第2節

「ねえ、このレバーじゃない?」


「うーん、どうだろうねぇ。マニュアルはないのか?」


「どこかにいっちゃった!」


 私たちは思わぬ苦戦を強いられていた。


 ガブリエルが余計なモノを用意していたのだ。第一の刺客、高性能のワーキング・チェア。こいつに歯が立たない。レバーが多数ついていて、どれが座面調節でどれがリクライニング機構なのかサッパリわからなかった。

 ガブリエルは背が低いものだから、椅子の高さをちゃんと合わせてやらないとデスクにぶら下がりながらキータッチをこなすというような間抜けな格好になってしまう。


「そもそも椅子なんてなんでもよかったんじゃないか?」


 言うまでもないことだが、天使や悪魔は腰痛になったりしない。


「だっておじさま、気分が出ないじゃない……きゃっ!」


 ワーキング・チェアに座って、あれこれとレバーを操作していたガブリエルが短い悲鳴を上げた。

 シュッという排気音とともにピストンが作動し、急にかくん、と座面が下がったのだ。私も思わずビクリと反応してしまった。


 一瞬、きょとんとした表情を浮かべるガブリエル。


「…………あははは! あははははははは!」


 それから心底楽しいという風に足をバタつかせて笑い転げはじめた彼女は、年端もいかぬ少女のようにも見え、また年相応にチャーミングに見えた、かもしれない。頭の上に浮かぶ天使の輪さえなければ。


 私は片眉を上げて精一杯、非難がましい視線を投げつけてやったが、ガブリエルは目端に涙が浮かんでくるまで笑いやまなかった。


「きゃっほー!」


「コラ、集中すると言ったろガブリエル!」


「はぁ~い、ゴメンなさい!」


 遊園地のコーヒーカップさながらにワーキング・チェアをくるくると回転させていたガブリエルは、器用にもピタリと椅子を止めるとディスプレイに正対した。


「大丈夫。この美的指数と機能性が高度に調和した素晴らしい椅子の扱いは完璧にマスターしたわ。おじさま、次はなに?」


 やる気があるのは結構なことだ。しかし、ガブリエルはコンピュータに関しては素人中の素人だった。プロセッサの仕組みひとつから教えなくてはならない。


 しかも完璧に、だ。こと今回に限っては、「半端」は絶対に許されない。


 まずは私が手ずからワーク・ステーションをバラし、一つ一つのパーツ、ひいては一つ一つのICをじっくりと見せながら説明していく。PCBの海に浮かぶ秘島探検といった趣だ。


「これが……めもり?」


「データの管理領域に使われる。読み取り専用ならリード・オンリー・メモリ、読み書き可能ならランダム・アクセス・メモリ。実際的にメモリと呼称する場合は後者のことだ。半導体素子で構成されてる。物理動作が必要ないから……」


「まって、おじさま! うーん……」


 両手で頭を挟み込むようにして悩み込む仕草はおどけているが、彼女は真剣だ。それがわかっているから、私も黙って見ている。


「オーケー! 次へ行きましょ!」


 ガブリエルは頭の中が整理できるとパッと輝くような笑顔を見せて、私はつられて笑うようなことはしないけれども、いちいち皮肉を差し挟むような真似は控えて、さっさと次の事項へ進む。


「メモリの限界について。ポイントは容量の限界だけじゃないってことだ。データ転送のスピードがボトルネックになることもある」


「まって、おじさま! うーん……」


 この難題に辛抱強く取り組んでいる。私たち二人とも。




 ガブリエルは良い生徒だ。優等生と言ってもいい。


 基礎の基礎の基礎編は割と早い段階で卒業し、今は基礎編と取っ組み合いといったところだ。


 彼女は私の説明に小さく頷いては、次々にコードを打ち込んでいく。


 カタカタカタカタカタカタカタカタカタ――。


 頼りなく見える少女の小さな手が、ゴツい外装をした標準配列のキーボード上を運指を違えることなくなめらかに走り回り、メカニカル・スイッチ特有の小気味良い打鍵音を奏でていくのを見て、私は(絶対に顔には出さないが)ちょっとした驚きを覚える。こんなに覚えのいい奴は悪魔にはいない。


「ガブリエルというのは、男の名前じゃないのかい?」


 作業中に私がヒマになると、時には意地悪な雑談を仕掛けたりもするが、それをあしらうくらいの余裕が彼女にはある。


「それは後世の人間が勝手に決めたことよ。私『が』ガブリエルなの!」


 私たちは時折、過去と未来がごっちゃになったような、おかしな会話をするハメになった。それも仕方のないことで、なぜなら時間軸が消失してしまったからだ。

 もとよりここ――忌々しい天の国――では時間軸はたいした意味をなさないが、それがあるのとないのとでは、もちろん、論理的整合性にいくぶん差が出てくる。


「天使ってさ、人間や悪魔とくらべりゃ、あんまり自己認識にこだわらないものだと思うが……」


「そう?」


 ガブリエルは薄弱でもなく過剰でもなく、ほどほどに強固な自意識をそなえているようだった。


「あいつに毒されていない証拠だね。そのことを私は祝福さえすべきなのかも?」


 大げさに肩をすくめてみせた。


「お父様のことを悪く言うのはやめてよね」


「おいおい、奴がもっとしっかりしてれば、私だってこんな不愉快な場所に呼び出される必要はなかったんだ。それを忘れるなよ」


 ふっ、とガブリエルの顔が曇る。


「手が止まってるぜ」


 意地悪に言いながらも、私は内心ヒヤリとしていた。言い過ぎだった。


 カタカタカタカタカタカタカタカタカタ。


 沈黙のまま、ガブリエルは作業を再開する。

 ――彼女はなかなかタフな天使だ。

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