第92話 幕間:聖都にて

 神話の時代。世界を創生するため、神々が降り立った島があるという。

 神々が世界創生の足掛かりとした島は神々の力によって護られていると伝えられており、かつて吸血鬼たちが世界を支配したその時代には、生きとし生けるものたちのただひとつの避難場所だったと言われている。

 そのような謂われのある島に信者が集まり、いつしか聖都と呼ばれるまでに発展するのは、あまりにも当然のことだったのかもしれない。


 リンゴーン♪ リンゴーン♪


 夜。就寝の鐘が聖都の空におごそかに響く。すべての神殿の鐘が一斉に鳴るものの、神殿ごとに微妙に鐘の音が違うため、意図せず不思議なハーモニーが奏でられる。

 就寝の鐘と言われるだけあって、鐘の音の下、ひとつ、またひとつと、神殿と町の灯が消えていく。

「大司教様、おやすみなさいませ」

「ええ、おやすみなさい。良い夢を」

 愛と生命の女神アマスの神殿。身の回りの世話をする神官が就寝の挨拶をして大司教の前を辞する。穏やかな笑顔で見送った大司教も自身の寝室に向かう。室内に入り、ランプに火を点けて重いローブを脱ごうとした時、大司教は室内に侵入者がいることに気づいた。

「やあ、大司教。夜遅くまでお疲れ様」

「……あなたですか。泥棒のようなマネはよしなさいと、あれほど────」

「え? アポとって正門から入った方がいい?」

 窓枠に腰掛け、ケラケラと笑う黒髪の女性に、大司教は言い返せなかった。本当に正面から必要な手続きをとられようものなら、聖都中が大騒ぎになるだろう。なぜなら彼女は、聖都にいてはならない存在だからだ。

 もっとも、女性が意味もなく大司教を訪ねてくることは一度として無い。今回の訪問も、それなりに重要な────大司教にとっては厄介な────用事があるのだろう。


(今夜は遅くなるかもしれない)


 大司教は諦めて紅茶を淹れるべく湯の準備を始める。それを見た女性が嬉しそうに言った。

「お茶菓子はクッキーがいいな」

「出しませんよ。むしろ持参すべきでしょう」

 ……………………。

 …………。

「それで?」

「ん?」

「紅茶を飲みにきたわけではないでしょう。そろそろ本題に入ってもらいましょう」

 あれからしばらく。当たり前のように女性が二杯目の紅茶を飲み始めたところで大司教は先を促す。そうしなければ、紅茶だけ飲んで帰りそうだからだ。実際、紅茶だけ飲んで帰り、次の日に用件を思い出して再び来訪した前科があるのだ。彼女の時間の感覚は大司教と、いや、人間のそれとは大きくかけ離れている。

 女性は紅茶の香りを確かめながら、わざとらしく首を振る。

「慌てるねえ。心に余裕がないんじゃない?」

「あなたと違って私は睡眠が必要なのですよ。それで、用件はなんです?」

 二度目の催促にため息をつき、女性は残った紅茶を一気に飲み干す。カップを下ろした時に、その表情は苦笑いだった。

「一応、報告しておこうかと思ってさあ」

「なにをです?」

「ん~……ちょっと娘ができてさ」

 ガチャリ、と大司教がカップをソーサーにぶつけた。普段の大司教ならば絶対にしない不手際だ、目に見えて動揺している。

「ありゃあ~、大丈夫? このカップ、ドライゼンの高級品なんでしょ? ヒビとか入ったら────」

「それどころではありません。今、なんと?」

「だから、娘ができたって」

「妹ではなく?」

「妹ではなく」

 大司教は大きなため息をつき、カップを置きなおす。少し紅茶がこぼれてテーブルも汚れてしまったが、それは些細なことだった。

「あなたは……なんということをしたのですか」

 ズン、と。大司教の声のトーンが落ちた。幾人もの不信心な者を震え上がらせた、聖職者らしからぬドスの効いた声だ。さすがの女性も言い訳が必要だと感じたようだった。

「いや、しょうがなかったんだよ。すっごく美味しそうな『怒り』や『恨み』の念だったんだからっ。契約通り、人々には可能な限り干渉しないようにしてたんだから、お腹空いちゃっててさ。そこに暴力的に美味しい念が流れてきたら我慢できないでしょっ!?」

