孕ませてください

「……孕ませてください」


 月光も届かぬ深い山中。深夜に私のいおりを叩いたその女は、うつろな瞳でそう呟いた。まだ若い。歳は十七、八といったところか。あでやかな黒髪が、夜の闇に溶け込むように流れている。

 周りを見渡すも、暗闇に人の気配はない。この女は一人でここに来たようだ。庵に招き入れ、囲炉裏の傍らに座るよう促すと、女は従順にそれに従った。

 何故ここに来た。その問いに、女は訥々と語り始めた。

「私はここから山二ツ越えた東京市の出でございます。今から2年前までは、父と母、そして妹と暮らしておりました。けっして裕福ではありませんでしたが、幸せでございました」

 女の言葉は、私の興味を引いた。

「家族は亡くなられたのか?」

「父も母も、幼い妹さえも殺されました。官憲の手によって」

「官憲もとがなく殺すまい。お父上はいったい何をされた?」

「何もしておりません。ただ、徴兵を忌避しただけにございます。父は生来より基督キリスト篤信とくしんしておりますれば、無用の血と戦を嫌ったのでございます」

 ようやく、この女が私のもとを訪れた理由を察した。なるほど、そうであれば確かにこの女は孕みたいと思っているのであろう。だが、

「そうであれば、貴方も基督教徒であろう。無用の流血は忌むべきではないのか」

「どれほどの篤信も、官憲の弾圧の前には無意味でした。もはや今は、信仰に価値はないと思うに至りました」

「どこで私を知った?」

「父が生前、井上日召和尚と知己を得ておりますれば」

「なぜ私を選んだ?」

「貴方が井上和尚より薫陶くんとうを受けた、国体転覆論のイデオローグだからでございます」

「そこまで知っているのであれば、覚悟は出来ていると言うことか」

 女は深く頷くと、差し出された茶を一口にすすり、返事をした。それは、洞窟から響くような仄暗い響きを持つ声であった。


 ―――故に、私に狂気を。無情に万人を害するための狂気を、


「孕ませてください」

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