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 月曜日、いつも通りの朝だ。後ろを歩く人の落ち葉の踏む音がうるさいので、倫は追い抜かしてもらうためにゆっくり歩いた。知らない背中を確認した後もそれはだんだんとペースを下げていく。家の鍵を閉めたかどうかが思い出せない。


 いつもなら家を出て数歩のところで気になってしまい、ドアノブをがちゃがちゃいじりたおしてからまた歩き出すのに、今朝はしていなかった。昨日、大して意味のないことを考えるのに気持ちも睡眠時間も使いすぎたせいだ。最後に時計を見たのは深夜二時を過ぎたあたりで、眠れないことに焦って何度も確認したから覚えていた。考えていたことはもうそっちのけになっているのに、眠れないことへのむかむかした気持ちが倫の夜を食い散らかしてしまった。


 迷いがちにゆたゆたと動いていた倫の黒パンプスはついに音を立てなくなる。ここまで歩いて引き返したら、会社には遅刻するかもしれない。でももし鍵を閉めていなかったとしたら、その間に泥棒が入ったりしたら。それでも今まで鍵のかかっていないことがあったかと考えると、そんな日は一日たりともなかったのだ。今日だけ本当に閉め忘れている可能性は決してゼロではない。けどもう、どちらでも結末は変わらないような気もしてしまう。頭の中が『どうしよう』しかなくなった。何を悩んでいるのかすら分からなくなった。もうすぐ十月にもなるのに、じわじわとわき汗をかき始めて気持ち悪い。胃が地面に近づいていくような不安の中に落ちて、漬かりこんでしまった。


 通勤中のスーツの男性も、制服のスカートを揺らしながら歩く女子高生も、立ち止まる倫をよけて追い抜いて行く。自動車の音と風が耳の横を通る。信号が赤になると、今度は足音だけになった。スクーターの音がひときわ目立って聴こえた。そうしてその音はだんだん大きくなって、倫のすぐ横で止まった。行き過ぎたこの心配性を心配する顔で声をかけてくれたその人は、倫にとっては神様のようなものだった。


「真中さんやんな? ずっと立ち止まって、どうされました?」


 言葉は、遠くに住む人の聞きなれないイントネーションだった。人間とは別の、宇宙人とか人外の言語かのように、倫の弱っていた頭は錯覚した。

 それも一瞬のことで、倫はすぐに隣の302号室に住む上野緋都を思い出した。初めてこのなまりを肉声で聞いたのは彼と最初に話をした日、倫が仙台に越してきた日のことだ。上野とは生活する時間帯があまり合わないようで、それ以来あいさつもほとんどしたことがない。


「あれ? お隣の上野ですけど、ご存知でない?」

「あ、存じています、おはようございます」


 黒ぶちめがねの上にヘルメットをかぶって、その上にはゴーグルがある。耳のところがかさばって窮屈そうだった。倫の視線は自然とゴーグルの方へ向く。目が四つあるのかと思った。かごの中には何もなかったが、スクーターの形から新聞配達員なのが分かった。


「うん! おはようさん。具合、悪いんですか? 突っ立ってたから気になってもうて」

「大したことではありませんので」

「ホンマにぃ? ホンマのホンマに?」

 誰かに懺悔したい気持ちになって、倫は白状した。

「部屋の鍵を閉めたか、心配になってしまい」

「あらそうなん。今日はがちゃがちゃしなかったんや?」

「え。すみません。うるさかったですか」

「ううん、心配よな。分かる」


 ドアノブをいじり倒しているのがばれているのはなかなか恥ずかしかった。上野は「でも」と言って、視線は合っているはずなのに倫ではないどこかを見つめているような瞳を、一瞬した。