 必死に自身を正当化しようとする女性を一瞥し、大司教は何度目かのため息をつく。

 節制を旨とする聖職者である大司教には今ひとつピンとこないのだが、彼とて空腹では仕事もできない。

 空腹の時は石のように硬い保存食のパンすら美味に感じる。ましてや自分の好物が目の前にあれば、我慢できないのもなんとなくではあるが想像はできる。そこで自分を律するのが聖職者なのだが、目の前の女性は聖職者ではない。聖職者の心構えを説くだけ無駄だろう。むしろ、その娘の動向を探る方が先だ。

「……どこで娘を?」

「あ、あ~……リトーリア王国のユリーティア山の近く、かな」

 視線を逸らしながら答える女性。その内容を理解すると同時に、大司教のこめかみに青スジが浮いた。

「……ひょっとして、ユリーティア山の結界が破壊された一件は」

「ごめん、あたしだ」

「あなたという女性ひとは────」

「いや、ごめんって! 美味しそうな念を感じてすっ飛んでいったら、その……ちょっと肩をぶつけちゃってさ。えへへ」

「えへへ、ではありません」

 大司教は決して声を荒げない。信者の頂点に立つ彼が感情的になることは許されないからだ。だがしかし、その分怒りは内にこもることを女性は知っている。

「だから、ごめんって。こうして正直に報告に来てるじゃない?」

「それにしては、ずいぶんと遅いようですが。……待ってください、報告書にあった、結界を破壊したらしき吸血鬼というのは、ひょっとしなくても……」

「ああ、娘だね。吸血鬼じゃないけど」

 大司教は頭痛を覚えた。結界を破壊した張本人は目の前にいる。リトーリア王国の信者たちは、無関係の人物を今も捜しているということになる。彼女の娘が見つかったならば、信者たちは疑いもなくその娘を滅しようとするだろう。だからといって本当のことも言えない。

 大司教としては、その娘が討伐するに値する邪悪な存在であることを願うばかり……だったのだが。

「いや~、しばらく見てたけど、いい娘だよ。アマスの信者を助けてたし」

「は?」

「うん? 報告書に上がってないのか。結界を修復するために派遣された女性神官、山賊崩れに襲われて純潔を奪われそうになったけれど、それを助けたのはうちの娘だよ」

「報告書には山賊の捕縛については記載されていましたが……」

「じゃ、書かなかったんじゃない。山賊に捕まって、助けてくれたのは討伐すべき存在でした、なんて書けないでしょ」

 大司教は反論できなかった。たとえ聖職者でも、自身のミスや不利な内容は上に報告しにくいものだ。改めて報告書の提出を命じなければならないかもしれない。

「アマス様の信者を助けてくれたのが本当ならば感謝せねばなりませんが、単なる気まぐれだったのではないですか?」

「それはないんじゃないかなあ。結界が壊れて入り込んできた妖狐を倒して村を救ったし、その後はハンターになって地道に仕事をこなしてたよ。あ、そうそう、吸血鬼の城の封印が解けた時、調査団に参加して事件の解決に一役買ってたわよ。その後も色々と人助けしているみたいだし、いや~、我が娘ながら鼻が高いわね」

 嬉々として娘の活躍を話す女性を前に、大司教は今後について頭をフル回転させていた。とりあえず、ユリーティア山の封印修復に関わった神官たちに報告書の再提出。そしてハンターズギルドに確認して、娘らしき人物について情報を集めなければならないだろう。その結果、人類の脅威足りえないと判断されれば、また方策を考えなければならない。

 そうやって思考に没頭していると、女性が立ちあがる気配で意識が現実に戻された。

「さて、伝えることは伝えたし、私はそろそろ帰るね。……本当にいい娘だから、悪いようにしないでほしいかな」

「それは調査結果次第ですね。あなたが本当のことを言っているとは限りませんし」

「ありゃ、これは手厳しい」

「ですが、まあ、あなたの言う通りの人物ならば考えておきましょう。それで、その娘は今どこに?」

 大司教の問いに、女性は肩をすくめた。

「なんか、仲間を助けるためにサイサリアに渡ったみたいよ」

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