第5節

「危険だよ。何がどうなるか見当がつかない」


 プロジェクトは最終フェイズに入っていた。 


「いいかい、もう一度確認しよう。特異点では、すべてが破綻してしまう。どんな理論でも、どんな法でも、その点から先には進めない」


「でも因果律は過去へとまっすぐに繋がっていて……でも因果律が無限ではない以上、樹形図をさかのぼるようにして因果律の根源を探っていけば、どこかに「始まり」があるはずで……」


「それが特異点だ。時間と空間の最果てだよ。今回のプロジェクトでは、特異点を一つ「創り出す」必要がある」


「それが不可能かどうかは、やってみなければ分からないでしょう?」


「そう、分からない。皆目見当がつかない。

 もしもエントロピーが適切に拡散してくれなかったら? 時間軸がねじ曲がっていびつな時空が形成されてしまったら? インフレーションを天理と定めるならば、その行き着く果ては?」


「でも……」


 議論は長い間続いた。正確無比であるはずの天使や悪魔の時間認識力が麻痺する程度には。


「……なあ、ガブリエル、もうこのままでいいんじゃないか?」


「………………」


「気楽でいいんじゃない? 天使と悪魔だけの世界っていうのも。時折、見解の相違を表明して、それから戦争なんかして。のんびりやろうや、どうせ時間軸なんて存在しないんだし」


 宇宙は完全に自発的で、自己完結した存在だった。それと同じように、天界や地獄が自給自足の循環サイクルを構築したとて、誰に咎められるいわれがあろう。

 私はガブリエルをそっと見やった。色の褪せた唇、青白い肌、艶を失った髪……。

 お前は限界なんだ。頼むからここらで手を引いてくれ……そんな言葉が喉元まで出掛かった。何度も、何度も。


「私は……兄様のことが好きだった」


 ガブリエルの声は小さく、かすれていた。


「どうしても……」


 けほ、と嫌な響きの咳をして、彼女はかいなを広げて見せた。


「……どうしても、完成させたいの」


 私はぎょっとした。

 そこに投射されていたのは、ホログラム……蒼い星のビジョンだった。


「ガブリエル、ガブリエル……いつの間にそんなものを創っていたんだ?

 それはβ版かなにかか? そのためにどのくらい力を使った?」


「……おじさま……」


 懇願の視線だった。

 私は即座に、(ガブリエルを納得させられそうな)何通りかの言い訳とごまかしの言葉を思い浮かべた。

 ――上手くいくはずがないよ。

 ――ペンディングでいいじゃない。

 ――少し休んでからにしよう。

 ――お前はボロボロじゃないか。

 それらは確実に広義の嘘に当たるし、そんな場当たり的でいい加減な言葉を返すのは……フェアじゃない。この勇敢な少女に対して。

 そして何より、満身創痍と言うべきガブリエルの、その青い瞳だけは――深く輝いていた。曇りのない決意をいだき、恐れを知らず、穢れ無き誓いを秘めて。


「………………」


 言葉もない。私は手を広げて、抗議と、やるせなさと、諦念を同時に表現した。

 何千年ぶりだった。私が、もどかしくて言葉が出ない、などという経験をするなんて。


「わかった、わかったよ……。コーディングに集中しろ。余計なことは考えなくていい。バックアップする。おじさんが、全力でな」


 私は腕を広げ、彼女にハグを求めた。


「抱き合うのはプロジェクトを完遂してからにしましょう。

 私はね、おじさま。結構タフな天使なの!」


 そう言って、ガブリエルは、ごく久しぶりに小さく笑った。

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