ワンダーナイトメアランド

@akamura

ワンダーナイトメアランド

目が覚めると、少女はヨーロッパの宮殿のような、大きくて立派な建物の前にいた。

窓から見える室内にはドレスやタキシードを着た人たちが沢山いて、丸いテーブルには美味しそうなお菓子や見たこともない料理がぎっしりと、しかし見苦しくはない整然さをもって並べられていた。


「美味しそう」


お腹が空いているわけではないが、グルメ雑誌にでも載っていそうな料理につい少女が呟いた時。明るい木の色をした扉が開かれた。


中から現れた人物は白いシャツに黒のベストとパンツを纏っていて、モノトーンで纏められた中、長い金の髪がやけに鮮やかに見えた。

左目を覆うように赤いハートを塗ったその人は、少女に向かってゆっくりと歩いてくる。


覗き見していた不躾を怒られるかもしれない。身をすくめ、後退る少女に、金髪の男性はゆっくりと歩み寄る。


「ご、ごめんなさ」

「お待ちしておりました」

「え?」


高い身を折り曲げて、金髪の男性が恭しく頭を下げる。

思いがけない動作に目を丸くした少女に、男性は白い手袋をした手を差し出した。


「さぁ、どうぞ中へ」

「ぇ、や、あの人違いです、私」

「違いませんとも」


有無を言わさず、男性は少女を扉の中へ引き込んだ。


「まずはお召換えをいたしましょう。2階に衣装部屋がございますので、そちらへ」

「ぁ、あの、私やっぱり人違いじゃ」

「ありません」


やはり有無を言わせる隙さえ与えず、男性は少女を横抱きに抱えあげ階段を上がっていく。

見ず知らずの場所で見ず知らずの男性に抱えられている状況に、少女はすっかり混乱してしまい、されるがままに運ばれていた。


衣装部屋。男性がそう呼んだ部屋には、ドレスやタキシードがずらりと並んでいる。あまりに鮮やかなドレスが眩しくて、少女は目を閉じた。

男性は迷う素振りもなく、少女に一着のドレスを渡す。


サテンで作られた花やレースをあしらった、少し丈の短いプリンセスラインのドレス。胸元や袖の露出も殆どないそれを、少女は両手で受け取る。


「そちらに着替えてください」

「でも私お金ないんです。レンタル料とか払えないです」

「構いません。さぁ、早く」

「ええ……」


相変わらず状況が一切分からない。

けれど部屋から出るための扉は男性の後ろにある。言うことを聞かないと、きっと部屋からは出してもらえない。


「後ろを向いてくれませんか?」

「勿論」


案外素直に背を向けてくれた男性に若干安心しながら、少女はドレスに袖を通す。サイズを図ったわけでもないのに、ドレスは少女にぴったりだった。


「着替え終わりました」


少女に声をかけられ、男性が少女に向き直る。

上から下まで視線を走らせた後、男性はアメシストの瞳を細めた。


「よくお似合いです」

「ありがとうございます」


こんな状況とはいえ、褒められると少なからず嬉しい。少女ははにかみ笑いを浮かべ、男性に会釈した。


「では、どうぞ下へ。くれぐれも、お気を付けて」

「気をつける?」

「ええ、気をつけて」


何となく気になる言葉に若干の疑問を感じながらも、少女は好奇心に抗えず、階下のパーティー会場へと向かった。





「おや、これは可愛いお嬢さん」


フロアへ降りてきた少女に声をかけたのは、デフォルメされた骸骨の仮面を被った、ストライプのスーツの男性だった。

少女に視線を合わせるように微かに身を屈めた男性は、クラブのマークを描いた給仕が運ぶグラスに手を伸ばした。

ひとつは自分で口を付け、もうひとつのグラスを少女に差し出す。


「初めて見るね」

「はい。さっき来たんです」

「それはそれは」


ホールの端には、ソファと丸椅子、長テーブルで作られたスペースがある。

骸骨仮面の男性は少女をソファに座らせ、手近なテーブルにあった料理を皿に盛った。

ソースのたっぷりかかったステーキにマッシュポテト、まだ湯気の昇るパンに、カルボナーラソースのパスタ。どれもこれも美味しそうで、少女は無意識に涎を飲んだ。


「ここの料理はとっても美味しいよ。どうぞ召し上がれ」

「あら、伯爵。そちらの方は?」

「まぁ可愛らしい子」

「はじめまして、でよろしくて?」


露出の高いドレスに身を包んだ女性達が、ごく自然な動作で空いた席に座る。何だかドラマで見るホステスか何かのようだと、少女は体を強張らせた。伯爵と呼ばれた男性は彼女達と知り合いのようで、慣れた様子で会話している。


しかし少女は、とてもではないが会話に入れないし間が持たない。

申し訳ないが食事に逃げさせてもらおうとした時。

離れた場所から、悲鳴が聞こえた。


「⁉」


反射的に立ち上がり、少女は声のした方を見やる。そして悲鳴の理由を捉え、目を見開いた。

血に濡れたズタ袋を被った大男。華やかなこの場にはおよそ似つかわしくない化け物が、血まみれの斧を持って立っている。

その男の血走った、見開かれた目が、間違いなく少女を捉えた。


「―――――!」


その瞬間、少女は今までの人生で感じたこともない強い恐怖を感じた。


あの男は自分を殺す気だ。少女の予感を肯定するように、大男は斧を振り上げ、猛然と少女に向かって走ってくる。


「いや、嫌!来ないで!イヤァア!」


悲鳴を上げて、少女は必死に走り出す。踵の低いパンプスはハイヒールよりは走りやすいが、それでも男の速さには叶わない。

このままでは追いつかれる。一か八か、少女は身を翻し階段へ向かった。


あの衣装部屋なら、上手くすれば隠れられるかもしれない。


相手は今どこにいるのだろう。

振り返った少女の視界に、しかし斧を持った男はいなかった。

思わず足を止めた少女の前に、大きな影が現れる。


「ぇ―――」


それは確かについさっきまで少女を追いかけてきた男だった。

その男が今、少女の前に立ちはだかり、斧を振り上げている。


「ぁ………あ、あああ…………」


駄目だ。もう駄目だ。殺される。

絶対的な死の予感に、血のついた斧を見上げ、少女は立ちすくむしかなかった。




「こちらへ!」


響いた声に、少女が顔を上げる。

2階の踊り場で、少女をここへ連れてきた金の髪の男性が少女を呼んでいた。

しかしこちらへ、と言われても、少女と男性の間には斧を持った大男がいる。


「無理!」

「無理でも来てください!」

「そんな!」

「右に飛んで!」

「え?」

「早く!」


男性に言われるがまま、少女は右へジャンプする。

それとほとんど同時に、少女が立っていた場所へ斧が振り下ろされた。


「ひっ………」

「今です、こちらへ!」


相当な勢いをつけて振り下ろしたらしい斧は、深々と階段の段差に突き刺さってしまっている。大男はそれを引き抜こうと、両手で斧の柄を握っていた。少女のことも、今はその目に映っていない。


階段の手すりを掴み、少女は震える足で何とか階段を上がる。大男の脇をすり抜け、男性に手を伸ばした。

その手を掴み、男性が少女を自分の胸に抱き寄せる。


「目を閉じていてください」

「ぇ?」

「いやこっちのが早ぇか」


少女の目を手で覆い、守るように胸に抱いたまま、男性は大男に駆け寄る。

斧を抜くのに必死で、大男は男性には気付いていない。


自慢の斧が漸く階段から抜けた、その瞬間。男性は大男を蹴り飛ばした。


まるで坂を転がるボールのように、巨体は階段を転がり落ちる。少女を抱いたまま、男性は落下する巨体をじっと見つめていた。

幸いにも途中で止まることなく、膨大は階段の下へと転がり落ちる。

水に挙げられた魚のように痙攣している巨体は、自分の斧に腹を破られて死んでいた。


断面から目をそらし、男性は少女を連れて衣装部屋へ駆け込む。


部屋一面にかかったドレスを物色し始める男性を、少女は体を震わせながら見つめていた。斧を振り上げ自分を襲ってきた大男が、頭から離れない。あと少しで殺されていた。いや、逃げ切れたのが奇跡だ。

