砂漠のクジラ
──砂の海
天頂を星が満たす静寂の夜、テントをラクダに積みながら、バーキルの父は眼前の砂漠をそう表現した。死のたゆたう太陽に熱せられていた風は月に静められ、まだ幼いバーキルの体を心地よくくすぐっている。父との初めての行商の旅は、まだ半ばを過ぎたばかりであった。
「アビー、海ってなあに?」
父の言葉に、思わずバーキルは聞き返した。内陸の村に生まれた彼にとって、海とは想像の中にさえ存在しないものだった。
「海は塩の混じる水に満ちたオアシスのようなものだ。だがオアシスとは違い、どこまでも広く、大きいものだ」
「どこまで続いているの?」
「想像もできないほどの果てまで続いている。その果てには、海が地の底へと落ちてゆく断崖が待ち構えている」
「……アビー、怖いよ。僕は海が怖いよ。落ちたら死んじゃうよ」
地の底へと落ちていく自分の姿を思い浮かべ、バーキルは目に涙を浮かべた。これから彼らは、この砂漠を越えて港町に至り、そこからヒンドと呼ばれる国まで海をわたるはずであった。
息子の様子を見て、父はふっと柔らかく微笑み、バーキルの頭を優しくなでた。
「この父とアッラーフがお前についている。何も心配はいらない」
「いやだよ、僕は怖いよ。村に帰りたいよ」
一度感じたぼんやりとした恐怖は形をなし、バーキルの心を満たした。幾筋もの涙がほほをつたい、乾いた砂漠を濡らした。
「……ムハンマド・バーキル・ハキーム」
しばらく泣きじゃくっていたバーキルは、正しく名前を呼ばれ、驚いて目線をあげた。そこには、今も穏やかな笑みを浮かべる父の顔があった。
「バーキル、これを見なさい」
──シャリン
美しい音とともに、父の腰から短刀が抜かれた。ジャンビーヤと呼ばれるその短刀は、空に浮かぶ三日月に似た流麗な曲線と輝きを持っていた。
「我々アラブは商業の民。信義と武勇を重んじ、契約を守ることを至上とする。もし危機にあっても、信仰と武勇があれば必ず道は切り開かれる」
何度となく振るわれたのであろう父のジャンビーヤは、手によく馴染んでいた。吸いよせられるように短刀を見つめるうちに、いつの間にかバーキルの涙は止まっていた。
「さあ、出発しよう。この旅が終われば、お前の腰にもジャンビーヤが輝くことになる」
バーキルはその言葉に高揚し、はやる心を抑えながらラクダにまたがった。
月下に砂の海はどこまでも続き、港町はまだその姿を現さない。二人が去った後、また静かな風が吹き、砂漠にクジラが泳ぐように、砂丘の形をゆっくりと変えていった。
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