ニューヨークでは今、何が起こっているのか

松藤四十弐

ニューヨークでは今、何が起こっているのか

 別れた恋人はニューヨークへ行った。僕はその恋人と買った梅酒をちびちびと部屋で飲んでいる。瓶に半分ほど残っていた梅酒を半分飲みきったところで、僕は、そういえばこれは思い出の品なんだなと思った。なんで飲み干そうとしているんだろうと僕は思った。もったいないとも思った。でも、僕はそれを飲み干した。何故か。理由は分からない。ただ、梅酒の甘さが今の僕に必要だと思っていた。

 恋人は美人ではなかったが、とても可愛らしかった。彼女が五歳くらいの娘だったら、僕はテディベアを抱かせたくなるだろうなと思った。それをカメラで撮って、写真をアルバムに残して、彼女が結婚した時に、懐かしむんだ。そう思わせるような子だった。

 なんで僕らが付き合ったのかはわからない。僕は彼女の事が好きだったが、彼女はなんとなく僕と付き合ったのだと思う。

 彼女は僕と付き合っている間、僕以外の男と遊んでいた。一人はどこか、その辺りで出会った男らしく、彼女が好きそうな外見の男だった。もう一人は彼女の友達の元彼氏で、彼女はなんで浮気をしたのか、結局僕には言わなかった。どちらも僕にとってどうでもいい男だった。でも、僕は嫉妬したし、悔しかった。僕にとって彼女はどうでもいい女ではなかった。でも、僕という男はどうでもいい男だった。彼女は僕という男と付き合わなくても幸せになれると思うし、僕という男のことはただの一人の人間にしか見えていなかったと思う。いや、人間にさえ見られていただろうか。惰性、習慣。彼女の中ではそういったものになっていたのではないだろうか。

 そう思うと、色んなものが自分の中から出ていった気がした。「これは自分を示している」、そう思っていたものを中心に。


 彼女の事を思い出したり、忘れたりしているうちに、時刻は深夜三時になっていた。ちびちびとアルコールを摂取したおかげで、僕は気持よく酔うことができていた。そして、珍しく、ゆっくりと現実から離れていくことができていた。ただ、どうしようもなく寂しくなり、ベッドに入る時に毛布を丸めて隣に寝かせてみた。残念ながら、そこからは温かみは感じなかった。だが、少し落ち着けた。

 夢の中で、僕は車に乗っていた。東京の日曜町というところに行くため、高速道路をとばしていた。光が線に見えるくらい、車は早く走っていた。運転手は知らない男で、僕は後部座席に座っていた。隣には女が座っていた。女は僕が知っている女だったが、誰かは分からなかった。途中、食事をするためにサービスエリアに寄った。車を降りると、高校時代のクラスメイトと、大学の食堂で見かけたことのある男がデートをしていた。彼らは僕と目を合わせることはなかった。僕は彼らを知っていたが、彼らは僕を知らなかったからだと思う。

 目が覚めたのは昼の十一時だった。僕は寝汗をかいていて、それで起きた。クーラーはタイマー通りに消えていて、すぐに僕はつけなおした。そして僕はまた寝た。今度もまた夢を見たが、起きる頃には覚えてはいなかった。ただ胸が押しつぶされたように感じて、とてもせつなかった。いや、断片的には夢を覚えている。僕は彼女に「ごめんね」と二回くらい言った。そうだ。彼女が夢に出てきた。感覚だけで、覚えているわけではないけど。


 夏休みに入ってからというもの、僕は遊びにも行ってないし、課題をやっているわけでもない。子供の頃の楽しい夏休みは、もうできないかもしれないと思っている。僕は寝て、起きて、また寝て、貪欲に夢を見ようとしているだけだ。たぶん現実には楽しいことがたくさんある。でも、それが今の僕に必要なことかどうか分からない。夢を見ることが必要なことかも、よく分からない。ただ、僕は今、夢を見たくてしょうがない。

 結局、僕はその日、トイレと食事以外を睡眠に費やした。

 夢は一回か、二回見た。内容は覚えていない。それらは何の感覚も残っていない。寂しさも、虚脱感もなく。そこに自分がいないかのようだった。そして、いつの間にか僕は、今の時間を次の日にしていた。