どうしてあの男は、いつも自分ばかり狙うのか。


「あれ?」


自分の思考に、少女は目を瞬いた。

『いつも』自分『ばかり』。何故そう思うのだろう。

その疑問を感じると同時、脳内にひとつの光景がフラッシュバックする。


突如現れ、自分を追いかけてくる大男。手を伸ばす給仕は彼ではなくて、スペードをマークがついた男性だった。

そして、斧が刺さって死ぬ大男の姿も見たことがあるような気がする。

これが本当に自分の記憶なのだとしたら―――



「私、あの人を、」

「ああ、知ってるはずだ。5、6回程、君はこの光景を見てるし、何回か殺された」

「死⁉」

「ああ。死体を外にほっぽりだしたから取り込まれずに済んだみたいだけどな」

「でも私、あの人のこと覚えてません!」


あんな衝撃的な体験を忘れられるはずもないだろうに。声を荒らげた少女に、男性は肩をすくめてみせた。


「俺もよく分からねぇが、あいつのトコが記憶のセーブポイントみたいなもんなのかもしれねぇな」

「あいつ?」

「ちょっと変わった奴がいるんだよ。ここじゃないとこに」

「なるほど……?」


よく分からないが、彼がそうだと言うならそうなのだろう。

混乱する頭は思考を放棄している。少女は曖昧にうなずくしかできない。


「さ、て。話も良いがとりあえず着替えだ。……立てるか?」

「だ、大丈夫、です、立てます」 

「そうか。強い子だな」


微笑んで、男性は少女に替えのドレスを渡し背を向ける。

受け取ったドレスに、少女は震える体をねじ込んだ。


少女の着替えが終わるのを見計らい、男性は姿見を少女の前へ置く。


「よし、じゃあ行くぞ」

「え?」

「悪いが時間がねぇ。説明はあとにさせてくれ」

「え、え?」

「さっき話した、変わったやつのとこに行く」


行くってどうやって。今度はどこへ連れて行かれるのか。

目を瞬く少女ににっこりと微笑みかけると、男性は少女を突き飛ばした。


必然的に少女の前に聳える姿見に頭をぶつける―――ということにはならず、少女の体は鏡の中に飲み込まれた。







悲鳴を上げる間もなく、少女の体は柔らかな草の匂いのする空間へ放り出される。

危うく転倒しかけた少女を、男性は片腕で抱き止めた。


「雌猫!連れてきたぞ、新しい迷子だ」


頭上を仰ぎ、男性が呼びかける。頭上の木の葉が微かに音を立てて揺れた。

一体どんな猫が出てくるのだろう。不安げな少女の前に躍り出てきたのは、猫の耳と尻尾を生やした、焦げ茶の髪に赫い目の人間だった。


「ありがとう、アズラエル。いつもすまないな」

「そう思うならお前も来いよ。ドレスならいくらでも見繕ってやるぜ?」

「ありがとう絶対行かない」


からからと笑う、少年だか女性だか分からないその人物を、少女は目を瞬いて見つめる。

にんまりと笑うと、その人物は少女に向かって一礼してみせた。


「やぁ、初めまして。無事で何よりだ。君の名前は?」

「ぁ、アリサ。花森アリサです」

「良い名前だ。俺は希。だけどまぁ、今はチェシャ猫とでも呼んでくれ」

「チェシャ猫」

「この世界に従ってね」


くつくつと笑う希の動きに合わせて、長い尻尾が揺れる。

『俺』ということは、この人は男の人らしい。でも雌猫と呼ばれていた。半ば現実逃避のように、アリサは思考を巡らせた。

そんなアリサを気にした様子もなく、希は楽しげな笑みを浮かべたままに話を進めていく。


「彼はアズラエル。でもお茶会の最中は出来たら名前を呼ばないで。必要のあるときは、ハートのエースとでも呼んでやってくれ」

「ハートのエース」

「給仕さん、とかでも良いぞ」

「さて、アリサ。いきなりだけど、今から3つだけ忠告をするからよく聞いて」

「忠告?」

「この世界で生きていくための最低限のルールみたいなものだよ」


この世界。やはりここは普通の世界ではないのか。何故こんなところに来てしまったのだろう。

表情を強張らせるアリサに、希は歌うように告げる。


「1。お茶会には毎日参加すること」

「お茶会?」

「さっき君が入っていったアレだ。アズラエルが潜入してくれてるから、あそこでは彼が君を守ってくれる」

「ぁ、そうだ。さっきはありがとうございました」

「気にすんな。それより話進めるぞ。雌猫、頼む」

「2。3時になる前に、お茶会から出ること。誰が何をしてきても、何を言ってきても、ね」

「何でですか?」

「多分、説明しても今は意味が分からないし、奇妙極まりすぎて信じられないと思う。時間が出来たら、改めて説明するから、今はそれで許してほしい」

「………分かりました」


埒の開かない問答を続けるよりは、話を進めたほうが良い。そう判断し、アリサは素直に頷いた。

「ありがとう」と笑う猫の尻尾がアリサの頬を撫でる。その柔らかさと温かさに、アリサは少しだけ方の力が抜けた。


「それから、3つ目。ウサギには気を付けて」

「ウサギ?」

「あれだ」


すい、と伸ばされた指が指す先には、隊列を組んだ兵士のような集団がいた。

あれがどうしたのか、アリサは聞こうとしたが、すでに希の姿はない。

目を瞬くアリサの前に、件の集団が足早に駆け寄ってきた。

その集団の先頭に立つのは、白い髪の男。細身のシャツとベスト、パンツに身を包み、髪と同じく白いうさぎの耳を生やした男性は、睨むようにアズラエルを見上げる。


「探しましたよ、まったく」

「失礼。アリスが外へ出たいと仰ったので」

「アリス?あの、私は」

「ここでは、貴方のようにどこからか迷い込んできたお客様をアリスと呼ぶのですよ、アリス」


流れるように割り込んできたうさぎ耳の男の声は、不思議な響きをもってアリスの耳を、いや、全身を震わせた。

アリス。そう呼ばれる度に、奇妙な心地良さがこみ上げてくる。夢現の表情で、アリスは小さく頷いた。


「それにしたって、外に出るにしてもここはないのでは?よりによってあの性悪の縄張りなんて」

「縄張り?」

「っと、失礼いたしました。申し遅れましたが私、時計うさぎと申します」

「時計うさぎ、さん」

「はい。ああ、アリス、あなたが無事で本当に良かった」


瞳を潤ませ、時計うさぎはぎゅっとアリスの手を握る。

一体何をそんなに泣きそうになっているのか、アリスにはさっぱり分からない。

