宣州にまたそれを見る

 午後に入り、急に霧が濃くなった。

 陽光は遮られて久しく、手に触れる山肌はどこもしとどに濡れている。やがて夕刻を過ぎ、あたりはいよいよ暗くなり、身体は芯から凍え始めた。峨眉山中に道を見失った詩人───李太白は疲れのあまり、手頃な岩にぺたりと座り込んだ。

 峨眉山は、仙人が住まうという巴蜀の景勝である。峻厳な岩壁が空を突き刺すように伸び、奇草奇木がそれに彩りを添えている。だが、もはやその美を見上げることすら億劫なほど、かの詩人は疲れ果てていた。

 悠久が育んだ美に抱かれ、白首を待たずして死ぬ。それが我が天命なのだろう。そう思いながら、李太白は目を閉じた。

───どれほど眠っていたのか。鼻腔をくすぐる芳しい酒精に誘われ、目を覚ました。

 夜半に至って夜霧はいよいよ濃く、寸毫も先が分からない。だが、酒精の元だけは奇妙に浮かび上がって見えた。眼前には、いつのまにかの洞穴が開いていた。芳しき酒精は、そこから漂っていた。

 その三日後、峨眉山より降りた李太白は、何かに魅入られたように詩を書き散らすようになった。刻む詩はいずれも豪放にして繊細。いつしか詩仙の称号を奉られ、時の玄宗に仕え、爵位すら賜った。

 だが、位人臣を極めても、李太白の心は洞穴の中に見た光景に囚われていた。洞穴の奥に見た桃源郷に。

 その後、李太白は朝廷に暇を乞うて許され、再び各地を放浪し、やがて宣州に至った。

 県令の食客となり、何不自由ない生活を送る中、彼の心からは、ようやくあの風景が消えようとしていた。

 ある夜、李太白は、県令の邸宅の池に舟を浮かべ、歌を吟じた。

「花間一壺の酒、独り酌んで相親しむ者無し」

 それは、後の世に言う月下独酌。滔々と李太白の歌は進み、

「盃を上げて名月を眺め、影に対して三人となる」

 その目に池に光る月影が映った。それは、あの日見た桃源郷のように、彼の詩をもってしても表現できない美を備えていた。

 李太白の心は再び桃源郷に囚われ、迷いなく池に飛び込んだ。

 県令の邸宅から、驚いた使用人が駆け寄ってくるのが見えた。各々が「李太白、李先生」と、大声で名前を呼んでいるのが聞こえる。

 だが、どうか静かにして欲しい。私はようやくまた桃源郷を見つけることができたのだから。

 湖中に身体を没しつつ、李太白は月影を抱いて静かに目を閉じた。

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