 僕はぼんやりとした意識を保持し、遠くから聞こえる車のクラクションと、どんどんと近づいてくる救急車のサイレンを通り越させて、ただ毛布にくるまっていた。目を閉じても眠れず。目を開けていても何も働かなかった。ただ、尿意だけは感じていた。僕は思い切って起き上がり、トイレへ行き、排尿を済ました。それから冷蔵庫から烏龍茶の入っているペットボトルを取り、飲んだ。梅酒が入っていた瓶は空になっていたが、まだ冷蔵庫の中にあった。

 そこから朝になるまでくだらないニュース番組を見て過ごした。本当にくだらなかった。僕の知らない人が、僕の知らない人を殺しても、どうでもよかった。良くもなければ嫌でもなかった。それより、彼女の顔と梅酒の瓶が目と脳みその間にちらちら写るのが嫌だった。


 昼になると、僕は実家に帰るため、電車に乗った。とにかく色んなことを考えたくなかった。学校のことや、生活のこと、自分のことさえ考えたくなかった。仕事があったのならこういうことはできないだろうな、と思った。ずっと何もしない学生でいたいと思った。

 席に座ると、すぐに女の人が隣に座ってきた。顔は見なかったがまだ若い雰囲気を持っていて、ピンクのセーターを羽織っていた。彼女はバッグから携帯電話を取り出し、何かを確認しはじめた。僕は窓の方を向いて景色を見ようと思っていた。

 扉がしまり、電車が走りはじめる。駅のホームが前から後ろへ、右から左へと流れた。なんとなく僕の頭に「人生」という言葉が浮かんだ。隣に好きでもない女がいて、日々をただ流すように過ごす自分を思い浮かべた。一分前に見た景色はずっと後ろにあり、見ようにも見ることができない。ただ思い出すしかない。そういうのは嫌だ。でも、どうしようもないことだともなんとなく分かっている。

 二十分くらい経っただろうか。窓の外の景色は、ビルやマンションが乱立している街から、懐かしい思いにさせてくれる田畑の景色に移っていた。太陽の光が反射してきらきらと光る緑の田と、布団の裂け目から引っ張った、綿のような雲があった。そして、その中間に高速道路が見えていた。高速道路では、大型トラックや乗用車がある程度の車間距離を保ち走っている。どの車かひとつでも事故をしたらどうなるのだろうと思った。しかし、やはり僕にとってそれは他人事だった。殺人も、事故も、僕の現実でもなければ、夢でさえなかった。

 窓の外を見るのを止め、僕はまっすぐ座りなおした。隣にいる女の人はまだ携帯電話をいじっていた。

 僕は目を閉じてみた。そして、また彼女の事を思い出した。

 今年の二月に僕たちがデートをした回数は一回だった。映画を観に行き、適当にご飯を済ませ、その後は何事もなく駅で別れたのを覚えている。映画の内容はよく覚えていない。コメディなのか恋愛なのかよく分からないジャンルのイタリア映画だったはずだ。彼女はそれをとても観たがっていた。ただ、一緒に映画を見ている時、彼女は途中で携帯電話を出していた。彼女は集中できない女の子だった。何をしているのだろう。そう思い、僕は横目で彼女を見た。薄暗く見える彼女の横顔は相変わらず可愛らしかったが、そんなことより何をしているのかが気になった。誰かにメールをしているのだろうか。また男だろうか。そう思った時、僕はみぞおち付近に嫌な感覚を覚えていた。それは、絶対的な力に見つめられているような気分だった。金縛りにあったように、体が動かなかった。

 結局、僕は彼女何も言わなかった。僕は失うのが怖かったのだ。彼女が隣にいる時間を永遠に得たかったのだなと、今になって思う。

 もうそれは無理なことだと分かっている。


 パチっと、携帯電話を閉じる音が聞こえた。同時に僕は目を開けた。夢を見ていたような気がした。

 僕はポケットから携帯電話を出し、彼女のメールアドレスを呼び出した。そして、メールを送り、携帯電話の電源を切った。外の景色はまだ変わっておらず、緑と青と、いくつもの四角が走っている真っ直ぐの線だった。


 僕は君からの返信を待っている。返ってこないかもしれないメールを。もしかしたら、数年後に返ってくるかもしれないメールを待っている。ニューヨークでは今、何が起こっているのか、興味はないけど知らせて欲しい。僕はそれだけで、いくらか救われるんだと確信している。その後のことは考えないことにする。過去も未来も嫌いだ。とりあえずだ。僕は君の事がどうしようもなく好きだ。たとえ君が幸せになっていようが、僕が将来、今は知らない誰かと幸せになろうが、そんなの関係ないくらいに。

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