その動揺が伝わったのだろう、時計うさぎは咳払いをすると、小さな子に話しかけるような声色でアリスに告げた。


「ここにはタチの悪い野良猫が出るのですよ。アリスを騙す悪い猫。お会いになりましたか?」

「えっと、」


言い淀み、アリスはちらりとアズラエルを見上げる。

品の良い微笑みを保ったまま、アズラエルは斜めに線を引くように自身の唇を撫でる。

言わないほうが良い、ということだろうと判断し、アリスは首を横に振った。


「いいえ」

「それは何より」


満足げに笑った時計うさぎの、長い耳が上下に揺れる。

薄笑みを浮かべたまま、時計うさぎは不意に少女へ顔を近付けた。


「もしも猫に会っても、あいつの言うことなど信じてはいけませんよ。とても危険ですからね」

「危険?」

「さもアリスを案じているようなことを言いながら、嘘ばかり教えるのです。うっかり信じたら、最悪の場合死んでしまう。ですから、あれを信用なさいませんように」


笑っているはずなのに、時計うさぎの口ぶりには有無を言わさぬ迫力があった。

つい縋るようにアズラエルを見上げるが、彼もまた人形じみた笑みを浮かべるだけで、助け舟は出してくれない。


猫は「うさぎに気を付けて」と言い、うさぎは「猫を信じるな」という。いったいどちらが正しいのか、アリスには判断がつきかねた。


「出会ってしまったら私か、城のものを誰なと呼んでください。あの猫の首を」

「レディの前であまり過激な発言は控えるべきでは?」

「これは、重ね重ね失礼を。ですが、このような場所に長居は無用

、帰りましょう」


時計うさぎが合図をすると、トランプのマークと数字が書かれた人々がアリスを囲む。ものものしい行列の真ん中を歩きながら、アリスは時計うさぎに尋ねた。


「ここは一体どこなんですか?」

「ここは夢の中ですよ、アリス」

「夢」

「ええ。楽しくて、幸せで、何でも願いの叶う夢の中です」

「夢……」 

「ええ」


なるほど、夢ならば少しくらい変でも仕方がない。

納得したアリスに、時計うさぎも満足げに微笑んだ。


そうこうしているうちに、アリスの目の前には再び宮殿が現れた。


「残念ながら、今日のお茶会は終わってしまいましたが……明日もまた開かれますので、どうぞいらしてください」

「え?」

「どうかしましたか?」

「い、いえ、何でもないです」


猫を信じるなと言ったのに、今度は猫と同じことを言う。

不思議そうな顔をするアリスの肩を、アズラエルが優しく叩いた。


「よろしければ、ホテルまでお送りいたしましょう」


アリスが答える前に、アズラエルはアリスの手を取り歩き出す。宮殿が見えなくなってから、アリスはアズラエルに声をかけた。


「本当にここは夢の中なんですか?」

「ああ」

「私、どうしたら良いんでしょう」

「とりあえずお茶会には来てくれ。それ以外は好きに過ごしたら良い」

「………分かりました」

「あの斧男が来る前に、君がウサギに見つかる前に、やっと君をチェシャ猫のトコに連れていけたからな。こっからどうするかはアンタ次第だ」

「私次第」

「ああ。俺達を信じてくれてもいいし、うさぎのが信用できそうならそっちを信じても構わない」


きっぱりと言い放つアズラエルを、アリスは驚いた表情で見上げる。

こういう時は「自分たちを信じろ」と言うものではないのだろうか。


穴が開くくらいに凝視してくるアリスの視線を対して気にすることもなく、アズラエルはアリスに告げた。


「ドレスはそれ持って帰って良いぞ。明日それ着てきても良いし、違うのが来たけりゃまた見繕ってやる」

「あの」

「ん?」

「私、ホテル代もないですけど」

「いらねぇから心配すんな。ほら、ここだ」

「ええ」


アズラエルが足を止めたのは、テーマパークの近くに経っていそうな、上にも横にも大きなホテルだった。

呆然とするアリスにカードキーを渡すと、アズラエルは背を向ける。


「じゃあまた明日な」

「は、はい。ありがとうございます」


アズラエルを見送ってから、アリスもホテルへ入っていった。


用意された部屋はやはり広く、キングサイズのベッドがあった。

ドレスを脱ぐと、アリスはベッドへ横たわる。


(夢の中なのに眠いなんて、変なの)


ぼんやりと考えながら、アリスの意識は微睡みへ落ちていった。








夢の中で眠るという珍しい体験をしたアリスが目を覚ますと、時計は12時半をまわっていた。

慌てて身支度を整え、アリスは昨日の宮殿へ走る。


宮殿の前へ到着したのは、時計が14時を指す手前だった。滑り込んだアリスを一瞥し、アズラエルは安心したように息を吐く。


「ようこそ、アリス。いらっしゃらないかと不安になりました」

「ごめんなさい、ついさっき起きました」

「いらしてくれたならそれでよろしいのですが。―――14時51分。あいつが出てくる時間だ。それまでに帰れ」

「、はい」

「帰れそうになかったら、また助ける」

「ありがとうございます」

「気を付けて」

「はい」



深く頷いて、アリスはパーティー会場へ足を踏み入れた。










宮殿から聞こえてくる、或いは宮殿の傍にいる音楽隊の奏でる音楽を遠巻きに聞きながら、希はその王宮の裏、ひっそりと沈んだエリアに足を踏み入れていた。

王宮や庭園、その他建物の影となり光が殆どささないそのエリアには、国の外へと繋がる橋と扉、そして橋の下には堀がある。

その堀に浮かぶ、宝石のように輝く色とりどりの石。けれどそれらは、14時を過ぎると本当の姿に戻る。血のように赤い水に浮かぶ、白骨化した頭蓋骨へ。


つい、と目を上げると、橋の上には3人の子供が立っていた。そして扉の傍には、いくつもの帽子を被った男が、見せつけるように銀色の鍵を揺らしている。

助けたいが、ゲームが始まっている以上は手出しが出来ない。それに正直、今ここで帽子屋と戦うのは避けたい。

何せ今から向かう場所に入れるのは、14時から15時までの限られた間なのだから。


(どうか死なないでくれ、勇敢な子ら)


子供達を一瞥してから、希は静かに踵を返す。

未だに鳴り続ける音楽に紛れて硝子を割り、体を滑り込ませたのは倉庫のような部屋。仕立て屋の倉庫なのだろうか、様々な色や素材の布が棚一面に並び、6つの机には針や鋏がそれぞれ置かれている。

