第129話 月光の下で
夜の帳が世界を覆い、柔らかい月の光が世界を照らし出す。
緑豊かなグリュンヴァルドの森は月光が地上まで降り注ぐ場所は少ないが、その数少ない場所は月夜の晩、それはそれは幻想的な景色を見せてくれる。
月光降り注ぐ湖のほとり、シュテイレは一人、冷たく煌めく水面を眺めていた。
供はいない。シュテイレは一人になりたい時、必ずここを訪れる。彼の一人になりたい時間を邪魔する者は、この森にはいなかった。
だが、美しい景色もシュテイレの心を癒してはくれない。脳裏に蘇るのは、夕暮れの訪問者────サイサリアの王女二人と供の者────たちの姿だ。
王位を簒奪し、アンデッドを大量発生させた宰相ベトレイヤ。彼の者の暴挙を訴え、助力を願ってきたサイサリアの王女たち。自然に反するアンデッドの殲滅は、エルフとしても断る理由のない話ではあった。しかし。
「……私とて、できれば……」
苦悩の滲んだ小さな呟きは、誰の耳にも届くことなく澄んだ空気に溶けて消える……はずだった。
『ああ、やはり悩みがあったのかあ』
虚空から響いてきた声にシュテイレは驚き、顔を上げた。声の主を探すまでもなく、湖面の上、月光を打ち消す不自然な闇がその正体を物語っていた。
(
精霊は自然と共にあるが、精霊が進んで人前に姿を現すことは極めて稀だ。まして警告ではない言葉をかけくることなど、シュテイレは聞いたことがなかった。
しかも目の前にいるのは闇の精霊だ。生けるものすべてに安息をもたらす闇の精霊は、積極的に動くことがほとんど無い。ただそこにあって、生き物に安らぎを与えるためだけに存在しているのだ。
あり得ない出来事を前に、声を出さなかった自分をシュテイレは褒めたくなった。
『……聞こえてる?』
確認されてシュテイレは再び驚いた。精霊がこちらを気遣うなどとは。
どうやらマルーモはシュテイレに用があって訪ねてきたようだ。それを察したシュテイレはしかし、黙って頷くしかなかった。それを確認した闇が迷うように揺れた。シュテイレは説明が必要だと感じた。
無言でシュテイレは髪をかき上げる。その人間より少し長い尖った耳のつけ根。月光に照らされ、奇妙な虫の姿が確認できた。複数種類の甲虫をでたらめに継ぎ合わせたような虫は、まるで聞き耳を立てるように触覚を震わせている。自然な存在ではないことは誰の目にも明らかだ。精霊がそれに気づかぬはずがない。
『聞かれてる?』
マルーモの問いにシュテイレは再び無言で頷く。するとマルーモはシュテイレの目の前にまで距離を詰めてきた。そして、闇そのものの手が差し出される。その意図がわからぬシュテイレではない、彼はその手をとった。
『これなら大丈夫?』
頭の中にマルーモの声が直接響く。
闇の精霊といえば闇を操るだけだと思われがちだが、闇は生けるものに安息を与え、しかし永劫の闇は狂気へと導く。精神とも密接な関係のある精霊なのだ。言葉を交わすことなく意思の疎通を行うなど、闇の精霊には造作もないことだ。
『大丈夫です。感謝を』
『なるほど、マイやウンディーネの懸念が当たってたんだなあ』
『マイ?』
『会ってるはずだよ。背の低い、フードを深くかぶった女子だけど』
言われてシュテイレは思い出した。王女たちと話していた時、一人だけ護衛には見えない人物がいたことを。フードを目深にかぶっていたので顔はわからなかったが、なにか発言するでもなく後ろに控えていて、シュテイレは王女の身の回りを世話する者だとばかり思って気にもしていなかった。
『あの者がここに行くよう、命じたのですか』
『んー、どちらかといえば、お願いかな』
『お願い?』
シュテイレは驚きを隠せなかった。
