第9話 vs池田博文 part1

公立法会高校2年B組担任、池田博文(53)。

担当は物理。

数年前まで小学校教師をしていたが、己の年齢の限界を感じ高校教師へ転身した。

曰く、己がボケる前に何とか後代へ物理学の知識を与え、保持していきたい、と。



「今日は『宇宙速度』についてだ。では顔を上げて。」


そう言うと池田は黒板に慣れた手つきでサラサラと地球の絵を描いた。

彼の授業スタイルは基本的に教科書を用いず、殆どチョーク一本と黒板だけで進めていく。

教科書を使うことがあるとすれば、問題演習の時くらいだ。


そして、今2年B組が足を踏み入れているのが、高校2年生における第一関門である円運動から万有引力の法則だった。



「まずは第一宇宙速度、これは物体にとある初速度を与え、地表スレスレを......」


池田は黒板に描いた絵に文字を付与していき、その後向心力と万有引力の関係式を書き出した。


2年B組の面々は意外にも熱心に板書しているようだった。

所々寝ている者も居たが、概ね授業態度は良好であった。

吉沢が居ないことが大きい要因かも知れないが、いよいよ受験が迫ってきたという各々の緊張感も少しは出てきたようだ。



「では森、この時衛星に掛かる向心力の式はどうなるだろうか。」


池田はクラスの方を振り返った。

すると教室の後ろの方でガタッと机が揺れる音がした。



「ふあっ......すっ、すいません、寝てました......」


突然指名された森愛美は頭を掻きながら笑って誤魔化そうとする。



「宜しい、よく寝てよく育ち、惨めな人生を送りなさい。」


池田が微笑みを浮かべながらそう言うと、皆は苦笑いを浮かべた。

これは毎度のことで、池田は寝ている生徒を見つけると即座に指名し、最後には皮肉の効いた言葉を掛けるのだ。



「ではその横の.......悠然、衛星の向心力はいくらだ?」


今作の主人公、上悠然は隣の席の森同様、完全に睡眠していた。

全く起き上がる様子もない。



「森、悠然を起こしてやれ。」


再び机に突っ伏しかけていた森に命令を出す。

森は悠然の体に触れ、左右に揺すった。


すると、悠然の体はグラグラと動き始め、森が手を放した後もメトロノームのように揺れ続けた。



「何だ......?」



それは段々と加速していき、軈て残像となる。

椅子が凄まじい速度でカタカタと床を叩いた。

そして暫く揺れ続け、漸く悠然は顔を上げた。



「悠然、やっと起きたか。もう一度質問する......」



「俺はさっきから答えているじゃないか。」


悠然は真顔で池田を見つめた。



「えぇ......?」



「第一宇宙速度は7.9×10^3m/s、だろ。」


この時、池田の頭の中で全ての点と点が繋がった。

そして池田は知ることとなった。

さっき悠然が揺れていた速度、それこそが第一宇宙速度であること、そしてここまでの文章の行数が79行であることを。



「ほっ、ほう......中々粋なことをするじゃないか悠然......」


池田は平然を装いつつ黒板に第一宇宙速度を文字を用いた形で書き表した。



「しかし私が質問していたのは実数値ではなく与えられた文字で表した式だ。残念だったな、悠然よ。」


池田は年甲斐もなくこの悠然という男に対抗心を燃やしていた。

この達観を気取ったかのような男に何とか見下されまいと常に気を張っているのだ。



そして池田は黒板の方へ振り返り、v=√gRを書き表そうとした。

が、そのまま硬直してしまった。



「ん?」


「どうしたんだ?」


突然の中年男性の硬直に、クラスはざわめいた。

脳卒中や心筋梗塞の類いかもしれない。



否。

池田は体を小刻みに震わせていた。


今v=√gRを書こうとしていた所を凝視しながら、池田はまるで蛇に睨まれた蛙のように怯えていたのだ。


そこにはもう既に「v=√gR」という式がうっすらと書き出されていたのだ。



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