それだけならば普通の部屋にも見えるが、微かに首を上げれば違和感を感じずにはいられない。

天井の近くをふわふわと漂う10個ほどの風船は、子供部屋にでもあれば馴染むのだろう。しかし仕事部屋のようなここには、あまりにも不釣り合いだ。


この風船には何か意味があるのか。気にはなるが、調べる時間はない。


机の間を縫うように歩き、希は部屋の奥へ歩みを進めていく。

ゆらゆらと揺れる蝋燭だけに照らされた部屋の最奥。そこに蹲る人影。

鈴の鳴るような声で歌を口ずさみながら、人影は何かを作っている。

地べたに直接座り込んだ人影の手元には大きな鎌と、鋏があった。

緩やかなウェーブのかかった、銀にも見える金の髪、その頂には、ハートをモチーフにした冠が乗せられている。


ウサギや帽子屋、フラミンゴ、ドードー、エトセトラ。『アリス』達をこの世界へ引き留めようとする連中の目を盗み、漸く見つけたこの部屋と、この人物。

恐らくは彼女がハートの女王。この世界の支配者だ。


一歩、一歩。猫のように音もなく歩み寄る希に、『女王』は気付く様子もない。


ナイフの代わりに握った硝子で、希は背後から彼女の首を掻き切った。


細い首は大した抵抗もなく切り落とされ、床に転がる。

希が詰めていた息を吐き出した刹那。


「―――――っ!?」


首を欠いた断面から伸びてきたタールのような黒くてどろどろとした触手が、希の手足を絡めとり、右目を抉る。


「ぁ゛ッ―――!」


貫かれた眼窩から滴る血が、『女王』の首からあふれる液体と混ざり、気味の悪いコントラストを描く。

くり抜いた眼球を、触手が一度愛でるように撫でてから、中に取り込んだ。


床に転がり落ちたままの『女王』の頭についた眼球が動き、瞬きと共に希を見つめる。


「いャダ  わ   ビッくリ  したじゃ なイ」

「………!?」


黒い液体をだらだらと零す唇が、微笑みと共に歪な声を吐き出す。

触手のひとつが切り落とされた頭を拾い、首の切り口に押し当てた。


触手の動きが止まった一瞬、希は拘束から抜け出し、『女王』の胸に硝子を突き立てた。

裂かれた胸元からはやはり、血が噴き出す代わりに黒い触手が伸びてくる。


「お前、ハートの女王じゃないのか!?」


自在に姿を消せるが故に首を斬っても死なないのは猫の特性で、ハートの女王にそういった性質はないはずだ。

困惑しながらも、希は体勢を立て直すべく後ろへ下がろうとする。

『女王』の口から、吐息のような声が漏れた。


「だめよ にがさない」


その声を合図にするように、どろどろだった触手が鉱物めいた硬度へ変化する。

鋭利な刃物へ変貌したそれは、希の左腕と右脚を容赦なく切り落とした。


「ッ、ぎ………!ぁ、ア………!」


痛みに見悶える希を、首をくっつけた『女王』が微笑みを湛えて見下ろしている。その手には先程見た銀の鋏が握られていた。


この世界に『チェシャ猫』として溶け込んでいる以上、恐らく自分は首を狩られたくらいでは死なないだろう。しかしだからといって首刈りを享受するつもりもない。



振り下ろされた鋏を回避し、希は『女王』の手に硝子を突き刺した。

ほんの数秒、『女王』が痛みに止まった隙に、希は体勢を立て直し、侵入してきた窓の傍まで飛び退いた。


「痛み分けと行こうじゃないか」



割った硝子の破片を右手で掴めるだけ掴み、狙いも定めずに撒き散らす。

精々目眩ましにしかならないだろうと思っていたそれは、予想以上の働きをしてくれた。

蠢いていた触手が全て、硝子から守るように風船を包み込む。お陰で、希の傍には触手の一本もなくなった。

すかさず窓へ飛び移り、硝子を砕いて窓を開ける。


「では、また。負け猫の遠吠えに聞こえるだろうが、今度は殺してやる」


虚勢を張ってにんまりと笑ってみせ、希は器用にも片足で窓枠を蹴った。









お姫様にでもなった気分だ。


石畳の道を弾むように歩きながら、アリスは上機嫌に鼻唄を口ずさむ。

美味しくて綺麗な食べ物やお菓子、オシャレな洋服や小物、かわいい雑貨、ぬいぐるみ。テレビでも見たこともない花。この街は素敵なもので溢れている。

オマケに、アリスだというだけで周りの人はとても親切にしてくれて、買い物でもレストランでも何かしらオマケをしてくれる。

毎日お茶会に出ないといけないのは正直少し飽きてきたし、例の大男の一件もあってあまり気が進まないのだが、わざわざ忠告をしてくれた彼の善意を裏切りたくはない。


「でも、何で3時までに出ないといけないんだろう」


むしろお茶会というのは、おやつの時間、つまり3時に開くものではないのだろうか。なのに何故、3時に出なければならないのか。もしも出られなければ、一体どうなるのか。再び湧いた疑問に、アリスは足を止めた。

