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「自分、信じたんや? 俺の言うこと」

 信じるか信じないかでいえば、倫はもうとっくに信じていたのだろう。どちらでもいいことだった。改めて考えだしてみると、今まで上野がそのことでどんな思いをしてきたか同情しかけそうになって、やめた。ただ隣に住んでいる自分が丸見えだったのかと思ったら突然恥ずかしくなった。


「運転うまいんやな。ハンドル握ると性格変わるんちゃう」

「大学生の時それでひと悶着あって乗るのやめました」

「むっちゃ怖かったで」

「すみません」

「あー。お尻痛いわ」

「すみません」

「許した。また後ろ乗らしてや、次はねんも一緒にな」

 ねんのいない302号室で上野は昼のことを思い出して、おかしそうにした。聞いていないけどただつけているテレビでは、ねんの代わりにはなれない。


 倫は初めて昼休みを無断で延長して、ねんを迎えに行った。かみさまの予言は外れた。それから病院まで上野とねんを見送ってから、毎朝の出勤ルートをまたたどって、二回目の出社をした。その間はものすごくドキドキした。「猫が危篤でした」と言えばフロアは急にやさしい空気になって、倫は拍子抜けして床に座り込んでしまった。自分はこういうときのために今までまじめに働いていたのだったと思い出した。


「ありがとうでは、足りんな」

「気に……せんで?」

「下手くそやなあ」

 使ってみようとすると意外に難しくて、上野の努力を知ることになった。そのとき聞こえてきた関西弁で倫はテレビに目をやる。世界遺産を紹介するテレビ番組が終わったところだった。「こんばんは」と座っているニュースキャスターがあいさつをした。もうほとんどの局で同じ内容しか取り扱わなくなって、あまりテレビを眺めることはなくなっていたが、やっぱりつけるたびに隕石の話をしているので本当に隕石が好きなのだなあと思う。上野はテレビの光をそのまま眼球に映してじっと見つめていた。いつかのねんのようだった。上野にはどこまで見えているのだろう。



 暦は秋でも、仙台ではもう冬と同じ寒さになった月曜日に、長谷川の異動が決まった。ずいぶん異例のことだった。新入観葉植物の名前も決まった。めかぶさんは入り口にいるのでみんなけっこうその名前を口にした。倫もあいさつするようになった。いつも通りだったものはだんだんくずれて、その形すらいつもになっていく。


「長谷川さん工場に行っちゃうんですよねえ。こんなときなのに、やですね」

「ううん。本当はそっち行きたかったの、俺。こんなときだから頼んでみた」

「うそー、何もないじゃないですかあっち」

「俺にとってはいろいろあるんだな」

「ふーん」

 めかぶさんの名付け親が長谷川と話しているのが聞こえていた。倫は長谷川がそう思っていたのを初めて知ったし、自分がいることが彼の足かせになっていたのかもしれなかった。考えすぎかもしれないけど、離れたことで長谷川にとってもいいことがあったならいいと思った。そう思うことにした。


 どうせ終わる毎日だからと型落ちした倫なら言ったかもしれない。でも今の倫は、この会社で、制作部で、やりたいことがある。それはまだ言葉にできないけど、ちゃんと見つけていく。焦らなくたっていい。新しい財布も買いに行く。こんなときだろうが、こんなときすら倫にとってはいつも通りだ。



「せっけんは必要かな」

 長谷川は倫に話しかけた。送迎会という名の飲み会が終わって、店の外に出たときだった。

「愚問っす」

「言うねえ」

 すっかり夜にもなると、コートを着ても首元が寒い。今はせっけんよりもマフラーが必要と言いたいのはこらえた。今このときに、せっけんを作っている意味はあるのかということだ。長谷川だって不安を抱えている。倫と変わらない。


「洗わないと、汚れはとれません。とれない汚れもあるけど、洗ってみないと分かりません」

「だよなー。せっけん、世界救うといいなー」

「隕石もすべるかもしれないですしね」

「銭湯に落ちたらいいけどな」

 二人とも、鼻のあたまを赤くしていた。長谷川に会うことはもう二度とないのかもしれない。冬がきて、春がきて、夏がきて、たぶんもう秋はこない。

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