或る住民
「ここに家を買うなんて、お目が高いねぇ」
郊外の比較的地価が安いところに戸建ての一軒家を買った。
入居したその日、近所に住んでいるという老人に話しかけられた。上手く言葉が出ず、会釈しか返せなかったが、老人は気を悪くしなかった様子で、わざわざこちらの敷地にまで足を踏み入れてきた。この田舎の人付き合いの距離は、慣れるまで時間がかかるだろう。
「この辺りはねぇ。江戸は文禄の頃に開墾された、歴史あるどころでねぇ。住んでる人も、みぃんな上品なんだぁ」
「そ、そうなんですね………。そんな場所に住めて、私も光栄です」
露骨な自画自賛に気を取られ、そう返すのが精一杯だった。老人の顔に浮かぶ、張り付いたような笑顔もさらなる嫌悪感を催した。「と、ところで」と、強引に話題を変えた。これ以上、老人の自画自賛には耐えられなかった。
「すぐ隣の区画には家がない緑地が広がってますが、一軒だけポツンと家があるんですね」
他に話題などなかったが、近所付き合いのためにも、なんとか言葉を捻り出した。
だが、その話題を聞いて、老人は急に表情を変えた。
「ああ、あの緑地ね………。わしらと上手くやっていきたいなら、あそこには近づかんことじゃ」
それから数日後、スーパーの帰りに、何の気無しにその家の前を通った。家の前には、田舎にありがちな、野菜の無人販売があった。葉物野菜のみずみずしさに惹かれ、つい手に取ったが、直後、後悔が心を満たした。
野菜はどれも腐り切っており、葉物の緑と思ったその色は、得体の知れない粘液の色であった。そもそも、どれほど調べても、売られていた葉物野菜の種類がまるで分からなかった。
後日、またその家の周りを通った際、今度は洋食器が置いてあるのを見つけた。「ご自由にお持ちください」そう、印刷したような整った書体で書いてあった。そして、やはりその食器には得体の知れない粘液が付着していた。
その後、ある寒い冬の日、またそこを通りかかった時、思わず息を呑んだ。その家の背後に広がる土地には、いまだに緑が残っていた。いや、その時初めて気が付いた。あれは、植物の緑ではなかった。あの粘液が満ちて………。
一体、あの家には誰が、いやナニが住んでいるのだろうか。もう自宅を解約することなどできない。あの家を視界に入れず、ナニカを刺激することなく、淡々と生きていくことしかできない。好奇心さえ打ち消す、抗えない恐怖とととに。
数年後、この区画に新たな住民が引っ越してきた。
「俺たちと上手くやっていきたいなら、あそこには近づくな」
いつか聞いたようなセリフを、私は入居者に伝えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます