EP.8

 ツナグは、コーヒーを満足気に飲みきると、涼太に店仕舞いを促した。


「ごちそうさま。さぁ、そろそろ準備を始めようか」


 涼太は、無言で頷く。涼太の心には、ほんの少しの不安とワクワク感があった。

 涼太の後片付けを待つツナグは、口周りの毛繕いをしている。こういうところは、猫らしい。


「さて。旅支度とは言ったけど、何もなく手ぶらで大丈夫だ。いや、着替えくらいはあると便利かもしれない」


 ツナグは、顔の毛繕いをしながら、涼太に話しかける。


「軽い旅行程度の着替えが有れば足りるだろうか?」

「それだけあれば、十分だ」


 ツナグは、にこりと笑う。涼太は、返事の代わりに笑顔を返す。


「よし。それじゃぁ、善は急げだ」


 涼太が店仕舞いを終えると、二人と一匹は店を後にした。


「僕は、君をあの世界へ連れて行く。だけど、そこから先は、君次第だ。」


 涼太の家へ向かいながら、ツナグは涼太に話す。いつの間にか、雨は上がっていた。

 ツナグは、水溜まりを避けながら話を続ける。


「この世界の時間軸とあの世界の時間軸は異なっている。どれくらい異なっているかは、僕にもわからない。時間軸は気紛れだ」


 ツナグは、一息ついた。涼太は、ツナグの言葉を噛み砕く。気紛れに時間軸が動くとなると、あまり悠長にしている余裕はないかもしれないということになる。

 ツナグは、大きな水溜まりを避けると、涼太の方を振り返り言葉を投げた。


「そう言えば、君と同じように、あの世界に呼ばれる人間が他にもいる」


 涼太は、ツナグの思わぬ言葉に、水溜まりを盛大に踏んだ。幸い、小さな水溜まりだった為、靴もズボンの裾も軽傷だった。


「僕以外にも呼ばれる人間がいるのか……」


 なんとなく自分だけだという、特別感を抱いていた涼太は、がっかりした。


「大丈夫、その人間も心優しき人間だ」


 ツナグは、微笑む。


「あの世界には、神羅万象あらゆる生き物が往来するし、滞在する。ただし、殆どが永久ではない」


 ツナグは、淡々と言葉を返す。


「僕以外にも、たくさんの人間がいるの?」


 涼太は、ツナグに言葉を投げる。ツナグは、さも当然のように言葉を返す。


「たくさんではないが、いるにはいる。一時的にやって来る者、この世界と今生の別れを経て辿り着く者、自らこの世界との別れを選んだ者、天寿を全うした者とさまざまだ」


 ツナグはそう言うと、立ち止まって空を見上げる。


「そっか……」


 涼太は、返す言葉に詰まった。気休めの言葉すら浮かばなかった。一瞬浮かぶ言葉はどれも陳腐で、ツナグに掛ける言葉としては不適切だった。


「君たち生きた人間は、いつも彗星のようにあの世界にやって来る。そんな刹那の出会いでも、僕は嬉しいんだ」


 ツナグは微笑むと、また大きな水溜まりを避けた。


「僕と出会ってくれて、ありがとう」


 ツナグは振り返り、涼太を真っ直ぐ見て微笑む。涼太は、ツナグを真っ直ぐ見つめ返すと、やっと見つかった言葉をツナグに送った。


「こちらこそ、僕に会いに来てくれてありがとう」


 ツナグの髭が嬉しそうにぴくぴくと動く。細められた目には、うっすら涙が浮かんでいる。

 涼太は、伝染した嬉しさを隠すように、話を変えた。


「そう言えば、僕以外の人間は、この近くに住んでいるの?」


 ツナグは大きく頷くと、その人間について語りだした。


「彼女は、近くに住んでいる。とても心優しい人間だ」


 ツナグの言葉には、暖かい感情が乗っていた。涼太は、彼女に会ってみたくなった。


「僕も、彼女に会えるかな?」


 涼太は、ツナグに問いかける。ツナグは、申し訳なさそうに声を出した。


「どうだろう……? 縁があれば会えるかもしれないけれど……」


 ツナグの様子に、涼太は慌てて手を振る。


「いや、会えなくても良いんだ。なんとなく会ってみたくなっただけだから。大丈夫」


 涼太の言葉に、ツナグは申し訳なさそうに、苦笑しながら頷いた。

 そうこうするうちに、涼太の家に辿り着いた。涼太は鍵を開けて、ツナグを家に招き入れる。


「さ、どうぞ。すぐに、何か飲み物でも用意するよ」


 涼太は、冷蔵庫を開けて、いつものストックのアイスティーをグラスに入れた。


「ありがとう。いただきます」


 ツナグは、グラスのアイスティーを一口飲んだ。甘い風味が口の中に広がる。ツナグは、気に入った様子で、すぐにもう一口飲んだ。

 ツナグがアイスティーを飲んでいる間に、涼太は旅支度を進める。元々、あまりモノを持たない生活の彼にとって、荷造りは簡単なことだった。


