5

 水曜日、観葉植物がいなくなった。枯れてしまったから。名前をつけて呼んでいた同僚は少し寂しそうにしていた。


 木曜日、新しい観葉植物が来た。また名前の知らない種類の、緑色のやつだった。同僚は新しいのにもご丁寧にあいさつをしていた。命名はこれからするらしい。


 新人観葉植物の歓迎会が終わったので、いつもの掃除を始める。倫はデスクを拭いているとき、これが嫌いなわけじゃないことに気づく。ちょっと好きになりかけていることにもだった。倫はいやなことでも環境に順応していって、受け入れることができる。制作部に勤めたかったけど事務部になって、でも案外一日座っていられるしと思った。欲しい色のコートが売り切れでどうしようか考えていると、ぜんぜん気にもなっていなかった色のほうが良く見えて買っていたりする。そういうことが多い。

 長谷川を抜きにすると、倫は制作部となんのつながりもなかった。同じ会社で、同じ場所で仕事をしていてもだった。隣のクラスに友達ができないのと同じだと考えたらごくふつうのことに思えた。


「友達いないっけ」

 角のすれた長財布だけを持って階段を降りていた倫は、のぼってきた長谷川の顔を真正面からみることになる。顔も話もほどほどに久しぶりで、でもすぐにその感覚はこの間までに戻っていくようだった。


「多くはないものの」

「いらっしゃると」

「おりますよ」

「階段?」

「友達!」

 長谷川が持つカップからは、ふたがついているのにコーヒーの香りが倫のところまであふれて届いていた。それにまぎれるようにタバコのにおいがあった。まだ昼休みは始まったばかりなのに、階段を上にのぼる長谷川。


「そんなに見てもあげないよ」

「そういう目で見てないです」

 使いどころがずれたような倫の台詞に長谷川は少し笑った。どういう目で見ていたのか彼は分かっていたようだった。

「タバコ吸ったらおなかいっぱいになったんだわ」

「このままでは死んでしまいますよ」

「どのままでもみな死ぬ」


 倫は勝手に長谷川がどんな風でいるのか想像していたけれど、話してみるとそれはやっぱり想像でしかなかったのだと思った。倫が知っていた長谷川はもう古くなって、型落ち製品だ。あの日までの長谷川と今ここにいる長谷川は同じで、ぜんぜん違うものになっていた。


「最近できた友達と約束したから今日はいつもの子たち断りました」

「いいね。食って肥えるがいい。死ぬまでな」

「うん」

 見慣れてしまった眉の下げ方と、目じりのしわと、口角の上がり方をして長谷川は「では」と言った。倫も同じ言葉を返した。離れてから初めてちゃんとした会話は乱雑で、とても丁寧だった。



 日が差している時間にビルを出たときの解放感はくせになる。冷たい風も気持ちが良かった。待ち合わせの公園まで歩きはじめてから、本当に見えているのなら上野は倫がどこにいるのか分かるのかもしれないと思った。別の場所に行ってみようかとたくらんで、やめた。お昼は上野の配達先にある弁当屋で買ってきてくれると約束したので、倫は財布一つだけもってベンチに座るOLの像になる。このくたびれた財布をいつか買い換えようと思い続けて、いつかがやっと今になったのだ。

 上野が来たのはすぐに分かった。スクーターを押しながら、ヘルメットゴーグルとめがねをかけていたからだ。


「お待たせ」

 と言う上野は倫を見ているのに見ていないあの瞳の色で、ずいぶんと不自然に見えた。ヘルメットを外すと髪の毛はぺしゃんこで、ひたいから汗がにじんでいる。

「これ、おべんとお」

 どう見ても、上野が変だ。

「具合悪いんですか」

「悪いかもしれへん」

「無理して来なくても」

「ちゃうねん」

「なにが」

 今彼を人差し指で押したらぼろぼろ崩れ落ちてしまいそうなもろさを倫は感じた。

「もう間にあわん」

「ちゃんとしゃべって」

 上野の目がやっと倫と合った。昼休みが一時間しかなくて、残り時間が減っていくのとか、今はどうでもよかった。


「ねんが、毛玉出せんで詰まっとる、息」

「なんで、こっちに来たんですか」

「もう間に会わん。距離見ても、タクシーも道路も、見えんねん、分かるねん、俺やから。無理や、間にあわん」

 顔色は悪いのに、その言葉には少しのぶれもなかった。あっけらかんとして、空っぽみたいに上野は言った。倫が一文字も発する前に、彼は何を言おうとしたのか分かったみたいだった。


「俺やからな。ふつうの、かみさまやから。ねんの死ぬとこなんて見たない。せやったら真中さんとおりたい」

 体中の力を吸い取られたみたいにぐったりして、上野はベンチに腰掛けようとする。倫は一瞬でたくさんのことを考えた。ねんがいなくなったときの上野のこと、会えないでここで弁当を食べること、今一人でいるねんのこと。


 ビニール袋を上野からひったくってスクーターのかごに投げた。ヘルメットをそのぺしゃんこになった頭にもう一度押し込む。思い切り力を込めて彼の手を引いて、反動でスクーターの後部にぶつけるようにした。「痛」と言う上野を無視してサドルにまたがる。ハンドルをにぎってみた。何年ぶりだとかは考えなかった。

「怖い、なんか言うて」

 上野は何も言わない倫に怯えはじめる。

「座って」

「やって、間に合わんのやで、俺には見えるねん、見えるから言ってるんよ。このあと自分ら仕事やろ、どうすんねん。遅刻してねんが死んどるん見て戻るんかって。それにな、それにどうせ、みんな一緒に」

「あきらめる理由にはなりません」


『どうせ、みんな一緒に』の後になにが続くかはもはやこの世界の誰にでも分かることだった。上野は素直に、黙って後部の荷物置きに体重を落とした。重みで沈んだのを感じた瞬間、倫はもう発進していた。


 彼の言う通り、道路はひどく混みあっていた。全員が辞めるわけにはいかないけど、もう仕事をしたり学校に行ったりしている理由なんてないようなものだ。みんな思い思いに、やりたいことをしたくて、行きたいところに行きたい。

 倫はぎゅるぎゅると車の隙間を抜けていく。色んな人の色んな気持ちの間を通り抜けていく。後ろにいる上野はしっかり倫の腰に手を回して縮こまっている。

「死んでまう」

「どうせ死ぬんだから今は誰も死にません」

 倫の声は上野には聞こえないだろう。分かっているけど倫は言った。

「その関西弁もです」

 えせ関西弁は上野そのもので、ねんと彼二人の証だ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る