第3節
「漁師の網のようなイメージなの」
熱を帯びた声でガブリエルが言う。
「漁師ねぇ……?」
「ああ、もう……違うの。他意はないのよ。見て」
ガブリエルがディスプレイに表示した仕様図説を私は入念に眺めた。
「ある物事が一方へと進行することを制限すると、事象の流れが止まってしまうでしょう?
だから網の目よりも細かいものは通してあげる。すると必要なだけ事象が流れて、秩序が構築される」
「これって、ミカエルの考えたやり方と違うだろ?」
「ええ。でもお兄様はお父様の方法論を踏襲していたから」
ミカエルは――もういない。
「兄さんは楽観的すぎたのよ。だから一瞬で力を使い果たしてしまった。でもこのやり方なら……」
私はガブリエルと論議を重ねながら、ひとつの可能性について考える。
ミカエルは消失してしまった。(それは私にとっていくぶん愉快なことではあったが)
ではガブリエルは? このプロジェクトは成功するのか? コレが終わった時、一体何が起きる?
「プロセッサというもの。これはすごいよね!」
プログラムのビルド中など、休憩の合間にも、ガブリエルは楽しそうにコンピュータの話をしたがる。ハマってしまったというやつだ。
「いずれ、これをつくり出した人間の知能をはるかにしのぐコンピュータが出来上がるんじゃないの?」
「まあ、あり得ることだな」
人工の知能を開発するために、人間はそれなりに努力を重ねていたようだ。
「そうやって出来たコンピュータが、また自分よりもずっと高性能のコンピュータを設計する……そしてきっとその子たちは知的好奇心も旺盛で……理屈上は無限大の知能が出来上がるじゃない?
そのうち天使や悪魔の知能も超えちゃうかも!」
「賢い子だ」
興奮気味のガブリエルをなだめるように、私は低い声で応じる。
しかし、そこで私たちは黙りこくってしまう。
実際には、天使や悪魔並みの、あるいはそれ以上の――というのは「あいつ」並みの、ということだが――知能はできあがらなかった。時間軸がそこまで進まなかったからだ。
そして時間軸は消失した。
137億年近辺で、何かが起こったのだ。
天使や悪魔の英知を総動員したにも関わらず、原因は判明していない。
ガブリエルが賢明にもプリンターを配備したので、ここまでの成果をプリント・アウトしてみることになった。
カリカリという機械音と共に、フロー・チャートやびっしりと文字列の書き込まれた書類が際限なくアウトプットされてくる。
「これは時間がかかるぞ」
心底うんざりした声で私が言う。もう何度インクを交換したかわからない。
「レーザー・プリンターを選択すべきだったんだ」
「お茶でも淹れましょ。インク代は天国の経理課にツケておいて」
ガブリエルは私の物真似をして肩をすくめて見せた。
天使や悪魔というのは腹も減らなければ喉も渇かないものだが、ガブリエルは時折、紅茶をたしなむ。
味や香り、そしてそれ以上にティー・タイムという時間そのものを楽しんでいるようだ。
テーブル・マナーについてガブリエルからいくつか注意を受けたが、そういったこだわりを見せるあたり、なかなかにマニアの素質を感じさせ、悪くない。私に言わせれば偏執的であることはひとつの美徳なのだ。
優雅に紅茶をいただくかたわら、山と積まれたプリント・アウトを二人で隅々まで精査しなければならない。
仕様書の山脈を踏破するまで、ティー・パーティは何日でも続く。
「やりようはある。地獄の悪魔を総動員すれば、アラを潰して限りなく完璧に近づけることは可能だよ」
「でもおじさま、完璧『そのもの』でないとダメなのよ」
「それじゃいつまで経っても完成しない。
いいか? 締め切りのないプログラムは完成しないという理屈、これはいわば定説だ。だがプログラムに限らず、法秩序というものは時間的な制約がなければ完成しないんだよ。
それに悪魔たちはその道のプロだぜ。信用できる」
ガブリエルの提案する「漁師の網」プロジェクト。そのバグ・フィックスの段取りを整える段階にきていた。
「あたしが心配なのは、網の目が荒すぎたり、ほころびがあるかもしれないっていう可能性なの。それも大丈夫かしら?」
「それもおおかたは潰せるだろう」
後年、地獄の悪魔の一部には「ほころび」の情報を外部に漏らす奴がいたようだ。もし、ほころび――つまりバグ――の存在を知っていれば、人間でさえそれを利用することができる。漁師の網をすり抜け、世界の法則に縛られない事象を起こす技術は「魔法」と呼ばれたらしい。
だが、そういった可能性が全く考慮外だったというわけでもない。
完璧なプログラムなど存在しない。完璧な仕様が存在しないのと同じように。
あらゆる網にはほころびがあり、それを根絶することは不可能に等しい。
だから私たちは――意地悪にも――ほころびを利用しようとして失敗し網にかかった者が名状しがたいようなヒドい目にあうよう、仕様を設計しておいたのだ。
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