「よし、準備完了だ」


 涼太は、ツナグにわかるように声に出す。ツナグも、ちょうどグラスを空けた所だった。


「ごちそうさま。それじゃ、出発しようか」

「そうだね。グラスだけ洗うよ」


 涼太は、言葉を返すと、グラスを洗った。


「ありがとう」


 ツナグは礼を言うと、立ち上がってブーツを履いた。

 涼太は、お気に入りのスニーカーを履いて、カバンを持った。


「さて、出発だ」


 ツナグが言葉に出す。涼太は、言葉の代わりに大きく頷いた。

 玄関を開けると、涼太の見慣れた景色ではなかった。思わず、涼太はきょろきょろと景色を見渡す。目を閉じてこすってみても、景色がいつもの景色に戻ることはなかった。視界にあるのは、涼太がいつも見ているブロック塀や道ではなく、森だった。

 ツナグは、ツナグの自宅に向かっていることを告げながら、涼太の前を歩いて行く。


「どうして、家の前の風景が変わったんだい?」


 涼太は、ツナグに問いかける。


「この世界と君のいる世界は、ほんの些細な出来事で繋がっている。君の世界でいうパラレルワールドのようなものに近いかもしれない」

「パラレルワールド……」


 ツナグの言葉を反復しながら、涼太は状況を把握しようとする。

 少し歩くと、湖が見えてきた。ツナグは、振り返って涼太に言葉をかける。


「少し湖のほとりで座ろうか」


 涼太が無言で頷くと、ツナグはにっこり笑って、湖のほとりへと歩いていく。湖は静かに水を湛えていた。


「ここはね、僕の大切な友人と初めて出会った場所なんだ」


 ツナグは懐かしそうに目を細めながら、湖を眺める。


「ここにいると、時々人間と出会えることがあるんだ。それが楽しくて、僕は時々ここに腰を下ろす」


 ツナグは、辺りを見回した。涼太もつられて、辺りを見回す。しかし、今は風がはっぱをさらさらと鳴らすだけだった。

 じっと静かに耳を済ませていると、遠くから誰かが歩いて近付いてくる音が聞こえ始めた。涼太とツナグは、音のする方へ視線を向けた。音の主は、着流しの恰好をした男だった。

 涼太が、誰だろうと思っていると、隣にいたツナグが大声でその男の名を呼んだ。


「林太郎! 林太郎じゃないか!」

「おお! ツナグじゃないか!」


 ツナグは慌てて立ち上がると、林太郎の元に駆け寄った。

 涼太は、どうして良いかわからずに、一人と一匹の様子を見つめる。

 ツナグは、よほど嬉しかったのか、尻尾を激しく振りながら、林太郎に話し掛けている。


「どうしてここにいるんだい? 天寿を全うして、ここに来たのかい?」


 林太郎も、嬉しそうにツナグに言葉をかける。


「あぁ、どうやらそのようだ。家族に囲まれている内に眠くなって、気付くとこの世界にまた来ていたよ。懐かしいなぁ。元気にしていたかい?」


 林太郎は、ニコニコとツナグのことを見つめる。

 ツナグは、嬉しさでいっぱいの表情を浮かべながら、林太郎に今までの出来事を語った。


「それからね、今はその女性と今ここにいる彼が、この世界に呼ばれているんだ」


 ツナグはそう言うと、涼太の方へ視線を向ける。涼太は、会釈をして挨拶をした。


「初めまして。宮田 涼太と言います。よろしくお願いします」


 林太郎は微笑むと、挨拶を返す。


「初めまして。私は、山崎 林太郎と言います。なるほど、今度は君が呼ばれたのか。大丈夫。きっと君も、すぐに自分の軸を見つけられると思うよ」


 涼太は、微笑み返しながらツナグを見る。ツナグは、とても嬉しそうに林太郎を見ていた。


「林太郎。君とは、もう一度会いたいと思っていたんだ。本当に嬉しいよ」


 ツナグは、感慨深げに林太郎へ言葉をかける。林太郎も、嬉しそうに笑って言葉を返す。


「私も、君とはまた会いたいと思っていたよ」


 ツナグは、にこにこしながら、ふと思いついたように言葉を発する。


「そうだ! 今からみんなでティータイムにしよう! せっかくの出会いと再会に祝杯を上げよう!」


 ツナグの言葉に、林太郎は大きく頷く。特に異論のなかった涼太も、微笑みながら頷いた。

 二人と一匹は、にこやかに会話を楽しみながら、ツナグの家へと向かう。

 二人と一匹が去った後、一人の人間が木陰から顔を出した。この世界への移住を求めていたあの男だった。


「ここはどこだ?」


 男は、辺りを見渡した後、静かに目を閉じて、風の音を聴いた。風は、先程と変わらずさらさらと葉を揺らしていた。

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