結局あの後、猫とは会えていない。だから、アリスの疑問はまだ晴れないままだった。


街の中心にある時計塔の時計は、13時25分を示している。あと少しで、今日のお茶会が始まる。


「…………試しに、ちょっとだけ残って」

「やめとけ」

「ひゃあああっ!?」


不意に背後から聞こえた低い声に、アリスは抱えていた紙袋を放り投げてしまった。

頭上高くに投げられたそれを、背後に立つ人物が危なげなくキャッチする。


お茶会で見かける姿と違い、長い髪は三つ編みにきっちりと束ねられ、その顔にハートのメイクもない。それでも、端正な顔と長身は見間違えるはずもない。


「ハートの……どうして」

「状況が変わった。悪いがついてきてくれ」


ついてこい、と言っておいて、アズラエルは有無を云わせずにアリスを抱き上げ走り出す。思わず、アリスはアズラエルのシャツを掴んだ。


「状況ってなんですか!?」

「話は後だ。まずアイツのとこに行くぞ」

「わああああああ!?」


一切速度を緩めることなく、アズラエルは脇道の林へ飛び込む。枝がぶつかるのも構わずに進むアズラエルに抱かれ、アリスは身をちぢこめた。

そうして運ばれることどれくらいか。

漸く足を止めたアズラエルは、アリスを降ろすと険しい顔で頭上を仰いだ。


「呼んできたぞ」

「ありがとう。手をかけさせてすまない」


声がしたかと思えば、その声の主は一瞬の間にアリスの目の前に立っていた。けれどその姿は、アリスが知っている姿と少し違う。

左手は肘の少し上から、右氏は膝下数センチ下から。それぞれあるべき四肢がなく、短くなった手足に包帯が巻かれている。

その顔の右半分も、包帯で覆われていた。右目があるべき箇所の包帯は赤黒く染まっている。


大怪我と呼ぶにふさわしい様に、アリスは目を見開き、言葉を失ったま希を見つめる。

ゆらゆらとしっぽを揺らして、希はにんまりと笑った。


「久しぶり、アリサ」

「アリサ?……私、アリスですよ。一文字違いですけど」


くすくすと笑うアリスに、しかし希は笑うことなくアリスの顔を覗き込む。赫い瞳に射竦められ、アリスは息を呑んだ。


「あの」

「本当に?」

「え?」

「君のお母さんとお父さんは、本当に君にアリスと名付けたのかな?」

「………お母さん、と、お父さん………?」


その言葉を口にした瞬間、アリスの頭に、今まで忘れていた家族の姿が浮かぶ。

優しい母、不器用だけど自分を愛してくれている父に、いろんなことを教えてくれる姉。

自分の頭を撫でて、キスをして、抱きしめながら呼んでくれる名前は。


「違う……私、アリサだ、アリスじゃない……!」

「思い出せて何よりだ、アリサ」

「チェシャ猫……ううん、希さん、私………私、何で自分の名前を……」

「この世界はそういうものだからね。怖がることはないよ」

「この世界……ここは夢の中だって、時計うさぎが言ってた」

「うん。ここは夢の世界だよ。ただし任意で目覚めることはできない。これは君の見ている夢だけど、君の夢じゃないようだ」


大きな瞳が不機嫌そうに細められ、尻尾が地面を叩く。

若干怯えながらも、アリサは遠慮がちに手をあげた。


「あの、一つ聞いても良いですか?」

「1つと言わずいくらでも。何かな?」

「どうして、お茶会で3時を越えちゃいけないんですか?」


アリサの質問に、アズラエルと希は目を見合わせる。


「そういや理由は言ってなかったな」

「あれからバタバタして時間がとれなかったからね。ごめんね。説明するね」


苦笑を浮かべて、希は尻尾で木の幹を2回叩く。すると頭上の木の葉ががさがさと音を立て、何かが姿を現した。

エメラルドのような体色にブルーサファイアの模様をもった大きなイモムシが、身の丈ほどもある本を運んできている。

呆気に取られるアリサを見上げ、イモムシは幼虫とは思えない低く落ち着いた声で尋ねた。


「君の名前は?」

「アリサです。花森アリサ。来年から高校生です」


アリサの答えに、イモムシは満足げに頷いて、運んできた本をアリサへ渡す。

分厚くも軽いそれは、所謂飛び出す絵本だった。


1頁目の場面は、アリサも毎日参加しているお茶会が描かれていた。

その絵の真ん中に立つふたりを、希が指で指し示す。


「彼女はスカーレット、この子はオリビア。君の前に来た『アリス』達だ」


名前通り華やかな、胸元の開いた赤いドレスを纏ったスカーレットと、パステルイエローの可愛らしいドレスを着たオリビア。

楽しそうに笑うスカーレットと対照に、オリビアは怯えたような、些か強張った表情を見せている。



「臆病で聡明なオリビアはこの世界を怖がっていた。けれど勇敢で強欲なスカーレットは、すっかりこの世界に魅入られて、俺との約束も忘れてしまった」


淡々と語りながら、希は指で頁をなぞる。すると、絵であるはずの絵本がまるで動画のように動き出した。

パーティー会場を満喫するように歩き回るスカーレットの腕を、オリビアが仕切りに引く。窓の外に見える時計塔の時計は、着実に時を刻んでいた。


「オリビアはなんとかスカーレットを連れ出そうとしたんだが、彼女では力不足だった」


頻りに帰ろうと訴えるオリビアの声はスカーレットの耳には届かず、オリビアの腕力ではスカーレットを引きずって会場の外へ出ることもできない。

或いはスカーレットを見捨てて一人で逃げれば良かったのかもしれないが、お人好しのオリビアにはそれも出来なかった。

そうしているうちに残酷にも、時計の針は進んでいく。


やがて短針が3を指し示し、無情にも3時を告げる鐘が鳴り響く。

その瞬間、ふたりを取り巻く景色が一変した。

料理は一瞬にして腐肉のような色と形に変わって床へ溶け落ち、愛らしいお菓子は人体をバラバラに刻んでミキサーにかけてから皿に盛ったようなグロテスクな塊へ変貌する。

優美な笑みを浮かべていた人々もまた、その姿を変えていた。

あるものは二本足で歩く獣やら爬虫類やらへ。あるものは骸骨へ。またある物は、筆舌に尽くし難い、目をおおいたくなるような異形へ。

仮初の姿を失った化け物達が、ふたりの少女を取り囲む。獲物に食らいつく鳥さながら、化け物達は誰からともなく、無力に震える少女達に飛びついた。


「そうして彼女達はふたりとも、終わらないお茶会の一部になってしまった」


痛みを堪えるような声で締め括り、希は本を閉じる。

アリサはただ呆然と、本の背表紙を見つめることしかできなかった。


あまりに悍しい光景に、頭と心が理解を拒む。

今まで自分は、あんなものを飲んで、食べて、あんな生き物たちと話していたのか。こみ上げてくる吐き気に、アリサは口を押さえて跪いた。


「こんな話を聞かせたあとに送り出したくはないんだが………お茶会の時間だ、アリサ」


希の言葉に、アリサは肩を震わせ目を見開いた。

ほんの数分前まで楽しみだったお茶会が、今は何よりも怖い。失敗したら、自分もさっきの女の子と同じように、お茶会に取り込まれてしまう。

それなら、いっそ。


「もしお茶会に行かなかったら、どうなるの?」


一縷の望みをかけて、アリサは希に尋ねる。


もしかしたら、お茶会には出なくても良い方法があるじゃないか。彼ならそれを知っているんじゃないか。そんなアリサの望みはしかし、次に芋虫が運んできた本により消え失せることとなる。


「その時は、この世界の裏の顔を見ることになる」


芋虫から受け取った本は、今度は絵巻のようなものだった。蛇腹に折り畳まれたそれを、アズラエルの手も借り広げていく。


「14時から15時、それに皆が眠っている時間、この世界は本当の姿を隠しきれなくなる」


先程の絵本と同じく、描かれた絵がひとりでに動き出す。

時計が2時を指した瞬間、やはり先程のお茶会と同じように、世界が色を変えた。


空は毒々しい赤や黒や紫で染められ、建物は鉄骨だけの無残な姿を晒す。朽ちた世界の中、宮殿だけは変わらない。

その宮殿を囲んで、化け物が吠えるように、あるいは喚くように歌い、踊り狂っている。


「や、嫌……何、これ、こんな……」


これでは外にも出られない。お茶会に出るしかない。でも失敗したら、自分もこんな風になってしまう。そんなの絶対に嫌だ。


「大丈夫だよ、アリサ。今までどおりにしていれば、危険なことは何もない」

「―――でも……」

「それに、お茶会の間は、アズラエルが傍にいる。こんなんなっちゃった俺より、今はアズラエルのがずっと頼りになるはずだ」


欠けた手足を広げて見せて、希はにっこりと笑う。


「あの、その体は何でそんなことに?」

「ちょっとしくじってね」

「何を!?」

「話してる暇はあんまりねぇぞ」


時計塔を指し、アズラエルはアリサを誘う。

しかしアリサの足は動かない。

当たり前だ、あんなものを見せられた後で、事件現場とも言える場所に意気揚々と行けるわけがない。


青い顔をして震えるアリサの手を、希がそっと握った。


「必ず君も、他のアリス達も現実の世界へ返してあげる。だから、もう少しだけ耐えてくれ」


笑みを消した真剣な表情で、大きな赫い瞳がアリサを見つめる。震える背中を、アズラエルの腕が支えてくれた。


この世界は訳がわからない。何から何まで怪しくて、おかしくて、嘘ばかりで、怖い。

でも、このふたりのことは信じられる。最初から今までずっと、助けてくれたから。時計うさぎは彼らを信じるなと言うけれど、彼らのお陰で今まで助かってきたのだ。

彼等があと少しと言うならきっと、あと少し我慢すれば元の世界に帰れる。それなら。


「分かりました。私、お茶会に行きます」


涙を拭い、左目しかない希の目をまっすぐに見つめて、アリサは宣言する。

一瞬微笑みを浮かべ、けれどすぐに、希は悲しそうに、あるいは苦しそうに目を伏せた。


きっとこちらが彼の本当の姿なんだろう。確信はないが、アリサはなんとなくそう思った。


「ごめんね。本当は、君たちを危ない目にはあわせたくないんだけど」

「大丈夫です」


本当は大丈夫じゃない。覚悟が決まりきらなくて、まだ少し怖い。

それでも、希を安心させたくて、アリサはにっこりと笑うと、お茶会の舞台である宮殿に足を向けた。


震えそうになる足で懸命に前に進もうとするアリサを、アズラエルが抱き上げる。


「あんた、思ってたよりずっといい女だな。将来が楽しみだ」


美しい男に、微笑みとともに落とされた称賛に、アリサは顔を赤くしてアズラエルの胸に顔を埋める。

梳くように撫でたアリサの髪に口づけを落としてから、長い足を存分に活かして走り出した。








今頃、アリサ達はお茶会へ到着した頃だろうか。

希は相変わらず森の中で、未だ回復しない体の療養に努めている。

とはいえ恐らくは無駄だろうことはなんとなく理解している。この世界の支配者につけられた傷だ、そう簡単には治るまい。


「困ったものだ。これからことを構えるというのに」


ひとりごち、希は小さくため息を漏らした。


肌を刺す鋭い殺気に、髪と同じ色をした耳が小さく震える。

ひどく億劫そうに、希は背を預けていた幹から体を離し、足を置いていた枝へ腹這いに寝そべった。

 