「閉まっとるで、大丈夫」

 その言葉を倫はきっちりそのまま受けとる。そうですか、と返事をしていた。


 それから上野にお礼を言った。たまった悪い空気のかたまりを吐き出せた倫は、きちんと頭を下げようとしたつもりが首だけカクンと落ちるようなおじぎになった。顔を上げるともう彼は背中を向けていたけど、こういう自分がいやだと改めて思う。もう五年も昔になる就職活動のときも、ちゃんとおじぎはできていなかった。倫はきびきび動けないのを猫背のせいにしているので、性格も一緒に直したいとそのときから思っていた。あれからなにも変わっていない。



 人に話すとよく「まじめ」と言われる。倫はただ慎重に生きているつもりでいたから、そう言われるのは嫌いだった。けれど毎朝、もしものことがあったらと早めに家を出すぎて職場にも早くついてしまうし、もしものことがあった今日も電車の時間は問題なしだ。まじめであるという自覚はだんだんついてきて、それが受け入れ難かった。


 せっけんが好きで、倫はこの会社に就職した。それなのにせっけんのなにがどうして好きなのかは説明できなかった。せっけんを買いそろえてしまうわけでもなく、それは感覚的なもので、言葉にできなかった。その、言葉に表せないことを大切にしたいと思っていたが、自分というものを考えなくてはならない志望動機欄からの逃げだったのかもしれなかった。ここまでは気がついていた。


 だから倫は制作部には入れなかった。だから倫はこの会社に入って、この会社でなくても同じような雑務を仕事にしていた。自分の人生はこのまま終わるのだろうとなんとなく受け入れてもいた。事務部の仕事はたとえばまず、フロアの掃除から始まる。

 五年経つのに名前も知らない観葉植物のほこりをはらっていた。誰かがペットみたいに名前をつけているのを知っていたけど、倫は呼ばない。


「もしかして寝坊した?」

 週明けだから、枯葉が数枚落ちていた。長谷川新とは昨日も一緒にいたが、そんなことはない感じを出す。


「してない。ですよ」

「いつもの時間にいなかったから」


 どの部署とも区切りのないワンフロアなので、行きたかった制作部が見えると倫はたまにみじめな気分になる。でもそのおかげでいいこともある。長谷川は制作部の先輩で、二年前から付き合っていて、このことは会社のだれにも秘密だった。


「鍵を閉め忘れた気がしたんです」

 長谷川でなければ、このことを倫は話さなかっただろう。上野に話したことが、自分でも不思議だった。それを今さらになって気が付いたこともだ。


「戻ってたってことか」

「いや、……そうです」


 これ以上はもう言いたくない。長谷川は倫のことを十分知っているから、付き合いが続いて、少しずつ倫は自分のことを話したがらなくなった。倫も、長谷川の話にあまり興味がなくなった。それでも好きだった。


「それは意外」

「意外て」


 気になる話ができそうになったときに、長谷川はすーっと他の社員のほうへ行ってしまった。倫とだけ長く話すことはできないからだ。長谷川の背中を見送ることはしない。倫は考え事をしながら一人掃除を続けた。

 あのときもし上野に会っていなければ戻っていたのか、自分でも分からない。彼の言葉をうのみにして会社へ向かうことができたのは、もっと分からなかった。ただ大丈夫と誰かに言ってほしかっただけなのかもと思ってみたが、それだけは絶対に違うと打ち消した。そういう言葉をかけられたなら倫は腹を立てる。たとえば今、みんないつかは死ぬのだから大丈夫と言われたってなんの解決にもならないから。誰が何を言ったってどうしようもなくて、変わらない事実がある。なぐさめが無意味になる日が来る。


 上野がどうして「閉まっとるで」と言いきれたのかは知らないが、これで帰ってもしも閉まっていなかったなら倫は上野に腹を立てるだろうなと思った。でも倫の部屋の行く末を近々来るその日と比べてみるとと、ずいぶん小規模だな、と笑えてきた。


 その日、帰宅するときに鍵を使った。朝の不安がどこにもないことにそのとき気がつく。

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