精霊はただ、そこにある。中級精霊ともなれば意思の疎通も可能だが、基本的に精霊は、自身の力を自然の維持以外のことに無闇に行使したりはしない。エルフや精霊士は精霊の力を借りるが、精霊の力に方向性を与えるために指示や命令をするのが普通だ。お願いするなどシュテイレは聞いたことがなかった。
戸惑うシュテイレを置いてマルーモは話し続ける。
『君がなにか悩みを抱えているようだから話を聞いてきてほしい、ってマイが』
『なぜ、そのような……』
『森に戻る前に、なにか悔やむようなことを呟いたのが聞えたそうだよ』
そう言われてシュテイレは絶句した。確かに協力できない自分を嘆いたが、あの距離で聞かれるとは思ってもみなかった。
『最初はウンディーネに頼んでいたんだけど、もしかしたら話すに話せない状況にあるかもしれないからと、ボクに役目が回ってきたのさ』
『私を説得するように、ではないのですか?』
シュテイレはてっきり、エルフに協力を仰ぐためにマルーモが遣わされたのだと思っていたのだが。
『私の悩みを聞いてどうしようと言うのですか、マイとやらは』
『多分、悩みを解決しようと思ってるのではないかなあ』
マルーモの言葉にシュテイレの顔がゆがむ。
シュテイレが協力を拒むには理由がある。その理由が解消されれば、確かにシュテイレは感謝し、王女たちに協力するのも
『恩を売ろうというわけですかな』
『あー、結果的にはそうなるだろうね。だけどマイだからなあ……』
『どういう意味です?』
『いや、マイなら立場に関係なく、君の悩みを解決しようとするんじゃないかなあ、と』
『そんな人間がいるはずがないでしょう』
『いや、マイは困ってる人を見て見ぬフリができない子だからね。でなければドリアードのために走り回ったりしないよ』
『……ドリアードのため?』
『うん、少し長くなるけどね』
そう前置きしてマルーモは話し始める。
邪精霊士に狙われたドリアードを助けるため、魔法的な空間にドリアードを避難させたこと。
避難先の環境を整えるために各精霊に助けを求め、必要な物を集めるために駆け回ったこと。
気温を変化させるため、危険を冒してサラマンダーを従えたことなどなど。
その内容はシュテイレを驚かせるには十分すぎた。……精霊に下着を用意したというくだりは理解できなかったが。
『ドリアードを助けるために、そこまで……』
シュテイレとて、森にいるドリアードが狙われていると知れば護ろうとするだろう。しかし、自然災害で精霊が消えても、それは自然の摂理なのだと割り切るところもある。邪精霊士に襲われて消滅したとしても、それもまた運命なのだと割り切ってしまう。大樹から離れられないドリアードを大樹ごと移動させるなど、エルフでは考えつかない方法だ。
『まあ、マイってそういう子なんだよ』
マルーモは静かに淡々と話す。だが、その言葉の中にいくらかの楽しそうな色があることにシュテイレは気づいた。さほど感情を表さない闇の精霊に楽しそうに話させる者がいるとは……長く生きてきたシュテイレだったが、自分の想像を簡単に越えてしまう者が世の中にはまだまだいるのだと知って、知らず苦笑してしまった。
『そのマイならば、我らの悩みを解決できる、と?』
『それは、わからない。ボクは悩みがあれば聞いてきてほしいとお願いはされたけれど、話す話さないを決めるのは君だから』
その気にさせておいて突き放されるが、精霊とはそういうものだ。正式に契約したのであれば全力で契約を守るが、ただ仲介するだけの現状、精霊が簡単に約束をすることはない。
とはいえ、そう口にした時点で、シュテイレはもう話す気になっていたのだが。
『解決できたら儲けもの、というところですな』
『話す?』
『ええ、賭けてみましょう。あなたに、それだけ楽しそうに語らせるマイとやらに』
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