見下ろした先には、長い耳を生やした男がいて、胡散臭い笑みを貼り付けて希を見上げていた。


「人の縄張りに入ってきておいて手土産もなしか?不躾な」

「広義的に言えば、縄張り破りは貴方の方かと」

「気付いていながら今の今まで放置とは、流石は時計うさぎ。いつだって行動が遅すぎるな」


嘲るようににんまりと笑ってみせる希に、時計うさぎは顔を顰め希を睨めつける。

白い手袋に覆われた時計うさぎの手には、槍のような火かき棒のような武器が握られていた。長さの違うそれをちらりと見やり、希はからからと笑う。


「時計の針は時間を刻むもので、首刈りの道具じゃないぞ」

「何事にも応用というのがあるでしょう」 

「なるほど?」

「首だけでなく、残った手足も切り落としてあげましょうね」

「ヒヒハハハハ。草食動物の台詞とは思えんな。怖い怖い」


言葉とは裏腹にからからと笑い続ける希に、時計うさぎは長針を投擲する。それをかわす形で、希は地面に着地した。

片足の代わりというように、長い尻尾が希の身体を支える。


長針に繋がれていた鎖を引き、武器を二本とも手元へ引き戻すと、時計うさぎは地を蹴り希へ肉迫した。

手足と首とを執拗に狙う凶刃を受け止める武器はなく、希は回避の一手を取り続けるしかない。


「痛々しいですね。いい気味だ。猫の分際で女王に逆らうからそうなる」

「女王、ねェ」


圧倒的に不利にしか見えない状況にも関わらず、希は愉快そうにくつくつと笑う。赫い瞳に射られ、時計うさぎは一瞬表情を強張らせた。


「この国にハートの女王なんているのか?」


時計うさぎの耳が、ぴくりと跳ねる。

隠しきれない動揺を見せた時計うさぎに、希は駄目押しに言葉を重ねる。


「少なくとも俺が謁見したあれは女王なんかじゃなかったぞ」

「ほう、では何だと?」

「強いて言うなら………魔女、かな」


挑発的に笑む希と対照に、時計うさぎは目を見開く。

転げ落ちそうなほどに見開かれた目が眇められていくのを見ながら、希も目を細め時計うさぎを睨めつける。


「殺すしかないようだな」

「おや、バレたくない秘密だったか?それは失礼した」


おどけて頭を下げてみせる希の首を狙い、長針よりも先端が鋭利な短針が突き出される。

希が片足を後ろに下げ、身を切る形で回避すると、短針は希の背後の樹に突き刺さった。

その短針を踏み台に、希は器用にも片手片足で再び樹上へ駆け上がる。


(念の為にアズラエルに頼んでおいて良かった)


幸い、この世界でも能力は使えるらしい。

お茶会から掠めてきてもらったカトラリーと、衣装部屋から持ってきてもらったリボン。万一のため木の中に隠しておいたそれらに触れる。希の能力を受け、金銀の食器を赤いリボンがひとまとめに連ならせていく。やがてひとつに纏まったそれは、右足の断面にぴったりとくっついてきた。些か細いが、義足の代わりには上々だ。ひとつ頷いて、再び木から飛び降りる。

いきなり目の前に降りてきた希に、時計うさぎは対応しきれない。嵌め込んだばかりの右足を振り上げ、時計うさぎの顔を切り裂いた。


「っ………この雌猫が!」

「、」


お返しとばかりに振り下ろされた長針を左腕で受け、義足から引き抜いたフォークを眼球に向かって投擲する。

弾き落とされはしたが、もとより当たるとは期待していなかった。

それよりも気に障ったのは、雌猫という呼び方だ。


「アズラエル以外にそう呼ばれるのは腹が立つものだな」


アズラエルのそれはもう慣れたというか、あだ名のようなものだと思っているが、アズラエル以外に呼ばれるとこうも不快になるものか。

睨むように目を眇める希に、時計うさぎも殺意で返す。


「ああそうだ、お前の気づいた通り、今この世界に女王はいない。だがいないなら作れば良い!」

「作るだと?」

「ああ、ああ!」


繰り出された刃が希の耳を掠め、血を滴らせる。返す形で、希も時計うさぎの耳を義足で斬りつけた。


「この世界にとどまることを望んだアリスは最早アリスではない。そうだろう?」

「……なるほど、一理ある。アリスは最後には現実へ帰るからな。ふむ、なるほど。そういうことか、小賢しい」


吐き捨てる希に、時計うさぎは刺すような視線を返す。


夢の国に来ながら、もとの世界へ帰らぬもの。ここに住みたいと願ったもの。すなわち、アリスではないもの。それらを呑み込んで、この世界は広く、強くなっていく。

女王だけは、人間には負荷が強すぎるのか次々に死んでしまう。けれど死んだならば補充すれば良い。

そのために、この世界は居心地の良く、美しく、楽しい世界の姿をしているのだから。


それをよりにもよって、外界からの侵略者に阻まれるなど冗談じゃない。


「コソコソコソコソ隠れて嗅ぎ周りやがって、目障りな害獣め」

「探られて痛い腹ならもっと上手く隠すべきだろう。白地らしさを隠すことも出来ないそちらの甘さを俺のせいにしてくれるな」

「黙れ!」


言葉と共に武器やら脚やらを交わし合う、一見一進一退の攻防。しかし希は笑顔を浮かべながら、内心焦りを抱いていた。

手足と片目を失い、手に馴染んだ武器もない。それが予想以上に響いている。このまま戦闘が長引けば負ける。


(早く来て……いや、早くアリサと出会ってくれ)


