休みだといつも暇を持て余していますから。誘ってもらったりして、ぼくのほうが恐縮しています」
「ともかく飲もうや。話はそれからや」
チョウさんは笑顔を崩さずにそう言うと、新しく追加註文した銚子の首をつまんで目の前でぶらぶらさせながら、まだ一杯目も飲み干していない健一をしきりにせきたてた。それからもチョウさんはひとしきり健一に料理を勧めたり、好みの品を訊ねては太った女将へ註文を出してくれたりと、細々と世話を焼いてくれるのでいよいよ健一を委縮させた。40歳も半ばといえば健一には父親ほどの年令である。そのうえ勤務する店のお馴染みで、啓子ママの大切な人だ、とホステスの京子から聞かされているのだから尚更だった。急いで飲み干した酒が気管支にひっかかって、健一は初めて酒を偸み呑んだ高校生のように激しく咳き込んだ。驚いたチョウさんがすかさず大きな手のひらで背中をさすってくれる。どうやら今夜は全てにおいて分が悪いような気がするな、と健一は目尻に溜まった涙を握りこぶしで拭いながら恨めしそうにチョウさんの顔を窺った。だがチョウさんは武道の心得がありそうな固くて引き締まった手のひらで最後にドンと健一の背中をどやしつけると、小鯵の煮付けを運んできた女将を相手に雲仙普賢岳がどうしたとか、接近しつつある台風がどうのといった話をしはじめた。耳をすまして聞いていると、九州島原というのは女将の出身地で、それを知っているチョウさんが、依然として噴火や土石流の不安が残っている女将の実家の辺りを心配してあれこれ訊ねているようだった。陽気だった女将もその時だけは少しばかり表情を曇らせて、一度だけ実家の様子を見に帰ったけれどそれはそれはひどい状態でね、わたしらが遊んだ川や野原がまるで見分けのつかない状態になっていたわ、としんみりした口調で答えた。だが上の線路を走る列車の車輪音が店の梁と天井を揺さぶりはじめると、あっという間に二人の会話を掻き消してしまった。
「ところで健ちゃんは何処の出身やったかいな」
女将が向こうに行ってしまうと、チョウさんは箸の先で鱈子の一切れをつまみながら健一にたずねた。
「高知です。阪神タイガースのキャンプ地で有名な安芸市の近くですよ。あっ、すみません。チョウさんはジャイアンツのファンでしたよね」
「かまわんよ。俺は生まれも育ちもずっと大阪やからな。これでも少しは後ろめたい思いをしてるんやで」
健一が言ったように、筒井守は生粋の大阪っ子でありながら東京読売ジャイアンツのファンだった。というより長嶋茂雄という男の魅力にとりつかれた世代の一人で、飲めばむろんのこと素面のときですら長嶋の話題になるとエンドレステープになってしまう、と皆から呆れられたほどで、そのために筒井はいつの間にか現役時代の長嶋の愛称だったチョウさんという愛称で呼ばれるようになったのだそうだ。健一や直子のような若者には長嶋茂雄などと言われてもピンとこない。だからホステスたちが面白がって愛称の由来を訊ねても、今ではチョウさんもなかなか話に乗ってこなくなってしまったが、彼がそれほど惚れこんだくらだからきっと途方もなく偉大な男だったのだろう、と健一は思っている。また、その長嶋茂雄がまもなく二度目の監督としてジャイアンツに戻ってくるのではないか、というニュースが最近のスポーツ紙をにぎわしていることくらいは健一でも知っていた。
ママの啓子から筒井の愛称の由来を聞かされたとき、健一は聞きかじりの知識ながら今のプロ野球界にはそういう動きがあることを教えてやった。すると野球のことなどまるで知らない啓子は「へぇ、そうなんだ。もしそうなったらあの人、きっと大喜びするわ」と言ってはしゃいだものである。
「ああいま思い出したよ。いつか啓子ママが、健ちゃんとは同県人なんよ、と言うてたんを。土佐のいごっそうなら酒は強いはずやないか、遠慮なんかせんでじゃんじゃん飲んでくれよ」
「チョウさんは大阪生まれだそうですね」
「そうや。ただ大阪と言うても生まれたところは端っこのほうで、大阪の北海道と言われるくらいの寒うて辺鄙なとこでな。いや違う。軽井沢やと言うてくれる人もおるんやで。昔は狸や猪がおったくらいやから、健ちゃんの故郷よりもっと田舎かもしれんなあ。俺はそれが嫌で高校から町へ出てしもうたけど」
健一は故郷の息苦しさを嫌って大阪へ出て来た自分とチョウさんが同じなのだと知ってひどく身近かに感じた。
「田舎に家はまだあるんですか」
