こんな世界に独りにしてごめんね
風の音を、陽の光を、小川のせせらぎを感じる者がもう誰もいない、柔らかな静寂に満たされた世界で、今日もその他愛のないおしゃべりは続いている。
「今朝は何食べた?」
「私はいろんなの食べたよ。そっちは?」
「俺はいろんなの食べたよ」
「そっか、一緒みたいだね」
「もう時間来ちゃったかな? また電話するね。じゃあね」
「うん。待ってる。じゃあね」
世界のどこかで生まれた未知のウイルスが、地球を一周まわりきるのに2週間とかからなかった。罹患した者に永遠の眠りを届ける、それは小さい死神だった。
この小さな生物に、人類はあまりに無力だった。唯一できたことは、生存者すべてを個別に完全隔離し、人類種の存続を祈願することだけだった。多くの別離と喪失がそこに生まれ、ある恋人の別離もその数多の悲劇の一幕を飾った。
「あーあ、退屈だ。まだ生きてる?」
「生きてるよ。しっかし食料って何年分あるんだ? 寿命迎えるまでに食べ尽くせるのか?」
「ご飯なんかどうでもいいよ。一日一回しか恋人と電話できないなんて横暴でしょ! ねえ、私はもっと話したいよ。これからも、ずっと。ずーっと」
「俺ももっと話したいよ。ずっと声を聞いていたい。許されるなら、そばに行って抱きしめたい」
「……ずるいよ。電話切れないじゃん。また、明日も必ず電話するね。バイバイ」
彼らの部屋には外側から鍵がかけられており、いつか奇跡が起きてウイルスが死滅した時に、自動的に解錠されるはずであった。それまでは、短い電話だけが彼らに許された唯一の交際だった。
恋人の声を最後まで聞き、名残惜しそうに電話を切ると、男は激しく吐血し、「次が最後かな」と呟いた。隔離が始まって一年。小さな悪魔はどこからともなく忍び寄り、数日前から、男の呼吸には
「せめて、あいつが寂しくならないように……」
そう呟くと、男は口元の血を拭い、精一杯明るい声で、電話の自動応答に思いつくかぎりの言葉を録音し始めた。
翌朝、いつもの時間に電話が鳴った。
「よっ、俺だよ! おはよ! 今朝は何食べた?」
「私はいろんなの食べたよ。そっちは?」
「俺もパンからオムレツまでいろんなの食べたよ。早くも眠くなっちゃった」
「そっか、一緒みたいだね」
「早いなぁ。もう電話切る時間かな? 絶対に電話するよ。明日も待っててね」
「うん。待ってる。じゃあね」
恋人の声を最後まで聞くと、男は壁にもたれかかった。白く濁りはじめた視界の中、手探りでゆっくりと受話器を置くと、崩れ落ちるように座り込んだ。
「……こんな世界に一人にして、ごめんね」
ここから遠く離れたどこかで、昨日、彼女がそう呟いたように、男もまた最後にそう呟き、静かに事切れた。
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