第11話 vs池田博文 part2

第一宇宙速度の公式は、7年前の昔から既にそこにあったのだ。

池田博文、教職歴35年目にして最大の難問が敢然と立ちはだかった。


「......」


幸い、自分の背に隠れて生徒達からその数式は見えていないだろうし、何よりこの池田と悠然のバトルの経過を斟酌している奴など居よう筈もない。


池田は一つ深呼吸を挟み、その浮かび上がった数式にチョークを当て、そのままなぞった。


流石は長年教師をやっているだけあり、根号の先にあてがわれたチョークは、寸分の狂い無く完璧にその浮かび上がった稜線を辿った。


チョークはゆっくりと稜線を進んでいき、軈て全てをなぞり終えたそれは役目を満了し、再び眠りについた。



「コホン、さて、これが第一宇宙速度の公式であるが、問題はこの導出のプロセスだ。一度君達も考えてみてくれ。」


池田は一先ず胸を撫で下ろした。

何事も起こることなく7年前に悠然が仕掛けた罠を掻い潜ることが出来たからだ。


その時、悠然がゆっくりと挙手をした。



「!!

......どうした、悠然...トイレか...?」



「今、先生がそこに数式を書いたことにより、インドネシアで大型ハリケーンが発生したがどうする?」


クラスに居た人間は、池田を含め皆が一瞬口をぽっかりと開けて呆けてしまった。



「は......?」



「バタフライ効果の考え方だ。先生が今チョークで俺が7年前に仕組んだ白線をなぞったことにより微細な気流が発生した。」


悠然はすました顔で説明をし始めた。

池田は授業を中断し、その理論に耳を傾けた。



「その結果、空中の分子の熱運動が少しだけ増し、今インドネシア近海へそれが波及した。そして大型ハリケーンが出来た。」



「......悠然よ、馬鹿なことを言うのは止めろ、それに、インドネシアで大型ハリケーンが出来たからといって何だというのだ。」



「要するに、先生は7年前に俺が敷いた"伏線ルート"を素直になぞってくれたということだ。今日、一人の東南アジア系AV女優が通り魔に殺される予定だったのだが、今発生したハリケーンにより彼女は外出を自粛し、死を免れる結果となった。」



「AV女優......だと?」



「おっと、そして今度はそのハリケーンの発生によってこの教室に可愛らしいお客が来たようだ。」


悠然がそう言って窓を見ると、一匹のアゲハ蝶がひらひらと教室に入ってきた。



「悠然...お前は未来が見えるとでも言うのか?

...ファインマンは『量子力学を理解している者など居ない』と言った。

況してや一般の高校生が...コペンハーゲン解釈の演算を行うなど......」



「ふむ......y=√45/4x^√2-9 +23か。

中々鋭い角度で飛んだな......」


突然、何やら怪しい数式を口走り始めた悠然。



「何だ......?」



「先生の唾が描いたグラフの方程式。因みにy軸はこの床だ。

ナビエ=ストークスもびっくりの粘っこさだったようだな。」



「はぁ?私の唾の方程式だと......?」



「この世界を構成する少なくとも線、は全て方程式で成り立っている。

先生の顎の方程式はムチンをx軸として原点は顎の頂点とすればy=13/31x^2。」



「でっ、出鱈目を言うな......そんなことがあるものか......」


池田は顎を撫でた。



「実際、俺が仕掛けた白線はチョークの粉が7年間で舞い上がる様を全て数式化し、計算された物だ。先生は悉く踏んでくれたようだが。また、インドネシアのハリケーンやAV女優の末期も、俺がこの世に生まれ落ちた時点で全ては解析されたのだ。」