「あるどころか両親ともにいまだ健在や。兄貴夫婦がずっと面倒をみてくれてるけど、こんな飲んだくれで出来損ないの末っ子を持って因果なこっちゃ、と思うてるやろな。ただこの歳になると妙に田舎が懐かしゅうなることがあってな。最近はふらっと帰ることも増えたから、やっと親孝行の真似事をする気になってくれた、と言うて喜んでくれてるらしい」
チョウさんは急に真面目な顔になると、店の入り口に近いカウンター席で他の客と笑いこけているどこまでも陽気な女将さんのほうをしばらくみつめていた。まだ健在だというチョウさんの母親とどこかが似ているのだろう、と健一は思った。
そんな健一も小鯵の煮付けを齧ってチョウさんの横顔をみつめながら、高知から特急フェリーに乗って大阪へ出てくるとき、桟橋から今にも海へ落ちそうになりながら手を振っていた母親の姿を思い出していた。あれからもう六年の歳月が経ってしまったが、その間にまだ三度しか郷里へ帰っていない。最後に父や母と会ったのは直子と知り合う前だったから、健一はすでに二年近くも親の顔を見ていなかったのである。だから父も母も直子のことは知らなかった。
「健ちゃん。ところで今日わざわざこんなところへ出て来てもろうたんは、あんたと北海亭の直子ちゃんのことなんやけどな」
真面目な表情を崩さないまま、チョウさんは健一に向き直ってそう言った。
昨夜から健一は、歳の離れたチョウさんが自分などにいったいどういう用件があるのだろうとずっと気になっていたのだが、どうにも思い当ることがなかった。しかし、それが今まったく考えもしていなかった倉田直子に関することだと知らされて、からだに震えがくるくらいの衝撃を感じていた。これまであまり見たことのないチョウさんの硬い表情がさらに健一の不安をあおった。
「このさいやからズバリ言うけどな。あんたはいま北新地の由香利というホステスと付き合うとるやろ。直子ちゃんと一緒に住んどりながら、それはいったいどういう了見や。今日はそのことが聞きたかったんや」
「・・・」
あまりにも単刀直入な問いに、健一は度胆を抜かれて何をどう答えたらよいのか分からない。お世辞にも回転が速いとはいえない頭の中がいきなりかっと熱くなって、いつもは穏やかなチョウさんの顔がまるで赤鬼のようになって眼前に迫ってきた。
「由香利のことは俺もよう知ってる。それほど悪い女やないけどあんたのような男には向かん。いや、向く、向かんというより、あんたには直子ちゃんという夫婦同然に暮らしてる大事な恋人がおるやないか。ほんまに直子ちゃんのことが好きなんやったら由香利とは早いとこ縁を切るこっちゃ。直子ちゃんはなあ、可哀そうに、もう、あんたの浮気に気ぃついてるんやで」
「えっ、直子が知ってる・・」
「そうや。最近では由香利のやつ、図に乗ってきたらしく毎日のように嫌がらせの電話をアパートに掛けてくるそうや。あんたはそんなことも知らんのやろ」
「・・・」
「ことわっておくけどな。これは直子ちゃんが啓子ママのところへ相談にきたという話をちょっと耳にして、俺が勝手なお節介を焼いているだけで、もちろん直子ちゃんに頼まれたわけや無いから誤解せんようにな。そやけどな。俺も北海亭の古い客であの店の身内も同然やから、直子ちゃんとはあんたより前からの知り合いなんや。専門学校の頃からアルバイトで一生懸命に働いて、卒業後は一日も早う北海亭のコックになろうとしてるのを見てると、どっちも知っている俺としてはやっぱり放ってはおけんのや。健ちゃん、一体どうするつもりやねん。由香利とは本気なんか。直子ちゃんに悪いとは思うてへんのか」
気がつくと、チョウさんは酒杯と箸をいつのまにかカウンターの上に戻して、きちんと膝の上で両手を揃えていた。その姿を見た健一は、背筋すら伸ばさない崩れた姿勢で彼の話を聞いていた自分が恥ずかしくなった。
「直子ちゃんも頑張ってるけど、あんたかて今では一人前のバーテンダーになった。たった一年でここまでようやったと俺は思うよ。啓子ママには悪いけどラウンジなんかに置いておくのは惜しいくらいの腕前や。この世界のことなら知らんことのない俺が太鼓判を押すんやから自信を持ってくれてもええで。二人とも若いんやからその立派な腕を生かしてこれから大きな仕事をせなあかん。二人で早う金をためて、店の一軒も持つくらいのことを考えたって罰はあたらへん。それが直子ちゃんの夢やということくらいあんたも知ってるはずやないか。そんな大事な時期やというのにいったい何ごとやねん。こんな阿呆をやりくさって。俺はな、それが悔しゅうてたまらんのや。あんたがそれでもまだ由香利と付き合うと言うんなら、たとえ直子ちゃんが許したとしても俺が黙ってへんで」
