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一人になると、とたんに心細くなった。電気をつけるとぱっと視界が明るくなって、見えたのはいつもと変わらない部屋だった。
本当は、分かっていることもある。長谷川は年上で、倫の行きたかった制作部で、あこがれの形を手にした気持ちでいた。それで倫は自分のやりたかった仕事に就けなかったことを我慢できた。というか、できるようになってしまった。それからまだまだ考える。
あとどれくらいの時間があるのか。倫は、今だけはそれを無視することにした。お互い今の年齢で別れるということ、結婚するためにはまた一から恋愛をはじめなくてはならないこと、長谷川と結婚したいと思っているのかということ、毎週会うことがいやになってしまっていること、それを言いだせないこと、いつの頃からか別れるか別れないかでずっと悩んでいたこと、それにもう耐えられそうにないこと、だから別れを告げるということ、それから、長谷川が一人になってしまうこと。切り離されるときの苦しさを倫は知っていた。でもこれはやさしさじゃない。
歯磨きまでちゃんとした。宣言通り、アルコールには手を伸ばさなかった。お風呂は明日入ることにした。涙が出た。止まらないと思ったけど、ちゃんと止まった。そうして目をつぶったら、ちゃんと倫はおやすみできた。
その日曜日は、いつもと違った。長谷川と恋人同士でいるのはこの日が最後になった。そのあとの月曜日のことはあまり覚えていなかった。それから倫のいつもは、今までのいつもとは別のものになって、それがいつもになった。
火曜日がきた。仕事帰りにスーパーに寄るのは久しぶりだった。弁当ではなく料理が食べたかった。一人で鍋にしてしまおうと決め込んで、白菜と豚肉とポン酢をかごに放り込む。白滝は迷って、買うことにした。途中で大切なとうふのことを忘れていたのに気がついて手に取ったまではいいが、見覚えを感じて立ち止まる。冷蔵庫にまだあったような気がする。「きぬ」と達筆で書かれたパッケージと見つめ合っていたら手が冷たくなってきたのでいったん売り場に戻す。倫は首のところを掻いた。横から手が割り込んできて「もめん」のほうを取っていった。少しよける。
このとき自分が完全に長谷川のことを忘れていることに気がついてしまった。気がついてしまうともうだめだった。彼はどんな気持ちでいるのだろう。倫はいつも同情が行き過ぎて別のものを作りあげてしまう。麻婆豆腐のとうふを型崩れしないで作れる長谷川を思い出した。倫はみくびっていた。長谷川は何も気づいていないわけではなかったし、全部気づいていたわけでもなかった。倫は考えすぎた。でも止めることができなかった。とうふのコーナーから動けなくなって、となりのとなりにある納豆と目を合わせたままでいた。早く家に帰ろうと思った。落ち込む場所はとうふコーナーではない。「きぬ」を手に取ろうとして、
「二丁もあるんよ! 食べきれるんか! とうふそんなに好きなんか!」
といつのまにすぐ横にいた上野が大きな声で言った。気配は一切なかったので倫はびっくりして少し跳ねた。声は出たけど、倫の代わりに上野がかぶせて「ど!」と言ったので自分の声は聞こえなかった。
「びっくりしました」
「びっくしさせたもん。ものすごいオーラ出てたで。そんな迷ってたんかとうふ」
倫はまたなんと返せばいいか分からなくて、微妙な返事をした。
「ちなみにポン酢もストックあるはずやで」
「怖いんですけど」
上野はいつも急に倫の前にあらわれる。ストーカーとしか考えられないようなことを平気で知っているのに、恐怖を感じたことはまだなかった。実は倫が精神的に参っていて自分にしか見えない幻覚であるというのが上野の正体第一候補だ。
「おひとりさま鍋、悲しなー」
かごにツナ缶に似たペットフードをいくつか入れている上野はそう言ったあとに
「あ、電話や」
とわざとらしく言い、「もしもしい?」とスマートフォンを耳にあてた。
「え、そうなん。今ちょうど真中さんおるで。おん。言っとくわ!」
えせ関西弁の上野は電話を切るそぶりをして倫を見る。
「今ねんちゃんから電話来た」
「ねんさんから」
「倫ちゃんと一緒に飯食いたいのだが。と申しておるで」
「ねんさんはそういう風にしゃべるんですね」
「うん。ねんは男前ガールやねん」
倫はなんじゃそりゃと思ったのを言わないようにした。
「ええやろ三人やし、一緒の時間を大切にしようや! 彼ピおらんなら怒られることもないしな」
「彼ピ」
「ねんも彼ピ最近おらんからはずむで、ガールズトーク」
上野ワールドに飲み込まれた倫はずっと笑いをこらえて口を結んでいたがついに観念する。とうふは買わなかった。ポン酢もやめた。
「目視! な。あったやろ」
冷蔵庫を開けて二丁のとうふを目視したあと、台所の戸棚に置いてあったポン酢を確認した。その間ねんは倫の両足のすきまにいて、じっと正面を向いていた。自分の部屋に自分以外がいるのは不思議だった。
「目視。ありますね」
「当たり前や」
上野はリモコンを手にとり勝手にテレビをつけた。もはや聞かずにはいられなかった。
「さすがにどういうことですか」
「どうもせん。俺はふつうやねん。せやけど」
テレビではまた隕石の話をしていた。専門家たちが集まって真剣な顔をしているが、耳には入ってこない。
「かみさまやねん、ふつうの」
「ふつうのかみさま」
上野は手に取った「きぬ」のフィルムに包丁の先をゆっくり突き刺す。ぷつりと水が溢れていって、彼の丸っこい爪の上や手の甲に流れた。人間の手だった。
「見えてしまうんよ。誰がどこでなにしてるか。でも、何もできんの。で、ふつうに仕事せなお金ないし生きていけんし腹は減るしご飯も食べるし歳も取る」
倫は何と返せばいいか分からない。いつものような、冗談に見合う返事が思いつかないのとはわけが違うことは分かった。
「やから俺はふつうのひと」
ねんがケヒ、と変な音を出した。上野は濡れた手のまましゃがみこんだ。
「ねんちゃん昨日吐いてん。病院つれてったんやけど毛玉詰まりやすくなってもうてるんやって」
「大丈夫なんですか」
今この言葉を使っても意味がないことに、倫は言ってしまってから気がついて後悔する。
「もしねんがおらんくなったら、俺の関西弁、いらなくなるんやなと思って」
上野の台詞と似たようなことを、隕石が好きなおじさんがテレビの中で言っていた。
「いっこ大事なもん忘れたなあ、しんどいな」
「聞いてもいいですか」
さっきと同じ声のトーンで言うので、大事なことのような気がした。返事は今度こそ失敗しないように気をつけたのに。
「昆布」
まったく使えない神様だ。
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