「......ぬぅ。」


これでは物理教師としての面目が立たない、と池田は歯を噛み締めた。

クラスメイト達はぽかんと二人の様子を見守っていた。



「ならば、ならば、地球を取り巻く環境問題や、コロナウイルス、エネルギー問題、その全てはお前一人で解決出来るのだな?」


池田はやけくそになって人類にとっての最大の難問を投げ掛けた。

どれだけ学問を修了していたとしても、どれだけ知能に秀でていたとしても必ず閉口する所がこれらの問題の難しさたるやであろう。


だが、今作の主人公、上悠然は違った。

彼には諸々の常識は通用しない。



「ああ。

俺は二酸化炭素から酸素を作り出す簡単な化学式も知っているし、ジョンバール分岐点毎に蓄積されたパラレルワールドから酸素を送り込み、各ワールド内の気体分子のモルを調節することだってやろうと思えば出来る。

コロナウイルスも同じだ。俺が一回深呼吸でもすれば世界中に蔓延したウイルスの全てを吸引し、体内で殺すことも出来るだろう。ワクチンも俺の頭の中では既に出来上がっているしな。」



「.......ならば、何故そうしない?

そんなことが本当に出来るならお前は人類の救世主になることだって出来るんだぞ。

我々が人生を賭ける理由は何だと思う?我々人間は何故人間百年の間、生殖を終えた後もこうまでも頑張り続けるのだ?それは、あわよくば後世に名を残したいという欲望から来るのだ。

悠然、お前の言うことが本当なのだとしたら、お前はその年にして人生最大の名誉を取得する権利を得ていることになるのだぞ。

何故人類を救わない!!」


勿論、池田は悠然の話など出鱈目に過ぎないと考えていたため、的確にロジックを組んで悠然を徐々に追い詰めようと画策した。

そして、今池田の理論は最高潮に達したのだ。



「生憎、俺はそんなに利己的な人間ではない。

何故俺が環境問題に対して腰を上げないのか。

それは、俺がそれらを解決してしまうと忽ち生活に困る人間が出てくるからだよ。

俺が地球温暖化を解決したら、一体どれだけの組織が潰れ、政治家が更迭され、民間企業が倒産し、また何人の物書きが姿を消すだろうな。あいつらは環境問題解決のために動いているようで、実情はそうではない。いざ問題が解決されてしまうと今度は自分達の生活が苦しくなるからだ。

俺はそういった人間も等しく救う。

今人類にとって最も良い選択は、このまま環境問題を後世に引っ張り続けることなんだよ。だから俺は敢えて動かない。

もう一つ、それはまだ人類の思想は成熟しきっていないということだ。

もっと環境問題という良い題材を使って人類は思想を交換し合うべきだ。」



「......」


池田は顎を撫でて考え込んだ。

池田も今迄かなりの議論をこなしてきたが、少なくとも悠然のそれは初めて対面するタイプであった。



「それに、」


悠然は椅子に座ったまま、消しゴムのカスを床に放り投げた。

その瞬間、クラス全体がその消しゴムのカスに凄まじい力で引き込まれ始めた。

蝶はその消しカスに吸い込まれ、物質的に消滅してしまった。


「うわぁっ!?」


クラスは騒然とし、池田も黒板の縁にしがみつくことしか出来ない。


じきにその吸引は収まり、床にはごく一般的な消しゴムのカスが横たわっているだけであった。



「元物理学者さん、貴方は今の現象の原理も恐らくは理解出来ない。

というより、まだ人類はこのレベルまで達していない。

要は、お前らが俺を利用するなど、一万年は早いということだ。」



悠然が突慳貪に言い放つと、それっきり教室は静まりかえってしまった。


その時、一人の生徒が元気よく挙手をした。


「先生、できました!」



「えっ......?何だ、大崎。」



「いや、第一宇宙速度の公式の導出ですよ。」



「ああ、そうだったな......どれどれ......」



驚くべきことに、クラス中が悠然に呑み込まれていた最中、大崎唯一人は第一宇宙速度の導出に夢中になっていたのだ。


人類にもこれくらい熱心に学問を究めてほしいものだ。

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