08
「そんなに急いで帰らなくても良いじゃないか。折角来たのだからゆっくりしておいき」
老女、厭、”黒い塊”が言葉を発する。少年が老女だと思っていたのは、あの”影”だったのだ。
「さあ、ケーキもまだ残っている」
そう言い、老女が手を伸ばしてくる。
このままでは捕まる。
「あの、このお茶、冷めてるので、温めてもらっても良いですか」
少年は咄嗟に、お茶、厭、黒い塊が蠢くティーカップを指さした。
「おお、そうかい。すまないね」
そう言うと、黒い影はカップを手に、台所へと向かった。
少年はそれを確認すると、一目散に居間を飛び出した。
食堂の前を通ると、明かりも点いており、中から何やら話し声が聞こえる。
まさか、誰かが食事をしているのか。
ともかく、早く逃げないと。自分はどうかしていたんだ。こんな洋館に入るだなんて。
背後で、ぱたんという音がする。
追って来ている。
こんなところ、早く出よう。
もうこの洋館に関わるのは御免だ。
少年は勢いよく玄関を出た。
すると直ぐに、あの”ぬかるみ”に足を取られる。
待ちなさい。坊や。
背後から声が聞こえる。
気を取られてはいけない。
振り返ってはいかない。
ざぶん
泥を撥ねるような音。
近づいている。
待ちなさい。
声と共に、何かが肩に触れたような気がした。
「ぎゃあああああ!」
少年は必死に肩の”何か”を振り解き、門の外に転がり出た。
気配が止む。
どうやら、助かったらしい。
お前はきっと、ここへ戻ってくるさ。
という声が聞こえた。
少年は足早に、自宅へと戻った。
本当にどうかしてしまっていたのだ。あんな家に入るだなんて。
ジャックが死に、気が動転していたに違いない。きっとそうだ。
いつまでもこんな体たらくではいかない。
少年は家に戻ると、ジャックを埋めた庭に手を合わせた。
死を受け入れ、静かに祈る。そうあるべきなのだ。
少年は祈り続けた。
「おい、そこで何やってるんだ?」
今帰って来たらしい父親が、少年に呼び掛ける。
少年は別に、と答える。
「そうか。とにかく、もうこんな時間だし、中に入れよ」
少年は頷いた。
「今日も遅くまで散歩に行っていたんだな。ジャックは?」
「先に僕の部屋で寝てるよ」
少年は何も言う気はなかった。ジャックを世話していたのは、少年一人なのだ。母親や父親は、何もジャックにしてこなかった。だから、知る権利もない、少年はそう思ったのだった。
「そうか。ん?また服を汚したのか」
少年の服についた泥を見て、父親が言う。
「なあ。昨日今日とさ。いつもよりも遅くに帰ってきたり、服が泥まみれだったり。何より、顔色が良くないぞ?最近、何かあったんじゃないのか?」
父親が心配そうに少年の顔を覗き込む。
少年は大丈夫、と答える。
本当は、全く大丈夫ではないけれど。
暫くの間、姿も見ていなかったような相手に、こんな普通じゃ考えられないような話をしても、意味がない、と少年は思うのだった。
「そうか。なら良いんだけどな。あんまり一人で抱え込みすぎるんじゃないぞ。辛くなったら、俺にいつでも相談してくれよ」
少年は無言で頷くだけだった。
ー今更そんなこと言っても、遅いんだよー
少年は唇を嚙み締めた。
少年と父親の距離は、既に離れすぎてしまっていたのだ。
だが、そこには父親を少しだけ見直す少年の姿もあった。
寝床に入っても、少年は全く眠ることが出来なかった。
あの洋館への畏怖。ジャックの受け入れ難い死。父親や母親へ向けた感情。
様々なものが入り混じって、少年の心を掻き回すのだった。
少年は孤独なのだった。
唯一の親友であるジャックを失い、少年に残されたのは孤独しかなかった。
少年の孤独は、今頃になって救いの手を差し伸べる父親では、どう足掻いても埋められないのだ。
なぜお互いに姿を見ることのない家族になってしまったのか。
なぜ少年だけがジャックの世話をしていたのか。
なぜ少年はジャックが一番の話相手だったのか。
なぜ少年は孤独になのか。
少年があの洋館を初めて見た時、そこにあったのは”憧れ”だった。
少年は思ったのだった。
ーこんな家に住む人は、きっと家族も優しくて、みんなで笑いあって暮らしているんだろうなー
少年は気が付けば、窓からあの洋館の屋根を見ていた。
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