第15話 嬉しかった

「ん? どうかしたのか?」


 その場に固まる俺を前にして、西夏がこちらを見てくる。

 しかし俺には西夏の顔は、視界に入ってこなかった。


 愛南が消えた。

 忽然と。

 音も無く。

 薄暗い水族館で、人の多い中なら容易に出来ることだ。


「愛南が……、居なくなった」


「……え」


「悪い! 探してくる」


「ちょっ!」


 西夏が何か言いかけたが、俺の耳には入ってこなかった。

 俺は間違えを犯した。

 だから愛南に謝らなければならない。

 一刻も早く。


 ―――どこだ。


 西夏と離れてから、一分も経たない内に、愛南を見つけた。

 水槽の絵の前で、クラゲを見ていた。

 ただ静かに。

 クラゲの泳ぎと同じで、静かだった。


「愛南……」


 声をかける。

 水槽に触れていた手がピクリと動いたのが分かった。

 そこからは、ただ謝ることだけを考えていた。

 自分の失言についてを。

 とにかく。


 出てこなかった。

 違う。

 出てくる前に、愛南が先に口を開いた。


「ごめんね……」


 愛南の謝罪。

 手は更に震えている。

 その震えた手を抑えるように、握り拳を作るが、無駄だった。


「なん……」


「キス、しちゃってごめんね」


「………」


 あの日から。

 ファーストキスのあの日から、愛南の様子はおかしかった。

 率直に言えば、暗かった。

 元気に見せようとしている感があった。


「あいなじゃ、嫌だったよね……」


 原因は俺だ。

 愛南が悪い訳ではない。

 俺が、キスについて触れなかったからだ。

 まるで無かったことのように振る舞ってきたからだ。


 男らしく。

 父さんがそうあれと言っていた。

 意味が分からなかった。

 けど今は違う。

 何故男が男らしくあらねばならないのか、今知った。

 男らしくが何なのかも。

 知った。


「嬉しかった」


「え……」


 絞り出した言葉は、一言だった。

 少ないと言われればそうだ。

 だがそれが思いだった。

 率直に思ったこと。


「けど、初めてだったんだ。俺だって……その」


「それって」


「あぁ、俺は愛南に、ファーストキスを奪われた」


「〜〜〜〜ッ!」


 恥ずかしそうに、愛南は口を両手で覆う。

 俺だって恥ずかしい。

 それにかっこ悪い。

 キスを奪う側じゃなく、奪われる側になるなんて。


「けど、嬉しかったのは本当で。でも、本当に初めてだったからよく分からなくて……」


 あぁ。

 何言ってるのか自分でもよく分からない。

 ちくしょう。

 纏まらない。

 だったら――。


「要するに俺は!」


「俺は……?」


「俺は――」


 愛南の顔は、赤く染められていた。

 『あの日』と同じできれいだった。

 後ろに映る、クラゲの水槽は、ゆったりと時間の流れを感じている。

 俺は今止まっていると思った。


 ――止まっている。


「俺は……」


 俺は――。


「北馬! いた! もぉ、探したんだぞ。あ、愛南ちゃん見つけたんだ」


 止まりかけていた時間は、動き出す。

 西夏の登場と共に、重たい空気は、薄れた。

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