EP.7

 叶奈は、空を見上げながらバス停に向かう。空には、一番星が光っていた。

 少し距離があり、一人ぼんやりと歩く。しかし、歩けど歩けどバス停が見えてこない。来る時よりも場所が近いことも確認していた。


「おかしい……」


 訝しがりながら歩く。いくら歩いても見えてこないバス停に、叶奈は次第に焦りを感じ始めた。

 叶奈は、いくら歩いても見えてこないバス停に、焦りと恐怖で泣きそうになった。歩けども、続いているのは山の景色のみ。自然と、歩く速度が上がる。しかし、バス停らしきものは一向に見えてこない。日も完全に沈みかけている。叶奈は、焦りを抑えようと立ち止まって考えてみた。


「やっぱり、通り過ぎたのかな……?」


 叶奈は、通って来た道を戻ることにした。元来た道を進む。バス停は見えてこない。叶奈の焦りが、暗闇と共に迫ってくる。


「見えてこない……」


 叶奈は、泣きそうになりながら立ち止まった。


「だめだ。もう歩けない……」


 叶奈は、思わずしゃがみ込んだ。疲労と孤独が、叶奈を包み込む。

 暗闇が辺りを完全に包み込んだその時だった。ツナグが叶奈の前に現れた。


「おや? 君はたしか……」


 叶奈は、思わず涙を零した。安堵感が、叶奈を包み込む。

 嗚咽を漏らす叶奈。ツナグは、叶奈に目線を合わせてしゃがみ込むと、ハンカチを渡した。


「もう大丈夫だ。ここは、君のいた場所とは少し違う世界だ。怖かったろう? でも、もう大丈夫だ。僕が元の世界へ案内するからね」


 ツナグは優しく声をかけながら、叶奈の背中をさすった。


「あ……りが……とう……」

「大丈夫」


 ツナグは穏やかな表情で、そのまま叶奈が落ち着くまで背中を撫で続けた。

 暗闇が世界を包むと同時に、優しく星空が広がっていた。


「落ち着いたかい?」

「うん、ありがとう」


 叶奈は、ツナグに笑顔を向ける。ツナグは、優しく微笑んだ。


「さて……。君は、どうやってここに来たんだい?」


 叶奈は、自分に起こったありのままを話した。


「ふむ……、なるほど……。やはり、君はこの世界に呼ばれているのかもしれないね」

「この世界に呼ばれている……?」

「そう、林太郎もこの世界に呼ばれて来ていた。君も同じなのかもしれない」


 ツナグは、夜空を見上げた。満天の星が輝いている。叶奈も、夜空を見上げた。


「星って、こんなにたくさん輝いているんだね……」


 叶奈は、しみじみと言葉を吐いた。


「君のいる世界もそうさ。君達の見えないところで輝いている。君達人間もそう。見えないところで、輝いている。頑張っている」


 ツナグは、真っ直ぐ叶奈を見た。叶奈の瞳が大きく揺らいだ。


「私は、輝いていない……」


 そう告げる叶奈の瞳は、自分への絶望感を訴えていた。


「そんなことはないよ。それは、君がまだ土俵を見つけていないだけだ。君に適した場所が必ずある。大丈夫、どんなに回り道をしても、必ず見つかる」

「私には、何の特技もないよ……。そんな場所ない……」


 叶奈は、ツナグの言葉を受け入れようとしなかった。


「自分で自分を殺しちゃいけないよ」


 ツナグは、真っ直ぐ叶奈を見る。叶奈は、悲しそうにツナグを見た。


「この世界や、君のいる世界の片隅で、誰かが必ず輝きを放っているように、君にも輝ける場所がある。その場所に出会えば、きっと君も輝ける筈だ」


 ツナグは、力強く言葉を発した。叶奈は、じっとツナグを見つめながら、言葉を噛み締めた。


「私も、本当に輝けるの……?」

「もちろんさ」


 叶奈は、ツナグの言葉を飲み込もうとする。しかし、叶奈は過去の経験から飲み込み切れずにいた。

 ツナグはしっかりと叶奈を見つめて、言葉を続ける。


「大丈夫だ。自分で自分を否定しない限り、その機会はやって来る。もちろん、それまでに苦労することもあるだろう。裏切られることもあるかもしれない。それでも前を向くんだ。そうすれば、必ずどこかで輝ける日が来る」


 ツナグは、叶奈の両肩を持って、力強く言葉をかけた。


「もし辛くなったら、今日を思い出すんだ。君は、この世界に呼ばれた人間だ。選ばれた数少ない人間だ。この世界に呼ばれた人間は、必ずどこかで輝ける。林太郎もそうだった。彼は、あんなに優しく素敵な子孫を持った。そして、僕やこの世界を、本という素晴らしいもので、君の世界に広めようとした。大丈夫、君も輝ける日が来る」