健一はひとことも答えられずにただ青ざめて俯いている。
低い店の天井を伝って間断なく聞こえる轟々という列車の車輪音が、そんな健一の錯乱した頭の中をめまぐるしく駆け抜けて行った。野太い声だが少しも脅迫的には響かず、ずんずんと心の奥底へしみ込んでくるようなチョウさんの忠告を、健一は軽い目眩すら覚えながら聞いていた。
「どうや、健ちゃんは今でも直子ちゃんが好きなんやろ」
「・・好きです」
自分がしていることを考えるとすぐには口にできなかったけれど、絞り出すような声で健一はなんとかそう答えることができた。
チョウさんはそれまでずっと黙って待っていてくれた。好きです、この四文字がいま彼の前で口に出せなかったら直子とはきっと別れることになる、健一はそのとき夢から覚めたようにそう直感したのだ。
「由香利とどっちが好きや」
「それは直子のほうです。くらべるなんてことはできませんが・・」
まだ声はかすれていたけれど、健一は胸の痞えがスッと取れたように今度はすぐさま答えることができた。
「よし分かった、それでええ。俺はあんたを信じる。ほんなら由香利とはすぐに別れられるんやな」
「はい。でも由香利さんのほうが簡単に別れてくれるかどうか」
「そのことなら俺に任せとけ。あんたさえその気なら、今後あんたと直子ちゃんには一切手を出さんよう、俺が由香利と会うて話をつけてくる。それでええな」
「申し訳ありません。そんなことまでお世話をお掛けして」
「いや、よかった、よかった。健ちゃんが深みに嵌まる前でほんまによかったわ。俺もこれで直子ちゃんの泣き顔を見んでも済むし、余計なことをするからかえって話がこじれたやないのと言われて、啓子ママから叱られんでも済む。さあ、そういうことなら改めて二人で乾杯しようやないか。今夜は徹底的に飲むからな、最後まで逃げんと俺に付き合うんやで。おっと、そない心配せんかて北海亭が終わる頃までには解放したるさかい」
半袖シャツの第一ボタンを外してネクタイをゆるめながら、チョウさんはいつものように「酒や酒や、もっと酒を持って来んかい」を繰り返した。
日曜日で会社は休みなのに、こんな話をするためにきちんとネクタイまで締めてきてくれているところがいかにもチョウさんらしい。優秀なビジネスマンとしての昼の顔と、飲んだくれでお人好しで世話好きな夜の顔、それに時おり見せる相手を射竦めるような凄味のある顔、どれもこれもが筒井守ことチョウさんが持っている顔なのだ。健一は今夜はじめて啓子が惚れ抜き、京子までがうっとりするチョウさんの魅力の一部に、自らの手で触れたような気がした。
おそらく直子は啓子ママへ相談を持ち掛ければ必ずチョウさんが乗り出してくれると予測していたのだろう。啓子ママもまた、その話をほんの少し洩らすだけでチョウさんは間違いなく解決に向けて動き出すだろう、と計算を立てていたに違いない。見方を変えればチョウさんは女二人から上手に操られたと言えなくもないが、そうではなく彼は、女たちが揃って期待したことを裏切ることなくきちんとやってのけただけなのだ、と健一は思う。
直子はこの一カ月あまりのあいだ素知らぬ顔をして耐えていた。自らの言葉や態度で健一を追い詰めることの愚かさと危険を避けて、ひたすらチョウさんが動き出してくれる日を待っていたのだ。健一はそんな直子のたくらみに腹を立てるより、二人の愛を壊さないための方策に心を砕いてくれた思いやりのほうに強い感動を覚えて、心からすまないと思った。
「ところで健ちゃん。あんたの浮気が何でばれたんか分かるか。それにその相手が北新地の由香利やということまで、なんで分かったんか不思議に思うやろ」
チョウさんは、この味は店の一品の中でも最高やで、と言って、註文したばかりの小芋の煮っころがしを箸の一本で突き刺して口に頬張りながら、いかにも面白そうに健一の顔を眺めた。
「いいえ分かりません。なぜですか」
「その秘密はな、香水にあるんや」
「香水・・」
「そうや香水や。直子ちゃんはそんなもん付けてへんけど、由香利はいつも香水を付けとったんや。それもフランスの何とか言う高級でややこしい名前の香水やったけど、もう忘れてしもうた。その同じ香水の匂いがいつも健ちゃんのワイシャツへ移っとったんやなあ。直子ちゃんは味覚だけや無うて嗅覚も鋭いから、ほんのちょっとの香りでも誤魔化せんかったはずや。健ちゃんかて夜の商売なんやから、たまには女の匂いが移ることもあるやろ。そんなことくらいで直子ちゃんも目くじら立てることはあらへん。そやけどいっつも同じ香水の匂いをさせて家へ帰ってこられたら堪らんわなあ。同じ女を抱いてると自分から白状しているようなもんやないか」