「2日経っても自分達が起きなければ、応援に来てほしい」。眠る前にそう頼んでおいた、世界で一番頼りになる人物達を思い浮かべ、希は祈るように心の中で呟いた。








お茶会へ引き止めようとする人々をなんとかやりすごし、アリサは今日も無事に宮殿の外へ出ることができた。

扉の閉まる音を聞き、安堵の息を吐く。


あんなものを見たあとでは、街を歩く気にもならない。ホテルへ帰るか、猫のいる森にでも行こうか。とにかくここからは離れよう。

歩き始めたアリサの肩を、背後から誰かが掴んだ。


「きゃあっ!」  


咄嗟に、アリサは掴まれた肩を振り払う。

だが相手はそれで逃げるどころか、今度は両手でアリサの腕を掴み、壁に押しつけた。

アリサを抑えつける男は襤褸のような服を纏い、フードを被っている。そのフードの下から覗く目は、粘ついた視線を放っていた。


「放して、放してください!」

「アリス、君はアリスなんだろう?」

「違います!私はアリサ、アリスじゃ」

「違わないさ。君はアリスだ」


熱にうかされた目で、男はやはり粘っこい笑みを浮かべアリサを見つめる。


「なぁアリス、頼むよ、帰らないでくれ。この世界に居たいと望んでくれ。ずっとこの世界にいると言ってくれ」  

「嫌です、私は」

「じゃあないと、俺達は死んでしまうんだよ」


アリサを抑えつけたまま、男は片手でフードを脱ぐ。

現れた顔に、アリサは息を呑んだ。


顔の半分は、間違いなく人間のそれだ。やや面長ではあるが、肌の色も形も人間のそれと変わりない。

しかし残りの半分。

灰色の毛に覆われ、頭から小さな耳をはやした姿はどう見ても人間ではない。例えるならば、ドブネズミとよく似ている。


恐怖に表情を引つらせたアリサに、男はさらに顔を近づける。

よく見れば人と鼠の境目は爛れて血が滲んでいた。


「なぁ、アリス。君がここにいてくれないと、皆魔法が解けて死ぬんだ。だから、なぁアリス、お願いだ」

「でも、私」

「俺たちが死んでも良いのか?」

「そんな、」


アリサはまだ若い少女だ。そして、死ぬ、などと言われて我欲を押し通すことに罪悪感を感じてしまう程度には無垢だ。


いつの間にか、アリサの周りには異形の化け物達が集まっていた。

その口が揃ってわめき立てるのは「死にたくない」「帰らないで」「ずっとここにいて」の3つ。

耳を塞ぎたくとも、両手は抑えられたまま。

怖くて、どうしたら良いのか分からなくて、アリサの目から一筋雫がこぼれた。


「私―――」

「「幼気な少女を脅すな、馬鹿者ども」」


頭上から声が響くと同時、ふたつの影が現れた。

ふたりは鏡写しのようにぴったりと揃った動作で男をアリサから引っぺがし、蹴り飛ばす。

いきなりの乱入者に、化け物達はどよめきながらも敵意を顕にする。


「頼んだ、凛」

「任せろ」


化け物に囲まれているにも関わらず冷静に銃を構え、凛は周囲を取り囲む化け物達の腕や足や胸を正確に撃ち抜いていく。

信頼故に応援として出るつもりなど微塵もなく、遥は彼の背後にへたりこむアリサの前へ膝をついた。


「大丈夫か?怖かっただろう、よく頑張った」

「貴方達は……?」

「怖がらなくて良い、俺達は味方だ。猫達の帰りが遅いので迎えに来たんだ」

「猫さん達のお友だちですか?」

「ああ。俺は遥。あっちは凛という」


微笑んで、遥はアリサの頭を撫でる。

張り詰めていた色々なものが切れ、アリサの瞳からぼろぼろと涙が溢れ出す。遥は焦ることなく、アリサを抱きしめると背中を擦ってやった。


「君の名前は?」

「あ、アリ、サ、です」

「そうか、アリサ。良い名だな」


しゃくり上げるアリサを宥めるように背中を撫でてくれる手は、アリサの父親のそれとよく似ている。

縋るように抱きついてくるアリサに、遥は静かな声で告げた。


「アリサ。君の行動は君が決めれば良い。君にはその権利がある」


落ち着いたその声は、アリサの背中を優しく押してくれる。


「君はどうしたいのか、教えてくれ。その願いを叶えるために、俺達は全力で戦おう」

「私…………私、は、」


―暗いところから目をそらせば、知らないふりをしていれば、この世界はとても楽しい。好きなものが手に入るし、勉強や学校もないし、皆がとても優しい。

けれどここには、大事なものが―アリサの家族も、友人もいない。自分のことを本当の名前で呼んでくれる人もいない。


どうしたいか、なんて、とっくに決まっている。

それを、口にして良いのなら。


「私―――本当の世界に、お父さんやお母さんのところに帰りたい!」


目に涙を浮かべて、上擦った声で、それでもはっきりとアリサは自分の思いを告げる。

その瞬間、真っ白い光が夢の世界を包んだ。









世界に変化が起こったのだと、ふたりは誰に言われるでもなく理解した。

時計うさぎが苦々しく顔をしかめ、希はにんまりと勝ち誇った笑みを浮かべる。その身は失ったはずの手足と、右目を取り戻していた。


「どうやらあの子は帰ることを選んだようだな」

「有り得ない!何故!こんなに居心地の良い世界を何故出て行きたがる?」

「家族のいないお前には、きっと永遠に分からないだろうな」


その声は嘲りというよりはむしろ憐れみを孕んでいた。しかしその感情もすぐに消え、赤い瞳には冷酷な色だけが浮かぶ。


自分たちの世界を維持し続けたい、失いたくない、その欲求は分からないわけではない。だがそのために無関係な人々を利用することは許せない、見逃すわけにもいかない。


漸く自身の手に馴染むナイフを構えた希に、時計うさぎはなおも消沈することなく敵意を向ける。


「だが、今この世界を壊せば帰れるのはあの子だけだ。他の奴等はこの世界と一緒に死ぬ」

「それは困るな」


表情を険しくした希に、今度は時計うさぎが勝ち誇った笑みを浮かべる。

人質のつもりか、或いはせめて彼等彼女等を巻き添えに死ぬつもりか。

どちらにせよ、果たさせるつもりなどない。


「さて、時計うさぎ。ここでクイズといかないか」

「は?」

「俺は一応、自在に消えて好きなところに現れることができる。なのに今こうして面倒なお前の相手をしているのは何故でしょうか」


打って変わって笑みを浮かべ、希は両手を広げてみせる。


その問いかけに、時計うさぎは目を瞬いた。

『女王』、否、魔女はこの猫の手足を奪うことで、自在に消える能力をも奪った。けれど今、手足の戻った今では、本人の申告通り消えることもできるはず。

それをしない理由が、あるとすれば


「俺を殺すためか?」

「はずれ。正解は」


赫い赫い瞳が、三日月のように細められた瞬間。

耳障りな破裂音が、いくつも聞こえた。


音に敏感なうさぎの耳は正確に、その音の発信源を把握する。

それは。そこは。魔女の居る場所。

だとすれば、この音は。


「お前の意識を俺に向けておきたかったから、だ」

「貴様ァ!」


激昂し切りかかってきた時計うさぎを、希は軽くいなし蹴り飛ばす。

軽やかに着地した希の傍へ、極彩色の人影が現れた。


【風船全部割ってきたよ!】

「ありがとう、スター」


希に撫でられ、トリックスターは眼窩さえない顔に満面の笑みを向ける。


「ずっと気になっていたんだ、あの風船が。すべてのものが意味を持つこの世界で、あまりにも無意味で、あの場にあまりに似合わなかった風船が。邪魔者を狩るより、魔女が優先して守った理由が」


意味のないものなら、自分の殺害を後回しにしてまで庇う必要はないはず。その時点で理解した。あの風船は、相当大事なものなのだと。では、あの魔女にとって大切なものとは何か。考えるまでもない。この世界と、それを形作る部品ー即ち、この世界に取り込まれた人間達だ。


「あの風船は、この世界に閉じこめられた人々の人格と記憶なんだろう?」


希の言葉を裏付けるように、トランプ兵たちが忙しなく辺りを見回している。時計うさぎに命じられて同行したのだろう彼等は互いに顔を見合わせ、ここは何処だ、なぜこんな所にいるのかと若干ヒステリックに喚いている。


「どうだ?これで無理心中も計れまい。大人しく」


希の言葉を遮るように、投げつけられた長針が希の頬を掠める。 怒りと殺意に真っ赤になった瞳で希を見つめる時計うさぎは、あまりにも禍々しい。


「殺す。貴様だけは絶対に殺してやる。腸を引きずり出し、目玉を抉って、生きたまま舌を引き抜いてやる!」

「良いぞ?やれるものなら」

【希】

「ん?」


不意にトリックスターに肩を叩かれ、希は目を瞬く。剣呑な色を宿していた瞳が、まん丸になってトリックスターを見上げた。


【こいつは俺に任せて。希はあの子のところに行って】

「良いのか?」

【勿論】

「分かった。ありがとう」


トリックスターを抱きしめてから、希は踵を返し木々の間を駆けていく。

その背に投げられた時計の針を、トリックスターは素手で掴んだ。

鎖で時計うさぎと繋がった針を、トリックスターは思いきり振り上げ、そして振り下ろす。風か波にでも煽られたように、時計うさぎの体が宙に浮き、それから地面に叩きつけられた。


「ぐっ……ぁアアア……!」


手で庇うこともできず、渾身の力で地面へ叩きつけられた時計うさぎの髪にじわじわと、赤い色が広がっていく。

鎖から手を放し、トリックスターば一瞬で時計うさぎの眼前へ迫った。


細く、長く、鋭い指が、時計うさぎの右目を貫き、左腕を引きちぎる。


「あ゛ァァああああアアアア!」

【希に大怪我させた報い、とりあえずお前が受けろ】


痛みに歪む顔を見る目もなく、悲鳴を聞く耳もなく。

返り血に濡れて、トリックスターはまさしくチェシャ猫のようにわらった。











森の木から建物の屋根を伝い、希はアリサの元へ走る。

銃声が聞こえるということは、凛と遥はうまくこちらの世界に来てくれたということだろう。

安堵の息を漏らし、希は軽々と屋根から飛び降り、今度は石畳を駆けた。


「アリサ!」


地面にへたりこんだまま、よく通る声に弾かれたように振り向いたアリサは、青褪めた顔を若干晴れやかにして希を見やる。

アリサを抱いていたアズラエルも、希の姿を捉え表情を和らげた。


「希さん!」

「やっと治ったか」

「お陰様で心配と苦労をかけたね。遥さん、凛さん。来てくれてありがとうございます」

「なに、気にするな」

「それで、アレをどうすれば良い?」


あれ、と凛がライフルで指したのは、宮殿よりも巨大な姿を晒す魔女だ。

否、あれを魔女と呼んで良いものか。辛うじて顔らしき穴や銀の髪はあるものの、その姿は腐肉色のどろどろとした物体に転じ、動くそばから体の一部を溢している。銀の髪も、髪というよりはまるで鋭利なワイヤーのようだ。