 ツナグの言葉を聞きながら、叶奈は視界が歪んでいくことに気付いた。溢れる涙で、どんどん視界が歪んでいく。しかし、その涙は温かく心穏やかにしてくれる涙だった。

 ツナグの言葉を噛み締めながら、叶奈はようやく言葉を発した。


「ありがとう……」


 ツナグはにっこりと笑うと、ハンカチを叶奈に渡した。


「さぁ、涙を拭いて。君には笑顔が似合うよ」


 叶奈は、ハンカチで軽く目を抑えてから、ツナグを見た。泣いた後で、少しぎこちないながらも笑顔を見せた。

 ツナグは、叶奈の笑顔を見て言葉を続ける。


「ほら、やっぱり君には笑顔が似合う」


 ツナグは、もう一度にっこりと笑った。叶奈もつられて、もう一度笑った。


「さて……。それじゃあ、そろそろ君を送ろうか。しかし、山のバスはもうないだろうから、市街地まで君を送り届けよう。バス旅はまた今度だ」


 そう言うと、ツナグは立ち上がった。叶奈も慌てて立ち上がる。


「でも、どうやって市街地まで行くの?」

「それはもちろん、徒歩だ。しかし、安心すると良い。この世界であれば、長時間歩かなくても大丈夫」


 叶奈の心配そうな表情を無視して、ツナグは続ける。


「さて、この世界について話しながら近道を案内しよう」


 ツナグはそう言って、山を下り始めた。山道に沿ってではなく、脇道へと入って行く。叶奈は、置いて行かれまいと、慌てて後を追う。

 ツナグは、振り返らずにどんどんと暗がりに向かって進んで行く。


「足下に気を付けて。近道とは言え、獣道のようなものだからね」


 ツナグは、振り返りながらそう言った。


「この世界は、おそらく君達の世界で話すパラレルワールドに近い世界なのかもしれない」


 ツナグは、唐突に話し始めた。


「この世界は、君達の世界の文明の利器が殆どない世界だ。その代わりというわけではないが、この世界は『不思議』が、世界の中心で動いている」


 ツナグは、一旦言葉を区切った。叶奈は、話を聞きつつ、躓かないように注意していた。

 ツナグは、聞いているとわかると、言葉を続けた。


「この世界では、たくさんの不思議が集まってくる。そして、君のようにたまに人間が呼ばれる」

「人間が呼ばれる……?」


 叶奈は、歩きながら少し首を傾げた。


「そう、呼ばれるんだ。君や林太郎のように、何度も呼ばれる者もいれば、一度だけ呼ばれる者もいる。君のいる世界で天寿を全うしてから来る者もいる」


 ツナグは、そう言って言葉を止めた。叶奈からはツナグの表情が見えなかった。


「林太郎さん、素敵な晩年で良かったね」


 叶奈は、ツナグに言葉をかけた。


「あぁ。彼が幸せな最期を迎えていてよかった」


 ツナグの声には、懐かしさと嬉しさと寂しさが滲んでいた。それは、叶奈にもわかった。


「僕はね、林太郎の子孫があんなに優しい人間になっていて、本当に嬉しかった。林太郎の優しさがきちんと受け継がれていることは、本当に素晴らしいことだよ」


 ツナグの声は、穏やかさと嬉しさを含んだ温かいものだった。


「林太郎さんと出会えて良かったね」


 叶奈は、嬉しそうに話すツナグの後ろ姿を見つめた。


「林太郎の優しさも君の優しさも温かかった。君の優しさは、どこか林太郎と似ている気がするよ」

「私が優しい?」

「あぁ。君も親切な人間だ。僕を悟の元へと連れて行ってくれた」

「それは、たまたまで……」

「偶然でも、冷たい人間は見向きもしないさ」


 ツナグは寂しそうに笑う。


「僕に気付いてくれる人間は少ない。林太郎や君のように、声をかけてくれる人間は、もっと少ない」


 ツナグは、叶奈の方を振り返った。ランプのせいか、ツナグの表情は悲しげに見えた。


「でもね、林太郎は僕に気付いてくれて、この恰好を褒めてくれたんだ。とても似合っているとね」


 ツナグは、懐かしそうに目を細める。


「だから、僕が今もブーツを履き続けるのは、林太郎の言葉のおかげなんだ」


 ツナグはそう言って振り返ると、にっこりと叶奈に笑いかけた。


「確かに似合ってるね。うん、似合ってる」


 叶奈はそう言って、にっこり笑い返した。


「ありがとう。さて、もう少しで君のいる世界に戻れるよ」


 そう言って、ツナグはまた叶奈の前を歩き出した。一人と一匹の間には、温かい空気が流れていた。