「・・・・」
「ところが直子ちゃんの話やと、あんたは真逆でまったく鼻がきかんそうやないか。俺も似たようなもんで公園のトイレに入ってさえ臭いとは感じんほうやから、香水みたいな微妙な匂いとなるとまったくのお手上げや。まあおかしなところに落し穴があったわけで、お互いこれからは気いつけんとあかんなあ」
「由香利さんの香水の匂いが移っていたなんて、そのために直子が由香利さんとの浮気に気がついたなんて、ぼくにはどうもまだそのつながりがよく呑み込めません」
「それはな、健ちゃんが生まれてからずっと嗅覚というものを失ってたからや。浮気がばれた原因が香水にあったという話は世間に山ほどあって珍しいことやないけど、生まれつき鼻がきかんかったために浮気がばれた今になってもまだそのつながりが理解できんというところがいかにも面白いやないか。もしかしたら健ちゃんはこれまで由香利が香水を付けてたことすら知らんかったんと違うか」
「ええ知りませんでした」
「直子ちゃんかて辛抱してるけど香水のひとつも付けてみたい年頃や。珍しゅうて高価なその香水の匂いくらいは嗅いだことがあるやろし、名前もすぐに分かったはずや。啓子ママへ相談を持ち掛けたときもその香水の話をしたらしい。ママも同じ女やからな、香水の名前を聞いたとたん、浮気相手は由香利に違いないとすぐにぴんと来た。由香利はこれまで何回も店へ来てたそうやないか。健ちゃんがお目当てらしいというのは京子と照美も感じてた言うから、これはもう疑う余地なんかあらへん。謎ときとはそういうこっちゃ」
「そうだったのですか。由香利さんとは食事に連れて行ってもらってからついずるずると・・。本当に申し訳ありません」
全てを供述し終えた容疑者のように健一は両手をきちんと膝についてうなだれた。
「まあそんなに恐縮するほどのことやない」
と言いながら、チョウさんは健一の腕をひょいと持ち上げると、その手にぐい呑みをしっかりと握らせた。
黒く日焼けしたチョウさんの腕は左手の手首から先だけがくっきりと白かった。この人はこんな生活を送りながらいつの間にゴルフなんかしているのだろうと、健一はチョウさんの得体の知れなさにまたもや驚いてしまう。
「ついでにもうひとつだけ健ちゃんに話しておきたいことがあるんや。由香利からは何回も嫌がらせの電話があったということはさっき言うたけど、直子ちゃんが相手をどうしても我慢できんようになったのには、もっと許せん理由と言うか事件があったからでな。こいつにも香水がからんどるんや。一週間ほど前のことらしいけど、直子ちゃんが一人でアパートへ帰ってみたら、驚いたことにその香水がドア一面にぶちまけてあったそうや。ドアの前にはご丁寧に空になったビンまでが転がしてあった。由香利の仕業やということは明らかで、胸が悪うなりそうなその匂いを前にして、可哀相に直子ちゃんはわんわん泣いたそうや。バケツを持ってきてなんべん水をぶっかけても、スポンジでごしごしそのあたりを擦り回っても、なかなかその香水の匂いは消えんかったらしい。香水をビンごとぶちまけたらいったいどんな匂いがするんやろな。健ちゃんや俺にはまるで分からん世界や。それに直子ちゃんには、無言電話だけならともかく、二人が住んでいるアパートへ由香利が乗り込んできて、たとえドアひとつにでも触れて帰ったということが絶対に許せんかった。それが一緒に暮らしている者のプライドというもんや。そのへんの気持ちなら俺にかて分かるし、あんたにも分かるはずや。健ちゃん。どっかの映画のせりふやないけどな、女をなめたらあかんで。わざわざ家まで来て香水をぶちまけよった由香利の嫉妬も凄いけど、それに負けんと打ち克った直子ちゃんの執念はもっと凄い。これからせいぜい可愛がってやらんとほんまに罰があたるで」
チョウさんはそこでまたにやっと笑うと、「さあこれで今日の話は何もかもおしまいや、ゲン直しにもう一軒行こか」と大声で喚いて勢いよく立ち上がった。
〈了〉
香水 歌垣丈太郎 @jo-taro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます