06

ぱたん


居間を出ても、足音は聞こえてくる。

腕の中で暴れるジャックを宥めながら、少年は玄関へ走る。


ぱたん


振り返ってはいけない。

少年の本能がそう告げていた。


かちゃ


扉が開くような音。

恐らく居間だろう。

少年は本能的に、居間の扉を閉めていたのだ。


”何か”が部屋から出てきた。

そして、少年の背後にいる。


絶対に振り返ってはいけない。

少年は半ば目を瞑りながら、玄関に達した。


開け放しになった玄関扉を抜け、扉を閉める。

外に出ると、少年は少し安堵した。

しかし、こんなものは一時的な手段に過ぎない。

先ほど、”何か”は居間の扉を開けたのだ。


少年は庭へ駆け出した。


「うわっ、なんだこれ」

足元が、ぬかるみのようになっている。

泥沼のように、足が沈んでゆく。


来た時は、こんなぬかるみではなかった筈なのに。


やはり、この家は異常なのだ。


少年は必死に足を動かす。

しかし、すぐに足元を取られて、転んでしまう。


「ごめん、ジャック。大丈夫かい」

少年が立ち上がると、


かちゃ


背後から扉を開く音が聞こえた。


早く逃げないと。


ぬかるみが、少年の足にまとわりつく。

近い筈の門が、妙に遠く感じる。


ずぶっ


泥に足を浸すような音。


後ろから、”来ている”のだ。


腕の中のジャックが、呼応するように暴れる。

「ジャック、頼むから今は大人しくしていてくれ」


ずぶっ


音が近づく。


少年は泥塗れになりながら、ようやく門をくぐり抜けた。

ぬかるみは、外には出ていない。


少年は振り返り、門を閉めた。


少年を追って来た”何か”がいるのではと警戒していたが、庭には何もいなかった。


どうやら、逃げ切ったらしい。

少年は胸を撫で下ろした。


だが、そんな安心を他所に、二階にまた、あの”黒い影”を見たような気がした。


少年は、慌てて洋館を後にした。



「お前、こんな時間まで外に出ていたのか」

家に帰ると、父親が既に帰宅していた。


「父さん、今日、早かったんだね」

父親と言葉を交わすのはいつぶりだろうか。少し、口調が硬くなってしまう。


「いや、そんなことはない。お前が遅かったんだ」

言われて時計を見ると、驚くことに時刻は既に二十三時を回っていた。


「それにお前、泥だらけじゃないか。顔色も悪いし。何かあったのか?」

父親が問うが、少年は転んだだけだ、と答える。少年は思い出すのも躊躇われた。加えて、説明しても何の解決にもならないし、そもそも信じてもらえないのでは、という不安があったのだ。


「そうか。まあいい。そんなに汚れているんだから、シャワーを早く浴びてきなさい」

少年は頷き、ジャックを連れてシャワーに向かった。


ジャックはようやく落ち着いていたが、少年の目から見ると、いつも通りではないという感覚だった。心ここにあらず、とはまさにこのことだ。一体、ジャックはどうしてあんな洋館に心を奪われてしまったのだろうか。

泥が絡みついたジャックの毛を洗いながら、少年は考える。


とにかく、ジャックが落ち着いてあの洋館を忘れるまでは、自分の部屋から出ないようにした方が良いかもしれない。この具合だと、少年が目を離した直後に、あの洋館へと向かってしまいそうだ。


「ねえ父さん。近所に大きな洋館があるんだけど、知ってる?」

シャワーから出た少年は、父親にそれとなく聞いてみる。


「洋館?そんな立派な屋敷が、こんな鄙びた田舎にあるわけないだろ」

そっか、と少年が立ち去ろうとすると、


「いや待て。昔に、そんな話を聞いたかもしれない」


「ほんと?」


「ああ。あの近所の空き地があるだろ?あそこはな、昔、それこそ洋館が建っていたらしいんだ。そこの住人は優雅な暮らしをしてたんだが、何やら物騒なことがあって、あの家は壊されたんだそうだ。とはいえ、これは俺の爺さんに聞いた話だから、俺が生まれた頃には、とっくに空き地になってたがな」

少年は自然と背筋に怖気が走った。


「でも、最近に出来た洋館は見たことも聞いたこともないなぁ…」


「そっか、ありがと。それじゃ、おやすみなさい」


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