 しばらくすると、目の前に人工的な明かりが近付いてきた。


「さて、ここから先は、君のいる世界だよ」


 ツナグは立ち止まって、叶奈の方へ振り返る。


「ここから先が、私の元いた世界……」


 叶奈は、立ち止まって深呼吸をする。元の世界へ戻る事ができるという安心感が叶奈を包み込む。


「ありがとう」


 叶奈は、ツナグに礼を言った。ツナグは、嬉しそうに笑うと、叶奈に言葉をかける。


「君は、またこの世界に呼ばれることがあるかもしれない。でも、大丈夫。僕がいるからね」


 ツナグは微笑むと、叶奈の後ろへ回って、叶奈の腰をとんと軽く叩いた。


「さぁ、早く行くんだ。もうすぐこの通路は塞がれてしまう。この世界と君のいる世界はずっと繋がっている訳じゃない。さぁ、行って」


 ツナグに急かされ、叶奈は足を踏み出す。運悪く、踏み出した先に木の根があり、叶奈はよろけた。

 叶奈は、慌てて振り返る。しかし、そこにツナグの姿はなかった。

 ツナグのいた世界との通路は閉じてしまった。


「さっきまで、ここにいたのに……」


 叶奈は、頭を左右に振った。目を凝らして見ても、さっきまでいた場所に広がっているのは、暗闇だけだった。

 市営バスの光で、叶奈は我に返った。バスが叶奈の斜め右前で止まる。慌ててバスに乗ると、少し大きめの音でバスの扉が閉まった。


「さて、帰るか……」


 叶奈は、一人呟いて、バスでその場を後にした。バスは、十分程かけて、六甲駅へと叶奈を運んだ。

 阪急電車の六甲駅の人はまばらだった。ホームに立って電車を待つ。ホームに人は殆どいなかった。


「さすがに、今の時間はいないか……」


 叶奈は、静かに電車を待つ。本格的な夏が来ているわけではない事もあり、暗くなると空気が冷たくなる。叶奈は、少し肌寒さを感じつつ、電車を待った。

 電車が音を立てながら、ホームに滑り込む。扉が開くと、暖かい空気が叶奈の全身を撫でた。電車に乗ると、ちらほらと人が椅子に座っている。さすがに日曜日という事もあり、車内は静かだった。

 窓際の椅子に腰かけて、叶奈は時折目を細めつつ、一瞬で通り過ぎて行く景色を眺める。移ろいゆく景色は、時折眩しさを叶奈に与えながら、暗闇とのコラボレーションを見せつけていく。

 叶奈の自宅の最寄駅に着くと、さらに人の数が減った。バスに乗り換えて、少し海側寄りの自宅に向かう。

 バスを降りると、叶奈は空を見上げた。広がっているのは、暗闇と、ほんの少しの星だった。叶奈は、残念そうに肩を竦める。満天の空を諦めて自宅に戻った。

 手洗いとうがいを済ませ、グラスに水を入れる。一杯だけ飲むつもりが、思い出したかのように喉の渇きが襲ってきた為、もう一杯、もう一杯と計三杯の水を飲んだ。

 勢い良く水を飲み切ると、叶奈はシャワーを後回しにして、ベッドにダイブした。叶奈の体が、急に重力に従いだした。叶奈は、なすすべもなく重力に従う。

 しばらくすると、雨が窓をノックして始めた。


「雨か……」


 雨の匂いが部屋に充満している。叶奈は、大きく伸びをしてベッドから起きた。携帯の時刻は夜中の二時を示している。

 叶奈は、喉の渇きを潤そうと、グラスに水を入れた。グラスが一気に冷えて、手から感覚を覚ましていく。一気飲みすると、内蔵から体の冷えと覚醒を認識した。

 叶奈は、今回の一連の出来事を考えた。叶奈にとって、あの世界は同じ時間軸のパラレルワールドという認識だ。

 それなのに、近道のように必要な所で今いる世界に戻れる事は、叶奈には受け入れ難い出来事だった。

 叶奈は、もう一度グラスに水を入れると、間髪入れずに水を飲み干して溜息をついた。


「あの世界は、なんでもありなのかもしれない……」


 半分自分に言い聞かせるように、言葉を吐き出す。叶奈は、頭を振って思考を現実に戻した。

 しばらくすると、雨音に交じって、雨音ではない音が混じっている事に気付く。コンコンと、明らかに雨音ではない音が窓ガラス越しに響いていた。

 叶奈は、慎重に窓ガラスに近付く。小さな影が、ノックをしている。そこにいたのは、リスだった。

 叶奈は、慌てて窓を開けた。窓を開けると同時に、雨とびしょ濡れのリスが入って来た。

 リスが入り終えると同時に、叶奈は窓を閉めた。雨足が強かった事もあり、フローリングには水滴が付き、小さな水たまりができた。叶奈は、慌ててタオルをタンスから取り出す。

 床をサッと拭くと、もう一枚でリスを包み込みながら拭く。


「ありがとう。君は、親切な人間だね」


 リスは、叶奈にもみくちゃにされながら話し掛ける。


「どうしてここへ?」


 叶奈は、少し警戒しつつも、リスに話し掛ける。


「なぁに、今回あの世界に呼ばれた人間は誰かと思って、見に来たまでだよ」


 リスは叶奈を見ると、溜息をついた。


「呼ばれるからには、何か能力でもあるのかと思ったけど、その辺の人間と大差はなさそうだな」


 叶奈は、むっとして言葉を返した。


「私も、なぜあの世界に入ってしまうのかわからない。でも、いきなり来て、馬鹿にされる筋合いはないわ」

「これは失礼をした。申し訳ない。ただ、あの世界は、君たち生きている人間が簡単に足を踏み入れて良い世界ではないんだ。僕たちにとって、特別な世界なんだ」


 リスは、叶奈に詫びつつ、苦悶の表情を浮かべた。


「もちろん、人間のすべてが悪い奴でないことはわかっている。でも、人間は恐ろしい生き物だ」


 叶奈は、過去の人間関係のことなど思い出しながら、リスの言葉に納得した。


「人間は、どうしてあの世界に呼ばれることがあるの? そんな酷い奴なら、呼ばなければ良いじゃない」


 叶奈は、疑問を投げかける。リスは、苦悶の表情で叶奈を見つめる。


「あの世界は、神羅万象、すべての生き物たちを受け入れる。そして、その対象は生きているとは限らない。死んでから受け入れられることもある。人間の言葉で言うと、死んだ魂というものがそうだ。あの世界は、この世界で居場所を無くしたすべてのものが一度は訪れることになる世界だ。生きた人間が呼ばれる時は、おそらくその人間が心の軸を探している時だ」


 リスは、記憶を辿るように遠くを見つめた。


「君もやりたいことが見つけられずに生きているのではないか?」


 叶奈は、頷くしかなかった。リスは、そんな叶奈に向かって言葉を投げた。


「あの世界に呼ばれたからと言って、必ずしも自分の軸が見つかるわけではない。でも、呼ばれたということは、何かのきっかけになることもあるかもしれない」


 リスは、叶奈を見つめる。叶奈は、リスを見ながら、言葉を発した。


「私、自分の軸を見つけたい」


 リスはにっこり笑った。


「君にその気があるなら、きっと大丈夫。でも、見つけられないままでも生きてはいける。だから、焦る必要はないよ。軸がなくても、それはそれで君だ」


 叶奈は、リスの言葉に頷く。


「さて、僕はそろそろ行こうかな」


 リスは、窓の外を見る。いつの間にか、雨は上がっていた。


「また、どこかで会えるかな?」


 叶奈は、咄嗟にリスに訊く。


「縁があれば会えるだろうね。大丈夫。君には、ツナグもいる。君のことなら、きっとツナグも大切にしてくれるはずだ」

「縁があれば……」


 叶奈は、反復する。リスは、少し叶奈を見つめた後、ふと思い出したように言葉を発した。


「そう言えば、前に人間が呼ばれた時も彗星が通った時だったなぁ……」

「彗星?」

「名前は忘れてしまったけれど……。でも、生きた人間が呼ばれる時は、必ず彗星が通る」

「彗星が通ることと、私が呼ばれることに何か意味があるのかな?」


 叶奈は、窓の外を見ながらリスに問う。リスは、困った顔をしながら、窓の外に目を向ける。


「それは、僕にもわからない。でも、彗星は『不思議』を連れてくる。もしかすると、何か意味があるのかもしれない」


 叶奈は、リスの言葉を受け取りながら、窓の外に彗星を探した。


「さて、僕はそろそろお暇するよ。またいつかどこかで会おう!」


 リスは小さな前足を叶奈の方へ差し出す。叶奈は、その小さな手を軽く握ると微笑んだ。


「そうね、またいつかどこかで」

「あぁ、またどこかで」


 叶奈は、窓を開ける。


「ではまた!」


 リスはそう言うと、踵を返して窓の外へと駆け出した。


「あ……っ!」


 リスは、あっという間に消えて行った。叶奈は、一人で窓の外を見つめた。外には、綺麗な月が浮かんでいた。


「そう言えば……」


 叶奈は、ネオワイズ彗星が近付くニュースを思い出した。

 叶奈は、ふと自分もあの世界にとって、彗星のようなものだと思った。

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