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それから上野と会うこともなく、倫の毎日は元のいつも通りだ。卓上カレンダーのページを破く前に、十月はいつの間にか終わっていて、十一月が始まっていた。
ドアノブはちゃんと家を出てすぐにがちゃがちゃするようにした。倫は寝る前にお風呂や洗面台の水道がしっかり閉じているか確認しないと眠れないので、これも日課だ。
自分でコントロールできる範囲の心配ごとがなくなってから電気を消してベッドにもぐりこんだ。コントロールできないほうの心配ごとはもうしばらく前からお手上げしていた。その後すぐにスマートフォンが鳴る。勝手な都合でうるさくするあの機械はうっとうしくて、でも縋らずにはいられないから嫌いだった。あんなに便利な機械も突然無意味になる日がくるというのが怖かった。考えていないつもりでも、すみっこに必ず大きな不安がつきまとって邪魔だ。
枕もとの時計とは別にアラームを好きな歌に設定して、ベッドを出ないと止められないところに置いてから寝る。こうしないと倫は朝起きられない。いつもそういう風にしているから、今もせっかく入った布団から起き上がらなくてはいけなかった。1いらいらポイントが溜まる。
真っ暗な中でそこだけ、うるさいくらいまぶしい画面の明るさを一番下まで下げた。これは2ポイント。
『今週末はどっか行きたいところある?』
長谷川だった。これはいらいらじゃなく別の色々なポイントが100くらい溜まった。景品と交換できたらいいのに、倫は溜めることしかできない。せっかく寝るつもりでいた気持ちはすっかり冴えてしまったので、いつもと同じ
『とくになし! おまかせします』の返信をしたあとスマホはおやすみモードにしたけど、倫はおやすみできないモードになっていた。
連絡があってもなくても、ここのところ眠れないのはいつもと変わらない。原因は分かる。でも一つじゃない。もう何も考えたくないのに、止め方が分からなかった。こうなってしまってから、今日で何日目だろう。
「新しいくつ、買えばいいのに。雨降ったら浸みるじゃん」
「今日雨降んのかあ」
何回目か分からないデートはいつも通りの土曜日で、天気はくもり。夕方から雨が降るらしいから外出日和とはいえない。倫は服を決めるのに天気予報のアプリを必ず前の日の夜に見る。長谷川もそれを知っている。
「夕方から60パーセントって」
「マジかよ。降るなと念じるか、くつ、見に行くか」
「うーん」
「どっち」
「念じながら行きます」
「どっちもと言え」
会社以外で長谷川といるとき、手をつなぐのは当たり前になった。長谷川の手の形や温度、ずっとつないでいると湿っていくのも当たり前になった。倫はもう手をつながなければ歩くことができない。もう当たり前になってしまったことを崩すことができない。
「あとどうする? 行きたいとこある?」
「……んー。ないですね、念じてるし」
長谷川が眉毛をハの字にして笑う。タバコの灰色の混ざった歯ぐきが見えた。最初のころ、倫がタバコを嫌だと言ってからとたんに吸う量を減らすようになったのを思い出した。やめてはいないものの、今でも長谷川はあまりタバコを吸わないでいる。そういうところが好きだった。あとはスーツが似合うところと、倫より料理ができるところ。
「じゃあ俺んちで夕飯の共同作業ということで」
「私は見る係で」
「手伝いなさいよ」
こうやって、ふざけながら怒られる感じが倫は好きだ。どうすれば長谷川がこう言うのかも倫は分かっているから、わざと流れをもっていく。なんだかいつも繰り返してばかりだった。
結局、長谷川は新しいくつを買わなかった。一番近いスーパーで夕食の買い出しをして、雨が降る予報の時間には長谷川の家についていた。
「なぜテレビを見ている。じゃがいも!」
「私はじゃがいもではない」
長谷川は台所からじゃがいもを倫に見えるようにつきだしていたので、むけということだ。
「いうことをききなさいよ」
「じゃがいもは洗いものやるから長谷川さんはつくる係でいいじゃないですか」
「倫はじゃがいもになってしまったのか……」
「ごろごろ」
左上に六時五十一分と白い字でテレビは時間を示し続ける。まだ地方局の番組しか放送していない。チャンネルをぶちぶち変えてそれを確認して、倫はやっとあきらめる。ニュースキャスターの左右で角度の違うアイライナーを眺めていた。台所から軽やかな音がきこえてくる。いつかまでは料理を作ってもらうたびに写真を撮っていたし、倫も手伝っていたように思う。してもらうのが当たり前になっている自分の態度におどろいたのはけっこう最近のことだった。
『次です』
キャスターの横に画像が映し出される。自分に見ているという意思はなかったが、見えていた。静止画で、ただの光のかたまりのようなものだ。これだっていつかまでは新鮮だったのに、と倫は思った。
『発見されている隕石ですが、速度は変わらず落下を続けています。地球に到達するまでに燃え尽きる確率は依然として――』
倫は座椅子にもたれかかるとうとうとし始める。大きいじゃがいもが仙台駅のペデストリアンデッキに墜落して、いもからほこほこ湯気がたっている夢を見た。いいにおいがした。
目が覚めるとテーブルの上には完成した長谷川のカレーがあって、長谷川もいた。
「どれくらいねてた」
「分かんないけど二十分くらい?」
言いながら「はい」と長谷川はスプーンを手渡した。テレビはもうぜんぜん別のバラエティーをやっていた。
「いもが落ちてくる夢みた」
「なんだそれ。まー、もし本当にいもだったらハッピーエンドだよな」
「私たちがバッドエンドみたいな言い方」
「選ばれし登場人物のようなもんだ、俺たちは」
そう言って少し笑う、長谷川の低い声が倫は好きだった。
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