引きずり込んだ人々の記憶は奪い返され、アリサは不思議の国を拒んだ。寄る辺のないあれは、放っておいても直に死ぬだろう。

しかし仮にも世界の王の死に様には、あれはあまりに哀れで虚しい。


「アズラエル、お前の空飛ぶ馬車は出せるか?」

「は?……え、お前まさかアレを」

「介錯してやろうと思う」 

「カイシャク?」

「楽にしてやりたい、ということだ」


魔女へ顔を向ける希に倣い、アズラエルもそちらを向く。


ぽっかりと空いた眼窩では何も見ることは出来ず、開きっぱなしの口から漏れる声は鳴き声のようにも聞こえる。確かにあれを放っておくのはしのびない。アズラエルもその気持ちは分かる。


「けど、どうやってあれを殺す気だ?流石にお前のナイフでも」

【大丈夫だよ】

「わっ」

「スター?うさぎは?」

【あれもこの世界の一部だからね。こうなったらほっといてももう保たないよ】


にっこりと笑うトリックスターに、アズラエルは若干不穏なものを感じないでもなかったが聞くことはやめておいた。藪をつつくよりも他に、今やるべきことがある。


「雌猫ちゃん、スターは何て?」

「大丈夫だって」

「殺せるってことか?」

【夢の支配権はそれぞれに戻ったからね。イメージすれば、あれを殺す武器くらい作れるはずだよ。そのナイフだって、無意識にイメージして作り出したものだし】

「そういえば」


当たり前に握っていたナイフを見つめ、希は苦笑を浮かべる。

なるほどこれを作れたならば、確かに他の武器も作れるだろう。幸い、刀剣の類は銃ほど複雑な作りをしていない。


丁度、というのもおかしな話だが、愚王を殺すために作られた武器ならばいくつか知っている。そのうち細く薄い、使いやすい剣を選び具現化させた。


「アズラエル。頼む」

「気ぃつけてな」

「うん」


アズラエルの能力により召喚された、白と黒の馬が引く馬車は、崩れかけではあっても童話のような形をしたこの世界によく似合う。

それぞれの馬の頭を撫でてやってから、希は御者の席へ腰を下ろした。

合図をせずとも、2頭の馬は宙を蹴り空を駆け、魔女を目指す。

串刺しにしようとする髪も、どろどろの落下物も回避し、馬車は魔女の眼前で停止した。

御者の席から荷台の屋根へ飛び移り、希は魔女に向かって恭しく頭を下げた。


「二度目の謁見だな」


その言葉に帰ってくるのは、低い低いうめき声。

希を掴もうとしたのか、伸ばされた手は、凛とアズラエルに撃ち抜かれ飛び散った。

魔女の意識が自身の腕に向いた一瞬に、希は馬車の屋根を蹴って跳ぶ。

宙に投げ出された希の手をトリックスターが掴み、さながら空中ブランコのように放り投げる。

投げられた希は無事、魔女の項へ着地した。

どろどろに足を絡め取られ、焼かれながら、2本の刃を振り上げる。


「覚えているだろうか。次は殺すと、一方的に約束した。

約束は、果たすものだ」


泥濘に刃を突き立てるような嫌な感触を感じながら、希は✕字に魔女の首へ刃をかける。


切り落とされた首が、魔女自身の零したどろどろに飲まれ、瞬く間に骨すら残さず溶け落ちた。















ヒビの入った硝子が砕けていくように、世界を構築していた建物や石畳が罅割れ、砕け、闇に飲み込まれていく。

ゲリュオンの荷台の屋根から、アリサ達はそれを見下ろしていた。


足元に広がる闇は暗く、底が見えない。表情を強張らせるアリサの隣に、希が立った。


「お待たせ、アリサ。終わったよ」

「あとはあんたが起きるだけだ」

「さぁ、君の望んだ世界に帰ると良い」


アズラエルと希の言葉に、アリサは表情を緩ませる。

漸く元の世界へ、家族のところへ帰れるのだ。


「ありがとうございます!さようなら!縁があれば、本当の世界で会いましょう!その時には、絶対お礼しますから!」


深々と頭を下げるアリサに、4人は微笑んで手を振る。

泣き笑いを浮かべて手を振るアリサの体が、ゆっくりと消え始めた。

光の結晶となり消えていくアリサを最後まで見送ってから、遥は希達を見上げる。


「希、アズラエル。俺達も目を覚まそう」

「はい」


先のアリサと同じように、4人の体が消えていく。


かくして、不思議の国を装った悪夢は終焉を迎えた。











次に目を開いたとき、アリサの目に映ったのは、見慣れた部屋の天井だった。

チェックの枕カバーも、枕カバーとお揃いのカバーの布団も、星座が書かれたカーテンも、全てアリサの部屋のものだ。


帰ってきた。

そう理解すると同時に、アリサはベッドから跳ね起きリビングへ向かう。

ドアを開けると、母親が食事を用意してくれていた。姉はスマートフォンを弄りながら、見るともなしにテレビを見ている。


「おはよ、アリサ。もうお昼だしおそよう?」

「あら。おはようアリサ。ごはん食べる?」

「うん。お母さん、お姉ちゃん、おはよう!」

「ん、起きたのかアリサ」

「お父さん、おはよう!」

「はいおはよう、っと」


抱きついてきたアリサに、父親は目を丸くする。しかしアリサを引き剥がすことはせず、照れ笑いを浮かべてアリサを抱きしめ返した。

頭を撫でる手の温かさに、アリサの視界がぼんやりと滲む。


「どうした、アリサ?怖い夢でも見たか?」

「そうなの。すっごく怖くて変な夢」

「え、何何どんな夢?」

「不思議の国のアリスをホラーにしたみたいな感じなんだけどね―――」


家族に囲まれて、アリサはつい先程まで見ていた悪夢を語る。

その光景を窓の外から、猫と蝶々が見つめていた。












資料室に引きこもり、希は世界中の未解決事件のファイルを漁っていた。

アジアから当たり、南米、北米、中東と手当たり次第にファイルを漁り、ヨーロッパの6冊目で漸く手が止まる。

随分古い新聞の切り抜きが貼られ、似顔絵が描かれたページ。

その似顔絵は間違いなくあの時に見た魔女のものだったが、日付は70年程前を示していた。


記事に曰く、イギリスのある田舎町で突然民家から強い光が放たれ、警察や近隣住民が駆けつけてみると部屋が黒焦げになっており、そこに住んでいた女性がいなくなったという。警察は懸命に捜索したが彼女の足取りは分からず、死体も見つからなかった。また近隣の人々の言うことには、彼女は魔女で、不老不死の研究をしていたという。


【肉体を失って、魂だけが意識と無意識の間に落ちた、って感じかな】

「そんなことがあるのか?」

【臨死体験とか仮死状態みたいなやつだよ】

「なるほど」

【何にせよ、不老不死を求めて死んでちゃあ世話ないね。そもそも人間は何で不老不死になりたがるのか】

「それは俺にも分からないな」 

【それで良いんだよ】


夢は覚める。人は死ぬ。世の理とはそういうものだ。

希を抱きしめながら、トリックスターはくつりと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワンダーナイトメアランド @akamura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