そこは定型文だろ

「ところでのう、近頃、飛蚊が多くて困っておるのじゃ」

「まことに飛蚊はうるさきものにて」

「どこより湧き出でるか、知っておるか?」

「不勉強にて、さようなことは」

「……印旛じゃ」

「ほほう、それはそれは……!」

 ───これで我が店は江戸一の大問屋となる。繰り返した饗応がようやく実を結んだ。

 越後屋の屋号を掲げる江戸商人は、心中に嘆息を漏らした。彼の眼前には幕府の代官が、右手に酒杯を持ち、左手に遊女をはべらしている。

「尚武の気風に満ちた戦国の世は終わったのじゃ。今の時代は、ここよ、ここ」

 代官は手にした扇子で頭を叩く。それを見て、越後谷はへつらいの笑みを浮かべながら額を畳にこすりつけた。


 ここは江戸のはずれの深川岡場所。公認の遊郭たる吉原の秩序だった淫靡さとは異なり、無軌道な性に溢れる色街である。

 江戸町人が増えるに従い、幕府は新たな干拓地を必要とした。すでにその場所は定められており、名を印旛沼といった。だが、その沼に土木の手が入ることは秘密とされており、町人はおろか商人すら知りうることは出来なかった。知ることができれば、材木の発注から人足の派遣まで、多大な利をもたらすであろう。

 越後屋がこの代官に接待を繰り返したのは、この土木の場所を聞き出すためであった。


「……まことに勉強させていただきました。こちらは好物と聞き、用意致したものにございます」

 越後谷は“もなか”と書かれた箱を代官に差し出した。箱を開くと、眩い山吹色の輝きがあたりを照らした。

「ほう、これはこれは旨そうな“もなか”じゃ。……越後屋、そちもワルよのう!」

 にたりと笑いながら代官は、“もなか”を大事そうに抱え上げた。

「いえいえ、悪代官さまほどでは……」

 越後谷もにたりと笑いながら応じた。

 下卑た笑みを漏らす代官と越後谷の横で、遊女だけがその言い間違いに気づき、肝を冷やしていた。

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